MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、11日間の北海道 25 - 夕張鹿鳴館②(2023年5月13日/4日め)

2023年5月13日 夕張鹿鳴館で。(北海道夕張市)


5月13日(日)- 4日め


偶然、通りがかってしまった、
夕張鹿鳴館。
少しためらいましたが、思いきって、
正門の向こう側に行ってみました。


春ののどかな風景が広がっていました。

少し歩くと、板塀で覆われた場所に出ました。

右側には、大きな石がごろごろしています。ここはかつて庭園だったようで、池らしいものの痕跡も見えました。

そして左側には、こんな建物が…。

夕張鹿鳴館の玄関だったところです。

1913年(大正2年)に、迎賓館「旧北炭鹿ノ谷倶楽部」として建設された、夕張鹿鳴館。登録有形文化財や近代化産業遺産のプレートも、そのままに残っていました。

玄関から建物に沿って、さらに先へと歩きました。

いくつもの棟が続いているのですが、今はすべて閉ざされていて、人の気配はありません。

いちばん端まで歩き、ここで終わり、と思ったら…、

渡廊下がさらに設けられていて、その下をくぐって、建物の反対側に行けるようになっていました。

渡廊下が延びた丘の上にも、別棟があります。

この建物は洋風で、ロッジのようです。かつては、これらのひとつひとつが迎賓館として使われていたと思われます。

渡廊下の下をくぐって、反対側に出ました。何棟もの建物が連なるように建てられていて、保護板で覆われています。ここは、かつて夕張鹿鳴館が、最も美しい姿を見せていたところでした。

かつて入場券に使われていた、往時の写真と同じ場所です…。


胸がつまります。
「廃墟となっている」とは、
つまりこういうことなのか、と。


夫は、鹿鳴館を撮っているのかと思ったら…、

桜を撮っていました。😅

さらに歩くと、その先には、広大な庭が広がっていました。岩の上に、なぜか、仏像が一体、打ち捨てられたように置かれていました。庭の奥の方には、川と橋も見えます。

彼が本来置かれていた場所は、たぶんここではないように思います。


この広い庭を、かつては招待客が、
散策していたのでしょうか。
ガーデンパーティーや式典会場として
使われたこともあったのかもしれません。


遠い昔、ここを歩いた人々の、
笑いさざめく声が、かすかに、
聞こえたような気がしました。


庭を横切って、橋の手前までやってきました。

橋は雑草と落ち葉だらけでしたが、金属製で丈夫そうだったので…、

とりあえず、渡ってみました。

橋を渡り終え、振り返ると、桜の花の向こうに、変わり果てた姿の鹿鳴館が垣間見えました。

広大な庭園のあちこちに植えられていた、桜の木。その花が、訪れる人もいない庭で、せいいっぱいに咲き誇っていました。

橋の先は荒涼としていて、林が続いているだけだったので、歩くのはここまでにして、引き返すことにしました。


夕張鹿鳴館が廃墟になってしまったことを、
ほんとうに実感したのは、さらにこのあとでした。


(つづく)

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