埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 22 - タウンジーを経てニャウンシュエへ。チンロンを見る。(1987年5月6日/6日め)
1987年5月7日 ニャウンシュエの市場で。
「せめてパガンまでくらいは」と思って書き始めた日記なので、
パガンも終わったし、ここで一区切りと思ったのですが、
多動夫が「このまま書けるだけ書いてみたら」と
おもしろがっているので、もう少しがんばってみます。😅
1987年5月6日(火)- 6日め
一夜明けて、旅の6日めになりました。
1日めはタイだったので、ビルマに着いてからは、
5日めということになります。
ここまでの経路です。ラングーン(現在のヤンゴン)から夜行列車でマンダレーまで行き、その日の夜行バスに乗って、今度はパガンに移動。パガンで2泊しました。
夫はここで、またも無謀な計画を立てます。パガンからメイッティーラに戻り、そのままさらに東へと進んでタウンジーへ。そこでバスを乗り換えて、ニャウンシュエまで行くと…。この日の走行距離は、約365キロ。
ラングーン(ヤンゴン)に着いてからニャウンシュエまでの、5日間の全経路をまとめると、こうなります。総走行距離は、約1280キロ。
は~…。
私たちって、こんなふうに移動してたんだ。😮
37年もたって初めて知るこの事実、です。🤣
なにしろ、この頃のMIYOは、
旅の「企画」にはほとんど無関心だったので、
その国のどこを訪れるかは、
すべて夫におまかせでした。
実際に旅を始めたら、車の中で寝てばかり。
そのうち、「着いたよ」と言われて車を降りて、
「で、ここはどこ?」なんて聞くことも
めずらしくありませんでした。爆
(のんきなものです。)
車の中で寝てばかりというのは、
最近もあまり変わっていませんが。
夫は夫で、自分のやりたい旅を
とにかく好きなように企画できるので、
いつも嬉々としてやっていました。
…ということで、
この日の目的地はニャウンシュエでした。
現在は、パガンからニャウンシュエまで、
直行バスがあり、
8~10時間で行けるようですが、
当時、そんなものはありませんでした。
なので、まずはタウンジーまで行き、
そこで別のトラックに乗り換えて、
ニャウンシュエまで行かねばなりません。
移動時間も長いので、朝、かなり早い時間に
パガンを出発したように記憶してします。
マンダレーからパガンまで行ったときは、こんなバスに乗りましたが…、
このときの日記です。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 8 - マンダレーからパガンへ。(1987年5月4日/4日め)
このとき、パガンからタウンジーまで乗ったトラックの写真を撮っていなかったのですが、こんな車でした。ピックアップトラックというそうです。バス停はいくつかあるのですが、それ以外でも、ルート上であれば、乗客は好きなところで乗り降りできるようでした。
この車、後部から見るとこんな感じです。荷台部分の両端に長イスがあるだけで、真ん中のスペースは空いています。(これは、ラングーンに戻ってから撮った写真です。たまたま、ピックアップトラックが写っていました。)
中央部分には、イスに座れなかった人たちが、
すし詰め状態で乗るようになっていました。笑
こんなのに乗って300キロ以上走ると、
もう全身埃だらけになります。😂
メイッティーラ在住のウー・タン・アイ(U Tun Aye)さんに出会ったのも、このトラックに乗ったときでした。この写真を見ると、荷台部分にパイプ椅子が取り付けられています。そして、両側の風を防ぐため、ビニールが張られています。今思うと、ピックアップトラックの中でも、ずいぶん上等な部類だったのだと思います。😄
ウーさんとの出会いを書いたときの日記です。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 9 - メイッティーラを通過してパガンに到着。そしてアーナンダ寺院へ。(1987年5月4日/4日め)
トラックは、山の奥深くへとどんどん入っていきました。どこまでも続く山々が、素晴らしい眺めです。小さな集落も見えます。
こんな山深いところにも、人の家があって、暮らしがあるんですね…。^^
赤く土が見えているのは、焼き畑のあとなのでしょうか。周囲に高い木がないのは、長年焼き畑農業を続けてきたからだと思われます。
そして、メイッティーラの近くを
通ったときです。
東へと走る私たちの進路が、
南北を走る線路と交錯しました。
線路の前でトラックが止まりました。
踏切なんてものはなく、
列車が来る気配もありません。
さらにけっこうな時間、
そこでずっと待っていると…、
列車です! 列車が走ってきました。これはたぶん、ラングーンからマンダレーへと北上する列車だと思います。
列車の中は満杯状態。乗りきれなかった人たちは屋根に乗っています。笑
列車は、私たちの目の前を、
ゆるゆると通り過ぎて行きました。
あのスピードなら、屋根の上の人たちが
振り落とされる心配もないのでしょう。^^
このあとも、途中の村々で、
乗客が乗ったり降りたり。
食事休憩やトイレ休憩をはさみながら、
トラックはタウンジーへと走り続けました。
途中で寄った村で買った、ライム味のミネラルウォーターのラベルです。この頃はペットボトルはなく、お水は瓶で売られていました。ラベルの印刷が素朴で楽しいです。^^ 下の方にビルマ語が書いてありますが、グーグルで翻訳したら、「アップル、スパークリング、レモン、ソーダ」だそうです。37年後、こんなふうに、ビルマ語が普通に読める時代が来るとは思いませんでした!笑
村のトイレです。もちろん、水洗トイレではありません。四方が網代で覆われていて、とっても素朴なトイレでした。^^
そんなこんなで、タウンジーに到着。
ここから別のトラックに乗り換えて、
ニャウンシュエへ。
一日中、トラックで走り続け、
ニャウンシュエに到着したのは、
午後の遅い時間でした。
【ニャウンシュエ(Nyaung Shwe)】
ビルマ東部のシャン州にあり、インレー湖観光の拠点となっている町です。インレー湖の北側に位置し、船着き場がある町として栄えています。徒歩や自転車で町を周る人も多い、小さな町です。町のいたるところにゲストハウスやホテル、レストラン、旅行サービスセンターがあり、バックパッカーに人気の町です。インレー湖へのボートトリップとインレー湖周辺のトレッキングが、観光の目玉となっています。
ホテルに荷物を置いて、早速、ニャウンシュエの町を歩き始めました。赤い花の向こうに、ゆったりと歩くお坊さんの姿が見えます。
人々が日常使う橋の上にも、仏塔がありました。^^
ヤダナマンアウン・パゴダに到着。
【ヤダナマンアウン・パゴダ(Yadana Man Aung Pagoda)】
ニャウンシュエで最古の仏塔寺院です。階段状になった塔が独特のフォルムを呈しており、このような形状のパゴダは、バガンにはありません。建物を囲う壁は白く、アーチ型の窓が設けられているのが特徴的。博物館が併設されており、その中にある、「老いの像」や「疾病の像」というリアルに作られた仏像が有名です。他には何世紀にもわたって集められた宝石や彫刻、漆器、ダンスドレスなどが展示されています。
この日は、なぜか門が閉ざされていて、中には入れませんでした。とりあえず、写真を一枚。
ちなみにこれは、現在のヤダナマンアウン・パゴダ。37年前とほぼ変わらない姿でした。^^(画像をお借りしました)
お寺の中には入れなかったけど、
このニャウンシュエに来た一番の目的は、
このお寺ではないので、
気を取り直してさらに歩きました。
ニャウンシュエに来た一番の目的。
それは、
「インレー湖で船に乗る」
ことでした。
その船の乗り場はどこなのか?
チケットはどこで買えるのか?
なにもわかっていません。😅
当時は、そんなことを教えてくれるような
ガイドブックは、ありませんでしたから。
情報はなにもなかったけど、
とりあえず、湖の近くまで行って、
その辺の人に聞きまくればなんとかなるだろう、
…と、このときは思っていました。
普通の民家が並ぶ通りを歩いていると、空き地で人々がチンロンをやっていました。ビルマに来て5日めでしたが、チンロンを間近で見るのは初めて。^^
【チンロン/ခြင်းလုံး】
主にミャンマーで行われている伝統的な遊戯またはスポーツです。5世紀から7世紀ごろ、現在のミャンマー地域に居住したピュー族がチンロンに似た遊戯を行っていたとされ、タイェーキッタヤーで発見された遺跡からは、銀製のチンロン球が出土しています。
現在は、庶民の娯楽として路上などで行われており、見世物としての個人ショーもあります。また、競技規則に則ったスポーツの試合としても行われています。
ビルマ語で、「チン」は籠、「ロン」は球体を意味しており、競技の名称となっているだけでなく、競技で使用されるボールも「チンロン」と呼ばれています。伝統的なチンロン球のサイズは、直径約13cm・円周約40cm。籐(とう)を幅3mm、長さ3mの紐状に裂き、6本または10本どりで球形に編んで作ります。中空で重量は約100gであり、トウ紐の間には五角形の穴が12ヶ所あります。
チンロン球です。直径約13cm。
このチンロン球は、当時、
ビルマのよろず屋さんで普通に売られていました。
お店でこれを見つけたときも、夫は、
「あっ オレ、これ買う!」
と言って、即買いしていました。
ほんとうに、ブロマイドとか、チンロン球とか、
絶対に使う予定のないものを、
衝動買いするんですよね…。😔
帰国してから使うわけでもないし、
家の中のどこかに押し込んでそのまま放置。
このときのチンロンも、本棚の上で、
30年くらい、ホコリをかぶっていましたね…。😔
その後も何度も海外に出かけているうちに、
夫の衝動買いのおかげで、MIYO家はしだいに、
ガラクタ博物館のようになっていきました…。
(終活の断捨離で、数年前にようやくほとんど処分しましたが。😅)
楽しそうにチンロンをやる人々。これが普通の、チンロンスタイルです。パンツの人もいますが、履いていたロンジーを上にたくし上げ、裾を股の間に通して腹部にはさんで、パンツのような形にする人がたくさんいました。その折り方が上手で、サマになっています。😄
さて、インレー湖の船着場まで、
のんきに歩いてきたのですが、
ここで衝撃的な事実を知ることになります。
「インレー湖で、乗れる船はない。」と…。
当時、インレー湖には、ごくわずかですが、
観光客用の遊覧船がありました。
でもその船のチケットは、
団体ツアーで押さえられていて、
個人旅行者が買える枠がありませんでした。
つまり、
「船着場に行って、チケットを買って、
待っている船に乗り込み、
時間になったら出発する。」
…みたいなシステムが、
当時はまだなかったのです。
(あったかもしれませんが、とにかく、
外国人用にはありませんでした。)
唯一の方法は、船一隻を、
自分たちでチャーターすること。
ただし、乗客10人分の費用がかかります。
それは、私たちには法外な価格で、
とうていムリでした…。
ここまで来たのに。
インレー湖はすぐ近くにあるのに。
船に乗れないなんて…。
み「インレー湖で船に乗れないとしたら、
ここまで来た意味があったの?」
夫「ない…。」
まさか船がないとは…。
夫も私も、予想外の事実を知り、意気消沈。
ボー然としながら、
あてもなく、通りを歩いていました。
ここで、また新たな人物が登場します。
この人もまた、ビルマの旅で、
忘れられない人になりました。
アウンおじいちゃんです。
この話の続きは、次回に。^^
(つづく)