MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでも福島。満開の桜の下、城を仰ぐ 23 - 会津若松・西郷頼母邸(客待の間から次の間、そして奥一、奥二の間へ)(2021年4月10日/2日め)

2021年4月10日 西郷頼母邸・奥一の間で遊ぶ子どもたちと、妻の千恵子です。(福島県会津若松市)


4月10日


美しい「御成りの間」の、
ひとつひとつの部屋を見て歩きながら、
廊下のつきあたりまで来ました。


縁側に、「手水鉢」が置いてあります。


「手水鉢」があるということは、
つまり…、


トイレ(厠)でした!笑 ここには天井がなく、屋根があるのみです。ここから敵が忍び込むのを防いだと言われています。この様式は、幕府の間者(かんじゃ)に対する備えとして、江戸時代中期から始まったそうです。奥の便器がある小部屋には、三畳の畳が敷かれています。

この、畳敷きの部分を外から見ると、こうなっています。

この厠は、「御成りの間」の客専用のものでした。床下には木製のレールがあり、その上に、砂を入れた箱車が置かれています。使用後は、この箱車を引き出し、健康状態を調べた後、砂ごと後始末をしました。砂を使用していることから、「砂雪隠(すなせっちん)」とも呼ばれました。

賓客を迎えるために設けられた「御成りの間」は、とても広く、それだけが独立した棟となっています。そのいちばん端の白い壁の部分が、砂雪隠です。その前面には、美しい庭が広がっています。

さて、「御成りの間」まで続いている廊下(入側)を再び戻って、次は「客待の間」と「表居間」に行きました。

「客待(きゃくたい)の間」です。家老の応接間として使われました。

真鍮唐草文唐金大火鉢(しんちゅうからくさもんからかねおおひばち)。縁周り76㎝、胴回り52㎝という、大きな火鉢です。脚部は唐子を象っており、全面に唐草文が施されています。戊辰戦争当時まで、鶴ヶ城・日新館内で使用されていたものです。

この「客待の間」からは、「御成りの間」と美しい庭園を見渡すことができます。この景観を、当主である西郷頼母と来客が眺めることができるようになっていたわけです。

書院造りの「表居間」です。「客待の間」の隣りにあります。家老の執務室として使われました。

ここから、廊下を曲がって次の棟に行きます。

「次の間」「奥二の間」「奥一の間」が並びます。胸が痛むエリアです。

手前から、「次の間」「奥二の間」「奥一の間」です。一番奥に、女の子が見えますね。

「次の間」です。家族が茶の間として使用していました。が、隣りが仏間であったためでしょうか。この部屋は、西郷頼母の妻と子どもたちの「自刃の間」となりました。
1868年(慶応4年)8月23日、西軍は会津城下に総攻撃を開始しました。お城より、全員登城の命が下りましたが、西郷家の婦女子は、「足手まといになるまい」と考え、この部屋で自らの命を断ちました。

その隣にある、「奥二の間」。祖母や女の子たちの部屋でした。

「次の間」と「奥二の間」を、外から見たところです。

そして、廊下のつきあたりにある、「奥一の間」です。家老の寝室として使われた、書院造りの部屋です。ふたりの女の子は、三女・田鶴子(9歳)と四女・常盤子(4歳)です。父の寝室で遊んでいる子供達を、母の千恵子が叱っているところを再現したそうです。

家老の寝室であった、「奥一の間」から眺めた景色です。山を従えた「御成りの間」が、すばらしいですね。この最高の景観を寝室から楽しむことができたのは、ただひとり、西郷頼母だけでした。


西郷頼母邸の探索、
あともう少し続きます。


(つづく)

×

非ログインユーザーとして返信する