もうひとつの、スピリチュアル体験 – ひまわり施療院 ⑧
2006年10月14日 運動会で、応援合戦。(全盲難聴・のんたん 11歳)
再剥離 - 1997年11月
秋になった。のぞみの目の状態も、あみかの体調も良く、私たちは穏やかな夏を過ごした。
ひまわり施療院の次回の訪問日は、既に7月のうちに予約してあったが、その予約日が近づいたころ、田中先生より、「体調がすぐれないので、延期して欲しい。次回の予約については、また体調がもどったらお知らせします。」との連絡があった。
海外の施療で疲れがでたのかもしれない、と私たちは軽く受けとめていた。
ところが、一ヶ月たっても、二ヶ月たっても、先生から、次回の訪問日の連絡はなかった。どうしたのだろう、と思っているうちに、のぞみに思いがけないことが起こってしまった。
のぞみは、一歳になるまでに目の手術を3回行ったのだが、その結果、左目の網膜がかろうじて定着し、もしかしたら見えるようになるかもしれない、との期待が持たれていた。
その日、いつものように軽い気持ちで、2ヶ月に一回の定期診察を受けに行った私は、とんでもない宣告を受けるはめになった。左目の網膜が再剥離しているというのだ。
「もう、かなり難しい状態ですけど、少しでも可能性があるなら、という考えで、再手術をしたいと思います。」
医師のことばは、私の胸をつらぬいた。
TH大学病院から自宅まで、何十回と往復した道であるはずなのに、その日、のぞみを乗せて運転していた私は、そうとう気が動転していたのだろう。2回も道をまちがえて知らない場所まで行ってしまい、地図を見ながら戻るありさまだった。
運転しながらも、涙は止まることがなかった。私たちの悲しみは、どうしていつまでも終わらないのだろう。幸せになりたくて生きているのに、運命はいつも私たちを裏切り続けた。この世に神様というものが存在するのなら、胸ぐらをつかんで、「ばかやろう!」となじりたい気持ちだった。
そのとき、もう3ヶ月近く、田中先生の治療を受けていないということに気がついた。のぞみの左目の再剥離は、これまで、田中先生のおかげでかろうじておさえられていただけだったのかもしれない。こうなってみてはじめてそのことに思い当たったが、もう今さら仕方がない。それでも私は、田中先生に手紙を書き、自分の悲痛な気持ちを伝えずにはいられなかった。
ほどなく、田中先生から電話がかかってきた。先生は、なんと入院中だった。その弱々しい声からは、あまりよい状態ではないことが容易に想像できた。それでも、病室を抜け出してわざわざ電話してくださっているのだ。もう、それだけで十分だった。のぞみの再手術前にせめて一度だけでも施療を、とは、もう私の口からは言えなかったし、先生の口からそれが告げられることもなかった。
田中先生の治療という逃げ場がなくなって、私は初めて、運命と真正面から向き合わなければならなくなった。そうして、のぞみの再手術が行われ、ほどなく、午前は会社で仕事し、午後は入院中ののぞみにつきそう日々が始まった。
会社で仕事をしていても、のぞみのことを考えると涙がでてきた。それを、他の人に見られないように拭いて隠しながら、仕事を続ける毎日だった。どうして私ばかりがこんな目にあうのだ、どうして運命はいつも私を裏切るのだ、というやりきれない心の内を、入院中ののぞみにつきそいながら、私は見つめ続けた。
そして、悩み続けた日々の中に、答えはあった。
もう、誰も頼れない。逃げ場はない。けれど私がのぞみの障害を乗り越える必要など、はじめからなかったように思えた。受けとめねばならないのは、障害ではない。私自身がありのままののぞみを受けとめれば、それでよかったのだ。
こんな悲しい思いにも、きっと意味はあるのだろう。…そう気がついたとき、長い長いトンネルの出口はすぐそこにあった。
(つづく)