1997年夏
(全盲難聴・のんたんと、双子の妹・あみちゃん 2歳)
9月のブログで、「刷毛醤油海苔弁」をご紹介したのですが、
それを読んでくださった まろかんさん が、同じお店にいらしてくださいました!
リブログまでしてくださり、ありがとうございました。^^
情報を利用していただけて、うれしいです。
はげみになりました。ありがとうございます。
(ちなみに、まろかんさんが10月30日に紹介しておられた「銚子丸」は、
我が家のいきつけでもあります。笑)
ふしぎな体験 - 1995年12月
そのころ田中先生は、昼間、某ホスピスで末期ガンの患者を癒す仕事をしていた。夜、市川にある自宅に帰り着いてからでよければ、という先生の申し出に、私はとびついた。
12月半ばのある夜、京成線の最寄り駅の改札口で、先生と待ち合わせた時間は9時だった。「ふつうの風邪が命とり」と言われていたのぞみを、寒い時期に、よくもまあ連れ出したもの、と我ながら思い出す。けれど、そのときの私は必死だった。おくるみでのぞみをすっぽりと包み、ママコートの内側にしっかりと抱いて、おそるおそる、家の外へと連れ出したことを、今でも鮮やかに思い出す。
夫の帰宅は毎日11時ごろだったから、あてにはならなかった。当時、家には車もなかったので、私はたったひとりで電車とバスを乗り継いで、市川へとでかけていった。
夜9時、約束通りに待ち合わせ場所に現れたのは、どこから見てもふつうのおばさん、といった風の女性だった。
これからどうなるのだろう…?
私は、期待と好奇心とでいっぱいだった。私たち親子のほかに、もう一組、小学生の男の子とその母親も来ていた。男の子は、自閉症だった。
全員そろって、駅からほど近い、田中先生の自宅へと歩いた。そこが、「ひまわり施療院」としてスタートする予定になっている場所だった。
田中先生の子どもたちはすでに独立してしまっていて、夫婦ふたりきりで住むにはあまりにも広すぎる自宅の2階部分は、やがて、5部屋あるすべてが施療院のために使われるようになるのだが、その夜はその中の2部屋に通され、施療が始まった。
「気功」とは言っても、田中先生の気功は、中国のそれではない。彼女の血筋に伝わる特別な力だということだった。自分の祖父が生前持っていたその力を、自分も同じように授かっている、と彼女が気づいたのは、結婚し、出産した後だったそうだが、それから長い年月をかけて、無料で数多くの人に施療することで勉強を重ね、現在へとたどりついたとのことだった。
施療のために用意されているベッドの上で、先生はのぞみを抱くと、しばらくの間、じっとようすをうかがっているようだった。それから、頭、顔、両手、両足…などと、からだじゅうを順にマッサージしていった。のぞみは、まったくいやがるそぶりも見せず、実に気持ち良さそうにされるがままになっていた。
「からだがまがってるわね。これを治さないと、いつまでも病気ばかりが続くのよ。」
先生の施療の主たる目的は、「自然治癒力を高める」ということだった。自然治癒力を高めれば、その結果として様々な病気も良くなっていく、という考えは、私にもわかりやすく、納得できるものだった。
のぞみともうひとりの男の子のマッサージは、休憩を入れながら、かわるがわる続けられた。いっぺんにするよりも、こうして休みをいれながら続けるのがいいのだそうだ。
先生独自のやりかたで、からだじゅうのマッサージが終わると、先生は右手を斜め上に伸ばし、手のひらをのぞみにかざすようにした。「手かざし」なんて、なにかの宗教みたいだ、と、私は少し不安になった。
子どもたちの施療が終わると、今度は親の番だった。
子どもだけが元気になっても、家族が元気にならなければ、病気のたねは残っている。だから、子どもといっしょに家族全員の施療も行う、というのが、先生のやり方だ。ただし、費用がかかるのは子ども本人だけ。他の家族は、全員、無料でやってもらえるという。
先生に言われるままに、私はイスに腰かけた。先生は、頭部を中心に、私の肩や腕をマッサージした。つまり、のぞみがされていることを、私も少しだけ体験できたわけだ。そして、ひととおりのマッサージが終わったあと、
「目をとじて」
と、私の後方から話しかけた。
言われるままに目を閉じた私には、後ろで先生が何をしているのかはわからなかった。だが、次の瞬間、驚くことが起こった。
床についていた私の足の裏から、びりびりと痺れるような感じがしてきたのだ。そこから両膝へ、そして太ももへ、と、なにか暖かいものがさあ~っとあがってくるのがわかった。なんだろう、ととまどっているうちに、施療は終わった。
その後、施療を繰り返すうちにわかったのだが、先生が私に向かって手をかざし、気を送り込んだときに、必ず、その暖かいものはあがってくるのだった。それがなんだったのかは最後までわからなかったが、先生の「気を受けた」ときには、とにかく私は、いつもその暖かいものを感じていた。それはとても不思議な体験だった。
施療は、全部で20回が一コースとなっていた。一コースが20万円だと、雑誌の記事には紹介されていたが、先生がお金を必要とするような暮らしではないことは、容易に想像できた。
「お金はどうでもいいんだけどね。安くしちゃうと、どっと来ちゃうでしょ。そうすると、断るのがたいへんになってくるから。これくらいの費用がかかってもかまわないから、どうしても治して欲しい、と思うくらい困っている人だけを看たいのよ。だから高くしてるし、一コース20回全部を通ってこられる人しか看ない。そのかわり、家族はみんな、無料でやってあげるの。」
施療をしながら、先生はそんなふうに説明してくれた。
このコースには、さらに、アメリカで専門の教育を修めた人によるカウンセリングが、5回分、含まれていた。「心の中にためてきたいろいろなものも、いっしょに癒しなさい。」というのが、田中先生の考えだった。
20万円は大金だ。だが、私は、これにかけてみようと思っていた。その日、料金を支払おうとしたのだが、先生は受け取らなかった。一月になって、施療院が正式にオープンしてからでいいから、と言われ、その夜は結局、一円も払わないで帰ってきた。
なにもかもが、不思議な体験だった。
(つづく)