MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 18 - 台風なら浦添城②(殿、ディーグガマ、伊波普猷の墓、城壁)(2022年9月1日/7日め)

2022年9月1日 浦添城の城壁で。美しい海が見えました。(沖縄県浦添市)


9月1日(木)


浦添城に来ています。
ここまで、
南エントランスから入り、
石畳道の緩い坂を上り、
浦添城の前の碑
まで歩いてきました。


地図で見ると、こんな感じになります。

「浦添城の前の碑」から、しばし、景色を眺めました。

そして、ここから山の中をさらに進むと…、

埋葬人骨が見つかった場所に着きます。

発掘時の写真です。(画像をお借りしました)


【埋葬人骨】
1983年の発掘調査で、城壁の下層から、グスク時代の埋葬人骨が出土しました。墓穴は、人が入るギリギリの大きさに掘られ、粘土で蓋をされていました。人骨は20歳前後の女性で、身長は約150㎝。人骨の状態は良好で、仰向けになっており、両腕と両脚を胴体に密着するまで強く折り曲げられた状態で葬られていました。副葬品はありませんでした。


さらにその隣りには、殿(トゥン)があります。


【殿(トゥン)】
殿(トゥン)は、ウマチー(麦・稲の豊作を祈願・感謝する祭り)など、村の祭りを行う場所でした。ウマチーの際は、日本の竹を結び合わせたアーチを作り、それに向かって参列者が手を合わせました。アーチは、神々が通る門を表現したものと考えられています。



殿(トゥン)を過ぎてさらに歩くと、
ディーグガマに着きます。


ディーグガマは、一見、うっそうとした森のようですが、手前の入口から石段を降りて、中に入ることができます。


【ディーグガマ】
鍾乳洞が陥没してできた窪地で、地域の人々に拝まれている御嶽です。洞窟(ガマ)にデイゴの大樹があったため、「ディーグガマ」と呼ばれるようになりました。1713年に成立した地誌「琉球国由来記」には、浦添城内の「渡嘉敷嶽(とかしきだけ)」という名前がみられ、それがこのディーグガマにあたると考えられています。
戦時中は、住民の避難壕として使われました。戦後は、ガマの内部にコンクリートブロックの囲いを造り、その中に戦没者の遺骨を納めました。遺骨は後に、糸満市の摩文仁へ移されています。


石段を降りて、窪地の中に入りました。

ここには、二か所の拝所が設けられています。

千羽鶴が手向けられているところの奥には、かつて、戦没者の遺骨が納められていました。

のぞきこむと、階段が続いているのが見えました。が、落盤の恐れがあるため、現在は、中に入ることはできません。

ディーグガマの隣りにあった「浦和の塔」です。この塔は、沖縄戦で亡くなった人々を祀る慰霊塔です。1952年に、市民の浄財と本土土建会社の協力によって建立されました。納骨堂には、浦添城跡を中心に市内各地で戦死した軍人や民間人など約5000人が安置されているそうです。


当時、浦添の人口は9217人でしたが、
そのうち戦争で亡くなった人は4112人で、
実に44.6パーセントの住民が
戦争の犠牲者となりました。


沖縄の歴史を訪ねる旅をしていると、
第二次世界大戦の悲惨な歴史を
避けて通ることはできません。
楽しい旅行をしていても、
そのことに目をそらすことなく、
手を合わせる気持ちだけは
持ち続けて行きたいと、いつも思います。


ディーグガマを後にし、次は、
「伊波 普猷(いはふゆう)の墓」に行きました。


【伊波 普猷(いはふゆう)】
日本の民俗学者・言語学者です。1876年(明治9年)に、那覇に生まれました。本土に渡り、三高(後の京都大学)から東京帝国大学に進んで、言語学を修めました。東大在学中から、浦添が首里以前の古都であったことを最初に論じた論文を発表しています。学問の領域は、沖縄研究を中心に、言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に渡っており、その学問体系によって、後に「沖縄学」が発展したため、「沖縄学の父」と称されています。特に、『おもろさうし』研究への貢献は多大で、琉球と日本とをつなぐ研究を行うと共に、琉球人のアイデンティティの形成を模索し続けました。


道の両側では、うっそうとしたジャングルのように樹々が生い茂っています。

その樹々に見とれながら歩き続けました。

やがて、少し広くなった場所に出ました。その隅に、ひっそりと墓石がありました。

伊波 普猷(いはふゆう)の墓です。


1925年(大正14年)、
49歳の伊波は、再び上京し、
國學院大學で教鞭をとります。
東京では、沖縄人連盟の初代会長となり、
沖縄のために尽力しましたが、
1947年(昭和22年)、
戦争で米軍に占領された沖縄の
行く末を案じつつ、 
東京で亡くなったそうです。


今から100年も前に、
琉球人としてのアイデンティティ
模索し続けていたというのは、
すごいことだと思います…。


そんなことを考えながら、歩いていたら、前方に壮観な石積みが見えてきました。

城壁です。そしてその向こうには海が見えました。

城壁の反対側(海側)です。


【城壁(復元)】
この城壁は、発掘調査の成果に基づいて復元したものです。
浦添城跡は、沖縄戦後の採石により、城壁の石材が持ち出されたため、城壁がほとんど残っていませんでした。この場所について、発掘調査を行ったところ、城壁の切石がかろうじて残っている状況を確認することができました。そこで、残っていた切石を活かし、失われた部分に新しい切石を積み上げることによって復元しました。


この、城壁が復元された場所には、
かつて、前田高地壕群がありました。
つまりここが、
映画「ハクソー・リッジ」の舞台となった、
「浦添城跡前田高地」そのものなのです。


沖縄戦最大の激戦地となった、
浦添城跡前田高地については、
次回に書きたいと思います。


ここまでに歩いたところです。


(つづく)

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