MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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ベトナム家族旅行:
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コロナでも金沢。3人で歩いた、3泊4日のおトク旅 14 - 寺町台寺院群(2020年7月26 日/3日め)

2020年7月26日 本長寺で。


7月26日


3日めの朝です。
朝食はお部屋で。
夫と長女が、ホテルの隣りのコンビニで、
飲み物を買ってきてくれ、
東京から持参してきたパンをいただきました。


そしてチェックアウトです。


コロナ対策ということで、
ホテルでは荷物を預かってくれないそうです。
まあ、車で来ているので、
車に積み込めばいいだけなのですが。


夫と長女が駐車場に荷物を運んでいるあいだ、涼しいフロントでまったり。なにもしない妻です。笑


この日は、ホテルをチェックアウトし、
次の宿泊地へと移動する予定なのですが、
「その前に、もう少しだけ市内観光したい」
というのは、
やはり、多動夫ならでは。😂


ということで、旅の3日め。
今日も市内観光から始まります。
幸か不幸か、金沢には、
本当に見どころが多いのです。


前日と同じく、無料バス券を利用しました。
金沢は、たいていのところにバスで行けるので、
とっても便利。
タクシーを使うことがありません。^^
そして向かったところは、
寺町台寺院群です。


江戸時代に加賀藩の城下町として発展し、
江戸、京、大坂に次ぐ
第四の都市として栄えた、金沢市。


そんな金沢の観光スポットの中でも、
特に有名なものは「茶屋街」ですが、
それと同様、いやそれ以上に
金沢の町並みを特色付けているのが、
市内の三ヶ所に残る、「寺町」です。


江戸時代初期の元和2年(1616年)、
加賀藩三代藩主の前田利常は、
城下町の再整備を行います。
城下に散らばっていた、
一向宗(浄土真宗)以外の寺院を移転させ、
三ヶ所にまとめてしまいました。


こうして誕生したのが、
 寺町台寺院群
 卯辰山麓寺院群
 小立野寺院群
と呼ばれる、三つの寺町です。
これらの地域は、
国の重要伝統的建造物群保存地区に
選定されています。


ちなみにその後、
江戸時代後期の文政3年(1820年)には、
城下町に散らばる茶屋がまとめられ、
茶屋街が形成されました。
つまり、あの茶屋街ができたのは、
寺院群が形成されてから、
さらに200年も後のことなのです。


金沢三寺院群のなかで最も規模が大きいのが、
寺町台寺院群で、
約70もの寺社が集まっているそうです。


さて、バスを降り、
寺町台寺院群に向かって、歩くこと数分。
びっくりしました。
歩いても歩いても、お寺。笑


暑い中、夫に引きずられて歩く、
従順な長女と私(←うそ)。
ようやく、到着しました。


妙立寺(みょうりゅうじ)


妙立寺は、寛永20年(1643年)に創建されました。
別名、「忍者寺」。


落とし穴になる賽銭箱、
床板をめくると出現する隠し階段、
金沢城への抜け道が整備されていたとされる井戸。
…などの仕掛けが、寺のあちこちにあるそうです。


創建当時、加賀藩は、
徳川幕府と緊張状態にあったため、
襲撃に備えて、妙立寺を、
出城の砦として位置づけました。
内部が仕掛けだらけなのは、そのためです。
外観は2階建てですが、実際は7層になっていて、
23部屋と29階段もあるそうです。


迷路のような内部を、
ガイドが案内してくれるのですが、
事前の予約が必要です。
行き当たりばったりで旅行している私たちは、
予約をしていないので、
外観だけを、眺めてきました。苦笑


芭蕉の句碑がありました。

妙立寺を出て、ふたたび歩きます。古そうなお家と…、

お寺。

そしてまた古そうなお家…。延々とこんな感じです。

ようやく次の目的地、本長寺へ。


顕本法華宗のお寺です。
宝暦12年(1762)の大火で焼失後、
学僧・日鑑らによって再建されました。
前庭には、芭蕉の、
「春もやゝけしき調ふ月と梅」
の句碑が建っています。



ありがたいお寺のようですが、
なにしろお寺オンチの私と長女には、
よくわかりません。苦笑


それにしても、なぜ利常は、
城下町の寺院を移転させてまで、
わざわざ寺町を築いたのでしょうか。
その理由は二つです。


理由①
金沢城の防衛能力を強化するためです。
城下町の入口に寺町を設ける事で、
有事の際には、これらの寺町に武士を配置し、
砦として用いる意図があったのです。


理由②
一向一揆対策です。
一向宗以外の寺院を寺町にまとめ、
一向宗の寺院を城下町内に散在させたのです。
それにより、一向宗に対して監視の目を光らせ、
一揆を未然に防ぐという目的がありました。


「街づくり」は、今でこそあたりまえですが、
この時代に「都市計画」を実行した、
前田利常。
すごいです…。


寺町台寺院群には、このほかにも、
 室生犀星ゆかりの「雨宝院」
 天然記念物の大桜で有名な「松月寺」
などが点在しています。
その風情あふれる景観は、
「静音の小径(しずねのこみち)」
とも呼ばれているそうです。


さて。
せっかくの由緒あるエリアなのですが、
暑い中、寺院群を一時間以上歩かされて、
だんだん疲れてきました。笑


「もうさ。
 歩いても歩いても、お寺ばっかりじゃん。
 (↑あたりまえです。)
 そろそろやめようよ。」


多動夫は、まだまだ歩いて、
「雨宝院」と「松月寺」にも
行くつもりだったようです。
でも、私と長女に抗議されて、
あえなく断念。爆


「…わかったよ。
 じゃあ、お寺はこれでおしまいにして、
 次はえっと、こっちね。」


まだどっか、行く気なのか?
とあきれる私たちを置いて、
夫は地図を見ながら、歩き始めました。


怒涛の市内観光。
どうやら、まだ続くようです。泣


(つづく)

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