MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

全盲難聴・のんたんの冬休み 7 - 大晦日の特上寿しと、年越しのクラッカー / MIYO家の年賀状1986-1989(2023年12月31日/8日め)

2023年10月24日 インド・アジャンター石窟群で。今年の「年賀状メール」の写真にしました。


2024年1月1日(月)


新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。


ブログを書き始めて、この1月で8年めに入ります。
きっかけは、がんの再発でした。
「まだまだ、自分はなにも書けていない。」
と痛感し、
長く停止していたHPの後継サイトとして、
ブログを書くようになりました。
20年前に書いていた家族の日記はこちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/


当初は、
「障害者の家族として、がんサバイバーとして、
 日々の出来事を書き続けたい。」
…と思っていましたが、今ではほとんど、
リタイア後の旅日記になってしまいました。😅


それでも、書き続けていくうちに、
思ってもみないことでしたが、今では、
私の叔父・叔母たち、いとこたち、義妹、
そして同級生たちまでもが
読んでくれているそうで、
私の安否確認になっているようです。^^


読者登録してくださった方は、
2年前のお正月に1000人になりましたが、
そこからさらに増え、今年のお正月には、
1142人もの方に登録していただいており、
自分でも驚いています。
本当にありがとうございます。


毎日書き続けるというのは、
正直しんどいときもありますが、
「覚えているうちに書いておこう。
 書き残しておけば、
 何年たっても、ブログを見るだけで、
 思い出せるから。」
と言う気持ちで、一日一日を書いています。
読んでいっしょに楽しんでくださる方が
いらっしゃるということが、
書き続けていく励みです。


今年も愚直に、ただ書いていこうと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
みなさまにとって、良い年でありますように。


12月31日(日)- 8日め


長男の冬休み、8日めです。


今日も元気です。なんと、「HIROKO KOSHINO BOYS」のシャツを着てますが、これは、甥っ子のおさがりをもらったものです。😅


お昼ごはんは、冷蔵庫・冷凍庫の余りもの大会。
大晦日ですからね、そうなりますよね。😅
(↑うちだけですかね?笑)


お昼ごはんです。ガパオの残りをリメイクした炒飯、ベトナムフォー、オイシックスのチヂミとメンチカツ、焼き小籠包、ひじき煮。


具が多すぎてよく見えませんが、
丼の下の方に、フォーが沈んでいます。笑


お昼ごはんを完食した長男。
そのまま、自分の部屋に行くのかと思ったら、
ドアの前で立ち止まり、歩こうとしません。
「なに? なにか言いたいの?^^」
と訊いたら…、


「パセラ、また行きたいね。」…ですと。🤣


はいはい、わかりましたよ…。😅
「1月2日にまた行こうね。」
と言ったら、
安心したように、部屋を出て行きました。😄


カラオケで年が終わり、
カラオケで年が明けるMIYO家です。


さて、夕方になり、
夫と長女が、近所のお寿司屋さんまで、
お寿司を受け取りに行ってくれました。


大晦日のごはんです。葛飾区キャンペーンのおかげで食べられた、特上寿し(笑)。その分、年越しそばはいつもより少なめで、4人で2玉にしました。

かき揚げ、かまぼこ、ニシンの甘露煮は、各自が自分の丼に入れます。😄


食事のあとは、歯をみがいてお休みなさい。
…のはずなのですが、この日の長男は、なぜか、
「クラッカーをやりたいの。」
と言い出しました。


クラッカーは、パセラに行くと、
無料でいただけます。
使い残ったものは、MIYOが持ち帰り、
ストックしてあるのを、長男も知っています。


そのクラッカーを長男の手に持たせると、長男、自分でヒモを引っ張り、「パーーーン🎉」と。うれしそうでした。😄


パセラのクラッカーには、中身がなく、
室内が散らからないようになっています。
ところが、この時のクラッカーには…、


「HAPPY!」と書かれたタブが入っていました。^^


期せずして、
「新年おめでとうのクラッカー」
になりました。😄


のんたん、明けましておめでとう。^^


(つづく)


(おまけのお話)


少しずつ、身の回りの物を断捨離しています。
2022年には、新聞の購読をやめました。
そして2023年には、「年賀状終い」のご挨拶状を
送らせていただきました。


年賀状を出すことには、意味があると思っています。
海外の様々な場所で撮った写真で作る年賀状は、
40年近い年月にわたって、MIYO家にとって、
作るのも送るのも、大きな楽しみでした。


ですが、この何年かで、しだいに、
その年賀状のために費やす、
多大な時間と労力、そして費用に、
気持ちがついていかなくなってきました。


とはいうものの、お正月というくぎりに、
なかなか会うことがない人々に、
なにかメッセージを送るということは、
それはそれで、楽しいことです。


なので今年は、「年賀状メール」を作って、
アドレスのわかる友人・知人にお送りしました。
少しずつ、ご返事もいただいていて、
それがまたうれしいですね。^^


送る方にも受け取る方にも負担にならない、
「年賀状メール」。
我が家はこれから、
この方法で行こうと思います。^^


過去に作った写真はがき/年賀状の数々です。
おヒマな方は、ご覧ください。^^


1986年タイで。結婚して1年。象と共に暮らす、カレン族の村で。象使いさんの赤い服は、カレンの民族衣装です。(1986年5月4日 タイ・チェンマイ/26歳と28歳)

1987年の年賀状。インドネシア・プランバナンで。もう37年も前になりました。この頃はまだ再建中でしたが、それでも大感動しました。今では見事な寺院になっているそうです。(1986年9月15日 インドネシア・ジャカルタ/27歳と29歳)

この頃は、賀状の写真を一枚に絞れなくて、自己満足で数種類作っていました。(受け取る人が見るのは、どれか一枚だけなんですけどね。🤣)

インドネシア・ボロブドゥールで。

1988年の年賀状。1987年のシーサンパンナの旅で訪れた、中国・石林で、サニ族の少女が来ていた衣装を、まるごと譲ってもらいました。友人の結婚披露宴にこの衣装で行ったら、めちゃくちゃウケました。笑(1987年2月6日 26歳と28歳)
関連した日記はこちらです。
のんたんのGW日記-12 雑貨の誘惑(5日め)
コロナでも上州2。からっ風に吹かれて歩いた群馬 2泊3日の湯めぐり旅 31 - 前橋へ / 忘れじの西双版納(2023年1月18日/3日め)

1988年の年賀状。ビルマ・マンダレーのお寺で。村の人々といっしょに踊りました。笑(1987年5月3日 ビルマ・マンダレー/27歳と29歳)

お引越しの挨拶状も、こんな写真で。(←アホ)

1989年の年賀状。台湾です。(1988年5月5日 台湾・台北/28歳と30歳)

台北に着いたら、日本から持って来たカバンがロストされていました。「なくなって困るものは預けない。」が信条の私たちなので、荷物がなくなってもとりあえず旅は続けられました。でも着替えがないんです。笑 台北で服や下着を買いそろえて凌いだという、思い出深い旅でした。写真の服は、そのときに台北で買ったものです。


このあと、年賀状の舞台はさらに変わって、
延々、30年くらい続くのですが、🤣
長くなりましたのでこのへんで。


アルバムはなかなか見ないけれど、
年賀状の写真は、さくっと見ます。
いただいた年賀状(写真)も、
データ化して、すべて保管してあります。


年賀状、やっぱり作っておいてよかったかな。
今はもう、作る気力がないですけどね。^^

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