2012年11月6日 点字を読んでいます。(全盲難聴・のんたん 17歳)
職場復帰
子どもたちの一歳のお誕生日が近づいてきた。それは、私の職場復帰が間近にせまっているということを意味していた。
苦労したあげく、のぞみとあみかはなんとか、K共同保育所に入れてもらえることになり、会社では、私が戻る職場も用意された。なにも問題はなかったのだが、私には心配していることがひとつあった。それは、田中先生は私が働くことを反対しないだろうか、という懸念だった。
このころ、ひまわり施療院には、治療の希望者が殺到していた。
先生は、一切宣伝をしない主義の人だった。宣伝したために希望者が殺到し、自分には治せるとわかっている人を断らねばならなくなるのがいやなのだそうだ。ところが、ひまわり施療院を開設するにあたって、唯一ある雑誌に登場した。それがきっかけとなり、多くの申し込みが来るようになっていた。だが、ひとりの施療には、最低でも5ヶ月かかるのだ。
それだけではない。ただでさえ多忙だというのに、先生は、国内のみならず、年に一、二回は海外でも施療をおこなっていた。中国やアメリカ、オーストラリアなどにでかけては、実際に治療をしてみせて、その国の様々な側面から自分が評価されることをとても喜んでいた。そして、帰国するときには、治療している子どもたちへのお土産を買って来ることも、けっして忘れない人だった。
そんな具合だったから、当時は、施療を希望しても空きはなかなか来なかった。それでも、そんな状況にありながら、私たち一家には先生が特別目をかけてくれていることもわかっていた。すべては、先生の胸ひとつなのだ。
私が恐れていたのは、先生が、「こんな子どもを抱えて働くなんて。」と言い出すことだった。先生の年齢の人なら、女性が働くことにはそれほど理解はないであろう。そして、そのことばは、「仕事なんて、辞めなさい。」に発展するのではないだろうか。事実、障害児を持った女性が仕事をするとき、子どもの主治医からひどいことばでそれをなじられるという例はいくらでもあった。
幸いなことに、それまで私は、誰からもそんなことばを言われたことはなかった。が、もしも私が先生にそう言われて、それでも言うことをきかないで仕事を続けたら、のぞみはこれ以上治療を施してはもらえないのではないか。なによりもそれが心配だった。
それでも、仕事を始めたら週末にしか通えなくなるのだから、先生に秘密にしておくことはできない。私は、恐る恐る、職場復帰が近いことを先生に打ち明けた。
ところが、予想に反して、先生は淡々としていた。
「そう。いつから? たいへんねえ。ほんとに、みんながんばること。」
偶然だったが、同じ時期に職場復帰するおかあさんがもうひとりいたのだ。彼女も、ダウン症の長女を預かってくれる共同保育所をやっとの思いで見つけ、仕事を続ける手はずを整えていた。既に薬剤師として仕事をしている女性が、さらにもうひとりいた。彼女の長男も、ダウン症だったそうだ。
障害児がいても仕事を続けることに疑問を感じない女性が、少しずつながら増えている時代のせいかもしれない。さらには、現状に甘んじず、様々の可能性を求めて全力を尽くすような性格ゆえに「ひまわり施療院」に飛び込むような母親の中には、仕事も、育児も、とがんばってしまう人が多かったのかもしれない。
いずれにしても、田中先生にとって、「障害児の母親が働くこと」は、それほど珍しいことではなくなっていたようだった。私が密かに心配していた割には、ことはすんなりと進んでしまった。
わたしのワーキングマザーとしての生活が、いよいよ始まろうとしていた。
(つづく)