MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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定年でもベトナム。ハノイで始める、お仕事日記 190 - 鶏肉料理店で晩ごはん(2019年10月28日/58日め)

2019年10月28日 誰よりも、なつかしい人たち。


10月28日


ベトナムで暮らす、最後の日です。
夕食は、外で食べることになりました。
近所で、鶏料理のおいしいお店があるので、
連れて行ってくださるそうです。


暗くなってから、家を出発しました。お店までは、歩いて5分くらい。この大通りをわたってすぐのところにあります。

お店に到着しました。


もともとは、この、間口の小さなお店だけで
営業していたそうです。
ところが、料理がおいしいのが評判になり、
お店は大繁盛。
隣りの家にまで、お店を拡張したのだそうです。


お店を入って右に進むと、広い別室に通されました。ここが、拡張した部分だそうです。

なんだかわからないけど、ローさんがどんどん注文しました。初めに出てきたのが、コレです。

ごはんは、もち米でした。

そして、まずは蒸した鶏料理です。見かけは素朴ですが、これがおいしいのです。^^

次は、ローストされた鶏料理。皮がパリパリでおいしい。^^

今度はから揚げです。同じ鶏肉でも、料理法が異なると、また違ったおいしさです。

あひるのローストも。これまた、パリパリでおいしい。^^

鶏料理はもちろんおいしいのですが、この、ふんわりと揚げたトウモロコシが、なんかやたらとおいしくてびっくり。^^

お父さん似の、かわいいノックちゃん。初めの頃は恥ずかしがっていたけど、今ではMIYOに、こんな笑顔を見せてくれるようになりました。

お母さん似で、しっかり者のアインちゃん。

ローさんは、タムさんに首ったけ。

食事が終わって、4人で手をつないで歩きます。仲のいい、すてきな家族でした。

4人の後をついて歩く私。彼らとお別れするときが近づいている寂しさと、もうすぐ日本に帰るのだという安堵感が、自分の中に同居していました。


私がベトナムで働くにあたって、
約束していた期間は、2か月でした。
本当は、「3か月働いてほしい」というのが、
彼らの希望だったのです。
残念ながら、私は、
11月にタイに旅行することが決まっていたので、
「9月・10月の2か月間だけでよければ」
と言ったところ、
それでいいということになりました。


そもそも、私がこの仕事をしようと思ったのは、
以前から、漠然と、
「定年退職したら、
 ベトナムに2か月くらい住んでみたい」
と思っていたからです。


つまり、
「ベトナムで働きたい」
と思っていたわけではなく、
「とにかくベトナムに住んでみたい」
という思いだけでした。


住むだけではなく、
思いがけず、仕事をすることになりましたが、
「どうせたったの2か月だから、
 たいしたことではない。」
という、軽い気持ちしかありませんでした。


私のお給料は、ベトナムの大卒初任給レベルで、
かなり安かったのですが、
個室と食事付きだったし、
仕事の内容は、
「日本のお客さんとのメールのやりとり」
と聞いていたので、
その程度の仕事なら、お給料が安くてもまあいいか、
と、タカをくくっていた部分もありました。


けれどその後、実際に働いてみると、
私の担当する仕事は、どんどん増えていきました。
本来なら、マネージャークラスがやるようなことも、
私が一手に引き受けて、
日本の代理店と交渉することもありました。
それに加えて、
ベトナムと日本の、考え方の違いの中で、
仕事をこなしていくことの難しさも、
痛感することが増えていきます。


ベトナムで、お給料は安くてもいいから、
「ゆる~く、のんびり働きたい。」
と思っていた私は、しだいに、
「こんなはずじゃなかった。」
と思うようになりました。


「仕事の内容が、事前に聞いていたことと違う」
という点に、私は、理不尽な思いをしていました。
そのことを、何度か、
ローさんやタムさんに言ったこともあります。
けれど彼らは、それのなにが問題なのかを、
多分、理解できていなかった
のではないかと思います。
これもまた、日本とベトナムの、
意識の違いからくるものだったように感じています。


もうひとつ、私の重荷になっていることがありました。
それは、いつの間にか、彼らは、
「MIYOさんは、6月にまた来る。」
と、思い込んでしまった、ということです。


ベトナムで働き始めてまもなく、
タムさんから、
「(2か月後も)また来る」
と言われたことがありました。
そのときは、話のなりゆきで、私も、
「まあ、また来てもいいですけどね…。
 いろいろと予定があるから、
 6月まではムリですよ。」
みたいなことは言いました。
けれど、約束したわけではありません。


その当時の日記です。


はっきりと引き受けたわけではないのに、
「MIYOさんは、6月にまた来るんだよね?」
と、決定事項として言われてしまうと、
「それは違う。私はそんな約束はしていない。」
と、心がざわつきました。


結局あるとき、意を決して、彼らに宣言しました。
「次に私がまたここで働く、という件ですが…。
 これからのことは、
 またそのときになって考えましょう。
 とりあえず、先の約束はしません。」
と。


タムさんもローさんもいい人で、
滞在中は、とてもよくしていただきました。
私は、ふたりのことが好きだったし、
感謝していました。


けれど、
「こうではない。なにか違う。」
と思っているのに、それにもかかわらず、
彼らの思惑の中に自分が組み込まれていくことを、
苦しいと思う部分もありました。
このころの私は、かなり混乱していたと思います。


ハノイでの生活は楽しかったけれど、
とにかく今は、日本に帰る。
そして、いったん、なにもかもをリセットしたい。
そんなふうに思っていました。


(つづく)

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