もうひとつの、スピリチュアル体験 – ひまわり施療院 ⑦
1999年秋 東北旅行(のんたんとあみちゃん 4歳)
二歳の夏に - 1997年7月
そして一年が過ぎた。
職場復帰するときには、一ヶ月もてばいい方だろうと思っていたのだが、様々な人に支えられて、そしてなによりも、子育てと仕事との両立に理解のある職場に恵まれたおかげで、私は仕事を続けていた。子どもたちは突然病気になるし、何度も入退院を繰り返した。相変わらず、救急車とは縁が切れなかったが、それでも、仕事に支障をきたすことなくなんとか働き続けられたのは、今考えても奇跡だったかもしれない。
そんな中で、私たちはのぞみとあみかを連れて、毎週のように「ひまわり施療院」に通っていた。既に私の友人が3人も通うようになっていたので、「ひまわり」で会うことも多かったし、その際におしゃべりをすることも楽しみだった。田中先生はいつも、パンとお菓子を山のように用意して待っていてくださった。
「ひまわり」に通うことが私たちの日常の一部となっていく中で、あみかの肺は少しずつよくなっていった。もちろん、気功のせいかどうかはわからない。それでも、「成長していくなかで、自然に治していくしかない。」と医師から言われていたとおりに、少しずつでもあみかが丈夫になっていくのはうれしいことだった。
そしてのぞみは、少しずつ、聞こえがよくなっていった。一歳のころ、おもちゃの音に反応するかしないか…という程度だったのぞみが、次第に歌に関心を持つようになり、耳元で歌ってやると、「もっと、もっとうたって」と言いたげにせがむそぶりすら見せるようになっていた。
私は幸せだった。のぞみもあみかもそれぞれに良い状態になっていくのが感じられたし、仕事もなんとか続けられていた。こんな生活をおくれるようになるとは思っていなかった。
二歳のお誕生日を目前にした7月下旬のことだった。
その日私と夫は、いつものようにのぞみとあみかを連れて、「ひまわり施療院」の二階にいた。
施療用のベッドの上では、あみかが田中先生のマッサージを受けていて、私はひざにのぞみを座らせて、それを見守っていた。私と田中先生は、ちょうど向かい合うような位置に座っていた。
この日私は、田中先生にぜひ見せたいと思っていることがあったので、そのとき、それを実行することにした。
のぞみの耳元に自分の口を近づけて、おもむろに私はこう言ったのだ。
「のんたん、パチパチして。」
するとのぞみは、その小さな両手のひらを合わせて、かわいい拍手をやって見せてくれたのだ。それは、そのころのぞみが覚えたばかりの芸だった。
全盲ののぞみがそれを覚えるには、耳が聞こえていないと不可能なのだ。のぞみの「おててぱちぱち」は、のぞみがたとえわずかであっても聞こえているということの証だった。
私の思惑通りにのぞみが芸を見せてくれたので、私は得意満面だった。そして、それを見せられた田中先生も、心底喜んでくれた。かつて、「だいじょうぶ。耳は治してあげる。」と言ってくれた人ではあったが、のぞみがこんなにも早くこういうことをするようになるとは予想していなかったのだろう。
田中先生は、あみかをマッサージする手を止めて、
「よかった。本当によかった。…これで安心した。」
とつぶやいた。あのときの先生の顔を、私は忘れることができない。
やがて、その日の施療も終わり、帰り支度をしていた私たちに、先生はこうきりだした。
「もうすぐ二歳でしょ。お祝いのプレゼントをしたいから、今からいっしょに買いに行きましょう。お誕生日にはまだ10日ほどあるけど、わたしはこれからアメリカに行くし、次に会うのは一ヶ月後になっちゃうものね。…さっきのぱちぱちがあんまりうれしかったから、なにかしたいのよ。」
そのころ田中先生は、アメリカへの施療の旅を数日後に控え、多忙を極めていた。けれども、その日の施療は私たちが最後だったので、もう、他には誰もいない。先生にしてみれば、グッドタイミングの思いつきだったのだろう。先生からプレゼントがいただけるとは思っていなかったので、私たちはとても驚き、当惑したが、とうとう夫の運転する車でいっしょに出かけることになってしまった。
目的地は、近所にあるショッピングセンターだ。その中にあるトイザラスの広い店内を、田中先生といっしょに、私たち一家は歩いた。先生はまるで、孫にプレゼントを買おうとするおばあちゃんのようで、なんだか微笑ましかった。
「みんなにはナイショよ。」
と言いながら、手押し車の一番高いのを買おうとする先生をとどめて、私たちはそれでも、それより少ししか値段が違わない、りっぱな車を買っていただいた。くまのプーさんの人形がついているオレンジの車は、のぞみのからだの何倍もの大きさに見えた。
あみかにも人形を買っていただき、わたしたちはとても恐縮してしまった。そのうえ、レジで風船を欲しがるあみかに、「のんたんの分も。」とふたつの風船を握らせてくれた田中先生は、施療の先生というよりもやはり、のぞみとあみかのおばあちゃんのようだったと思う。たくさんのプレゼントを車に載せ、わたし達は先生に何度もお礼を言ってお別れした。
あれから三年たった今でも、この日のできごとは、私の脳裏にあざやかに残り続けている。今となってはそれが、その後に続く思いもかけなかったできごとのすべてを暗示していたようにも思えてならないのだが、このときにはそんなことに気がつくはずもなかった。
こうして田中先生は、施療のために、米国へと旅立たれた。
(つづく)