コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 105 - よいち水産博物館④ 北海道鰊大漁概況之図、奥寺家の神棚、そして会津藩士団(2021年11月13日/11日め)
(2023/04/02 15:50記)
2021年11月13日 よいち水産博物館で。かつて、リンゴの木箱に貼られていたラベルの数々です。(北海道余市郡余市町)
11月13日(土)
よいち水産博物館に来ています。
前回は、陸揚げされたニシンが、
もっこ背負いによって運ばれ、
ニシン粕に加工されるまでを見てきました。
ニシン漁場の一連の作業について、
「北海道鰊大漁概況之図」という、
明治時代に描かれた絵が残っています。
横長の壮大な絵なので、4分割で掲載いたします。
右下:カムイに祈りを捧げるアイヌ民族が描かれています。
左下:陸揚げされたニシンを、もっこ背負いが廊下へと運び、ニシンつぶし、釜炊き、干場、船積みなどの一連の作業を行っています。
右上:海上では、定置網漁と刺網漁がおこなわれています。
右中:警察官や病院長などのお偉方に、大船頭が漁の模様を説明しています。対応を増させた洋装の主人は、望遠鏡で漁の模様を眺めています。
中央:ニシンの搾りかすの塊や、細かく砕いて干している様子が描かれています。小間物商や木綿商、餅を売り歩く人や収税委員なども随所に見られます。
右下:干場のニシン粕にムシロをかけて発酵させています。粕が灰色から茶色に変色すると、俵につめます。
左下:俵詰めされたニシン粕が、船で出荷されるところです。
ニシン粕は、さらに大きな舟に積まれ、日本全国へと運ばれました。
ジオラマもありました。定置網漁でニシンを獲っているようすです。
浜を埋め尽くすように、たくさんの番屋が並びます。
ニシンの釜炊き場や、ニシンを干す納屋場も見えます。
最後に、奥寺家の神棚が展示されていました。奥寺家は、1870年に余市に移住し、余市地方で大型の網を使ってニシン漁を営んでいました。明治から昭和にかけては、ニシンの定置網10か所以上を運営した大漁家でした。神棚は、ニシン漁の大漁、作業の安全、無病息災を祈ったもので、今も多くのお札が残されています。
1868年からニシン漁に携わった、中村家の神棚です。
ニシン漁船に積まれたお札と、お札を入れた木箱です。
ニシンを追って蝦夷地に出漁した人々が、大漁を願って信仰したのが、竜宮三尊(稲荷、弁財天、竜神)でした。
左から、弁財天、竜神、稲荷(ニシンの神様)です。
さて。
この博物館に来て、
私たちが初めて知ったことを、
最後に書いておきたいと思います。
それは、余市に入植した、
会津藩士団についての展示でした。
会津藩士団が提出した御受書の副本が、今もよいち水産博物館に保管されています。
【会津藩士団の御受書】
1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争で、会津藩は最後まで戦い続けましたが、討幕軍との激戦の末に降伏し、ついに廃藩となりました。敗残の会津藩士たちは、「朝敵」「逆賊」の汚名を着せられて蝦夷地行きを命ぜられ、1869年(明治2年)に小樽に到着します。翌年、余市郡への移住が決定すると、旧会津藩士団は、開拓使に御受書を提出します。そこには、「朝敵」の汚名をそそぐ固い決意を表して、227名の名を印し、血判を押してありました。その副本と思われるものが、よいち水産博物館に保管されており、余市町指定文化財となっています。
右上にあるのが御受書です。文書のはじめには、「朝敵(天皇の敵)」と呼ばれた汚名をはらす決意とともに、「天皇のご恩に報いて仕事に励み、もしも怠ればきつく戒めていただきたい」という意味の言葉が記されていました。
【入植後の会津藩士たち】
士族から農民へと立場が変わった旧会津藩士たちは、御受書に記した決意の下、刀を斧や鍬に持ち替え、周囲からの「会津降伏人」という蔑視に堪えながら、荒れ地を耕し、開墾に励みました。過酷な重労働と苦しい生活が続く中、1879年(明治12年)に、少量ながらリンゴが結実。その後、「余市リンゴ」は名声を博し、余市地方周辺の果樹栽培の基礎を築くこととなりました。
【農業移民とリンゴ栽培】
大木が空を覆い、熊笹や雑草が生い茂る原野に入った旧会津藩士たちの生活は過酷で貧しいものでしたが、やがてリンゴが実り、収穫が安定すると、暮らし向きは良くなっていきました。
明治12年ごろには、会津藩士団に続いて秋田団が入植し、その2年後には筑前団も入植。こうして、余市町のリンゴ栽培は広がって行きました。
かつて、リンゴの木箱に貼られていたラベルの数々。左の中段にあるのが、旧会津藩士団ゆかりのラベルです。右上にあるのは、木箱を開ける時に使ったくぎ抜き。そうでした。小さいころ、リンゴは木箱に入っていました。もみ殻も詰まっていましたよね。^^ 右下は、抜き型です。木箱にあてて、上から墨でこすり、文字を書きました。
会津藩士団の子弟の武芸修行のために、講武館が設けられ、剣術や槍、柔術の指導が行われていました。そこで教えられた柔術(真妙流)は、江戸藩邸や会津で伝えられてきたもので、会津藩士団によって、余市にも伝えられました。
彼らの苦労を偲び、1920年(大正9年)、「開村記念碑」が建立されました。余市入植50周年を記念して、旧会津藩関係者が建てたものです。(余市町指定文化財)(画像をお借りしました)
【開村記念碑】
記念碑が建てられている付近は、かつて藩士団の幹部住宅や教学所、共同浴場などがあった場所で、その通りは現在も「侍小路」の名で親しまれています。石碑の横には、オンコ(福島のイチイ)が見えます。これは、1984年(昭和59年)、会津藩最後の藩主である松平容保公の孫にあたる松平勇雄福島県知事が来町した際に、植樹したものだそうです。また、その向かいには、戊辰戦争の責任者として切腹した会津藩家老の萱野権兵衛を偲び、「殉節碑」が建立されました。
イチイの木についての説明は、こちらに書いてあります。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 5 - 平岡樹芸センター④ / RAMEN RS 改でお昼ごはん(2021年11月3日/1日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。
萱野権平衛とその次男・郡長正については、以前の会津日記で書いています。
コロナでも福島。満開の桜の下、城を仰ぐ 26 - 会津が教えてくれたこと(2021年4月10日/2日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。
2021年4月の福島旅行では、戊辰戦争での、
会津藩士たちの悲惨な最期の記録を見て、
胸を突かれるような思いでした。
が、彼らのさらにその後の話を、
遠く離れた余市で知ることになるとは、
想像もしていなかったので、
たいへん驚きました。
リンゴ農家として苦労の連続であっても、
子弟のための講武館を作った、会津藩士たち。
彼らはいつでも前を向き、武士としての誇りを
持ち続けていたのだと思います。
やはりどこまでも、会津藩士だったのですね…。
余市における現在の果樹栽培の
基礎を築いた、会津藩士団。
彼らの記録は、余市町はもちろんのこと、
明治期における北海道開拓と、
その後の農業の発展を語るうえで、
不可欠かつ貴重なものとして、
よいち水産博物館で、今も大切に保管されています。
(つづく)