MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 115 - 旧黒岩家住宅① 定山渓鉄道簾舞駅(2021年11月14日/12日め)

2021年11月14日 旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)で(北海道札幌市)


11月14日(日)


札幌市中心部から車を30分も走らせると、
山と川に囲まれた、のどかな風景が見えてきます。


葉を落とした木立ちがきれいでした。簾舞のあたりでは、こんな小高い山々が続きます。


aoiumiさんのブログを拝見していて、
ときどき、豊かな自然に恵まれた風景が
掲載されています。
たとえばこちら。↓
https://aoiumi.muragon.com/entry/77.html

「いったい、札幌のどこなのだろうか?」
と、いつも不思議だったのですが、
いやいや、さっぽろテレビ塔や大通公園とか
そんなのばかりが札幌ではないのだな、
と、ここへ来てみてようやく納得しました。^^


ということで、黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)です。札幌市で最古の木造建築だそうです。

手前には、当時の火の見櫓(半鐘櫓)が建てられています(復元)。

さらにその隣りには、こんな設備が残されていました。長く延びた綱の下には、井戸があります。この巨大なテコを使って、井戸の水を汲み上げたのだそうです。おそらく、井戸の水がかなり深いところにあったのだと思われます。

火の見櫓(左)と井戸(手前)です。

住宅全体の写真です。かなり大きいですね。


【旧黒岩家住宅(旧簾舞(みすまい)通行屋)】
札幌市簾舞にある、簾舞通行屋の遺構で、札幌における最古の木造建築です。1871年(明治4年)の本願寺道路の完成に伴い、開拓使によって旅行者などの宿泊・休憩施設として、翌1872年(明治5年)に建設されました。
①簾舞通行屋として
・1872年(明治5年)から1884年(明治17年)まで。
旅行者などの宿泊・休憩施設として建てられました。定山渓鉄道線開通以前には、簾舞は、札幌と定山渓を結ぶ連絡所の役割を果たしていました。そのために、馬も用意されていました。湯治場として有名だった定山渓まで行く際、簾舞通行屋は、途中で休息できる唯一の場所でした。その後、札幌本道(国道36号の元となった道路)が開通すると、本願寺道路の交通量は少なくなり、1884年(明治17年)に通行屋は廃止されました。しかし、屋守の黒岩家は、この地に留まりました。
②黒岩家住宅として
・1885年(明治18年)から1982年(昭和57年)まで
その後は、黒岩家3代にわたる住宅として使用されています。黒岩家は、旧屋部分を移設再築し、さらに馬小屋部分を含めて新屋部分を増築しました。同家は、この居家で引き続き宿屋を営みつつ、農業に従事しました。この家は地域の中心的存在で、役所の出先機関、学校、寄り合い場所としても利用されまし
た。また、明治時代以降も、豊平川のダム工事や道路拡幅工事の際に、作業員の宿泊施設として利用されました。豊平川対岸に、結核患者の保養所を兼ねた国立札幌南病院が設立された後には、見舞い客の宿泊に利用されたこともあったそうです。
③簾舞郷土資料館として
1984年(昭和59年)に、土地家屋を札幌市が譲り受け、2年をかけて、全解体の修復が行われました。現在の建物は、通行屋だった旧棟と新棟からできており、新棟は、馬小屋や納屋など、当時の開拓農家の様子と歴史資料を展示する郷土資料館として一般公開されています。開拓使時代の家屋構造を伝える貴重な建物として、札幌市の指定有形文化財および北海道遺産となりました。


ちょっと長いですが、要するに、
「明治時代の開拓使が建てた宿泊施設が、
 郷土資料館になりました。」

ということです。^^


それでは、中に入ってみます。

玄関を入ったところです。天井も梁も、かなり古そうですね。^^


受付では、係員のAさんが、
暖かく迎えてくださいました。^^


「どうです? このクマ、おおきいでしょう?」と。これだけの大きさのクマは、なかなかいないそうです。そして右は、帰り際にいっしょに撮らせていただいた写真です。このときだけ、お願いして、マスクを取っていただきました。

おもしろいお話を、たくさん聞かせていただきました。^^

旧黒岩家住宅の間取図です。外観から予想はしていましたが、中に入ると、想像以上に広い造りでした。

これは、玄関の右側の部分です。元通行屋だっただけに、鉄道資料館みたいになっています。奥に、馬小屋も見えますね。^^

定山渓鉄道ゆかりの品々。

椅子に座ってみると、電車に乗っているような雰囲気です。^^

吊皮に、「フルヤのキャラメル」と書いてあります。笑 壁に飾ってあるのは、定山渓鉄道の写真です。

フルヤのキャラメル(左)です。(画像をお借りしました)


【古谷製菓】
北海道札幌市にあった製菓メーカーです。1900年、札幌市で「古谷商店」として創業し、乾物商、精米、黒糖加工業を経たあと、製菓メーカーとして、当時は数々のヒット商品を生み出しました。一時は、首都圏のマーケットにまで進出し、日本テレビ系列などで提供番組を持つなど、隆盛を誇りました。しかし、ナショナルブランドとの競争の波にのまれ、1984年に倒産しました。

現在は、「ショコラティエ マサール」として生まれ変わり、札幌市内に3店舗、新千歳空港内に2店舗を構えています。「北海道のチョコレート専門店」として、地元の方々から親しまれているそうです。


かつてはこの簾舞を、定山渓鉄道やボンネットバスが走っていました。


【定山渓鉄道】
かつて北海道札幌市白石区の東札幌駅から南区の定山渓駅を結んでいた、定山渓鉄道(現:じょうてつ)の鉄道路線です。1969年に廃止されました。
1918年の開業後は、定山渓温泉の発展とともに順調に業績を伸ばし、1932年には札幌からのバス運行も開始しました。鉄道線の全盛期は、戦後復興に伴い定山渓温泉が繁栄を取り戻したころでした。1949年から1963年にかけては、夜間発の往復とビール券・とうきび・枝豆・温泉利用をセットにした「月見電車」も運行しました。
しかしその後、貨物輸送をトラックに奪われ始め、1963年には豊羽鉱山の鉱石輸送がトラックに切り替えられました。また、旅客も徐々にバスやマイカーに流出していきました。これに加え、豊平駅近くの国道36号線上の踏切が交通上の障害になっているとして、1966年に、北海道警察本部から適切な処置を取るよう勧告されました。

こうした中で、札幌市が地下鉄南北線を建設することに伴う用地買収を申し出ました。定山渓鉄道は、これに応じる形で鉄道部門の廃止を決定し、1969年(昭和44年)をもって全線廃止となりました。


定山渓鉄道で使われていた吊皮やランプ、そして計器類が、ところせましと展示されていました。

雪ぞりです。ゴールデンカムイに、こんなの出てきたなあ…。笑

つきあたりには、馬小屋がありました。

お馬さんのぬいぐるみです。芸が細かいですね。しかも、こんな大きなの、誰が作ったのでしょうか。^^


部屋が多いですからね…。
見どころがいっぱいあるんですよ。😅
しかも、まだ玄関部分だし。笑
旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)のお話は、
まだまだ続きます。(スミマセン)


(つづく)

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