MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
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コロナでも滋賀県。湖の国(うみのくに)を歩く、3泊4日のおトク旅 30 - 近江八幡・八幡商人の町①(2020年9月24日/3日め)

2020年9月24日 近江八幡市・新町通りを歩きました。


9月24日


五箇荘のある東近江市を出て、
お隣りの近江八幡市にやってきました。


五箇荘とよく似ていますが、近江八幡は城下町。こちらの方が規模が大きく、垢ぬけている感じがします。

観光名所のはずですが、私たち以外に、歩いている人がいません。五箇荘に続いて、ここでも貸し切り状態。笑


【近江八幡市】
豊臣秀次が築いた城下町を基礎として、近世は商業都市として発展しました。五箇荘と並んで、近江商人の発祥の地と言われています。近世の風情がよく残る新町通り、永原町通り、八幡堀沿いの町並みおよび日牟禮八幡宮境内地は、「近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されており、時代劇の撮影場所としてもよく使われます。


「新町通り」を歩きました。
ここは、「近江商人の町並み」と
言われています。


滋賀県から生まれた近江商人の中でも、
この地域の商人は、
「八幡商人」と呼ばれました。
(対して、五箇荘の商人は、
「五箇荘商人」と呼びます。)


八幡商人は、近江商人の中でも、
最も早い時期に活躍しました。
江戸出店も、最も早く、
海外進出まで果たしました。


新町界隈には、
当時活躍した八幡商人の住居が
多数残っています。
その凛とした景観は、
史跡としても重要なものとなっています。


新町通り。江戸時代末期から明治にかけて建築された商家が、整然と並んでいます。


わけもわからず歩いていたら、
旧西川利右衛門宅(重要文化財)
を見つけました。笑
町内屈指の八幡商人居宅で、
新町通りの町並み景観の、
もっとも重要な一翼を担っているそうです。


旧西川利右衛門宅(画像をお借りしました)


【旧西川利右衛門宅】
西川家は、蚊帳や畳表を商い、江戸、大坂、京都に店を構えました。現在残っている旧西川利右衛門宅は、3代目によって、1706年(宝永3年)に建てられたものです。

昭和5年に、後継者が無いまま11代目が亡くなり、約300年にわたって活躍した西川家は終焉を迎えました。
西川家の家訓は「先義後利栄・好富施其徳」。「義理人情を第一とし、利益追求を後回しにすることが、商売繁盛となる。得られた富に見合った人間形成を行え。」と説いています。


通りに面した木戸をくぐると、細長い路地が続きます。

そのつきあたりにある、土蔵。この土蔵と向き合う形で、入り口があります。

入場料を払って入ります。

天井が高い、吹き抜けの土間。かつてのにぎわいが伝わってきそうです。ここは裏口だったようで、左側に台所が見えます。

台所です。


この家屋にも二階があるのですが、
階段は使えないようになっていました。
見学できるのは、一階部分のみです。


様々な生活用品が展示されていましたが、
特に心に残ったのは、
子どもが使っていたという、
おままごとの道具です。


かなり精巧に作られています。ひとつひとつがかわいらしくて、つい見入ってしまいました。


つづいて、
旧伴家住宅へ行ってみました。


【旧伴家住宅】
主の伴庄右衛門は、江戸初期に活躍した八幡商人でした。寛永年間に東京日本橋に出店し、麻布・畳表・蚊帳を商いました。5代目の伴蒿蹊は、18歳で家督を継ぎ、大坂淡路2丁目に出店。以後も、伴家は繁栄を誇りましたが、明治維新等の激動期に逆らえず、明治20年に終焉しました。
今に残る旧伴家住宅は、7代目伴庄右衛門能尹が、1827年(文政10年)より十数年をかけて建築したものです。明治時代になって当時の八幡町に譲渡され、その後は、小学校・役場・女学校へと変遷しました。戦後は図書館として使用され、その後の整備事業を経て公開されています。


旧伴家住宅


近江八幡に着いたのは夕方に近く、
どちらも、閉館時間ぎりぎりで、
かろうじて入ることができました。


このあと、西川庄六邸も見つけたのですが、
ここは非公開となっていて、
外観のみを見ることができました。


【西川庄六邸】(滋賀県指定文化財)
西川庄六家は、2代目西川利右衛門の子供である「庄六」を初代とする商家です。古くから、蚊帳、綿、砂糖、扇子などを取り扱い、近江八幡では本家である利右衛門に次ぐ豪商として発展しました。3代目庄六の代に、薩摩藩主島津家御用商人になり、江戸にも出店しています。
現在の主屋は江戸時代中期(1785年ごろ)に建てられたもので、大型町屋建築の遺構として貴重な存在です。木造2階建てで、外壁の向かって右端には、防火のためのウダツが掲げられています。


西川庄六邸

隣接している家屋との境目に、屋根よりも一段と高くこしらえた壁のようなものが造られています。これが「ウダツ」です。


実は、この界隈には、まだまだ、
多数の旧八幡商人家屋が残っています。
が、到着が遅かったので、
すでに閉館時間を過ぎていました。


残念ですが、旧家屋の見学はここまでです。
あとは、古い町並みを楽しみながら、
歩いてみることにしました。


(つづく)

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