MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 22 - タウンジーを経てニャウンシュエへ。チンロンを見る。(1987年5月6日/6日め)

1987年5月7日 ニャウンシュエの市場で。


「せめてパガンまでくらいは」と思って書き始めた日記なので、
パガンも終わったし、ここで一区切りと思ったのですが、
多動夫が「このまま書けるだけ書いてみたら」と
おもしろがっているので、もう少しがんばってみます。😅


1987年5月6日(火)- 6日め


一夜明けて、旅の6日めになりました。
1日めはタイだったので、ビルマに着いてからは、
5日めということになります。


ここまでの経路です。ラングーン(現在のヤンゴン)から夜行列車でマンダレーまで行き、その日の夜行バスに乗って、今度はパガンに移動。パガンで2泊しました。

夫はここで、またも無謀な計画を立てます。パガンからメイッティーラに戻り、そのままさらに東へと進んでタウンジーへ。そこでバスを乗り換えて、ニャウンシュエまで行くと…。この日の走行距離は、約365キロ。

ラングーン(ヤンゴン)に着いてからニャウンシュエまでの、5日間の全経路をまとめると、こうなります。総走行距離は、約1280キロ。


は~…。
私たちって、こんなふうに移動してたんだ。😮
37年もたって初めて知るこの事実、です。🤣


なにしろ、この頃のMIYOは、
旅の「企画」にはほとんど無関心だったので、
その国のどこを訪れるかは、
すべて夫におまかせでした。
実際に旅を始めたら、車の中で寝てばかり。
そのうち、「着いたよ」と言われて車を降りて、
「で、ここはどこ?」なんて聞くことも
めずらしくありませんでした。爆
(のんきなものです。)
車の中で寝てばかりというのは、
最近もあまり変わっていませんが。


夫は夫で、自分のやりたい旅を
とにかく好きなように企画できるので、
いつも嬉々としてやっていました。


…ということで、
この日の目的地はニャウンシュエでした。
現在は、パガンからニャウンシュエまで、
直行バスがあり、
8~10時間で行けるようですが、
当時、そんなものはありませんでした。
なので、まずはタウンジーまで行き、
そこで別のトラックに乗り換えて、
ニャウンシュエまで行かねばなりません。
移動時間も長いので、朝、かなり早い時間に
パガンを出発したように記憶してします。


マンダレーからパガンまで行ったときは、こんなバスに乗りましたが…、
このときの日記です。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 8 - マンダレーからパガンへ。(1987年5月4日/4日め)

このとき、パガンからタウンジーまで乗ったトラックの写真を撮っていなかったのですが、こんな車でした。ピックアップトラックというそうです。バス停はいくつかあるのですが、それ以外でも、ルート上であれば、乗客は好きなところで乗り降りできるようでした。

この車、後部から見るとこんな感じです。荷台部分の両端に長イスがあるだけで、真ん中のスペースは空いています。(これは、ラングーンに戻ってから撮った写真です。たまたま、ピックアップトラックが写っていました。)


中央部分には、イスに座れなかった人たちが、
すし詰め状態で乗るようになっていました。笑
こんなのに乗って300キロ以上走ると、
もう全身埃だらけになります。😂


メイッティーラ在住のウー・タン・アイ(U Tun Aye)さんに出会ったのも、このトラックに乗ったときでした。この写真を見ると、荷台部分にパイプ椅子が取り付けられています。そして、両側の風を防ぐため、ビニールが張られています。今思うと、ピックアップトラックの中でも、ずいぶん上等な部類だったのだと思います。😄
ウーさんとの出会いを書いたときの日記です。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 9 - メイッティーラを通過してパガンに到着。そしてアーナンダ寺院へ。(1987年5月4日/4日め)

トラックは、山の奥深くへとどんどん入っていきました。どこまでも続く山々が、素晴らしい眺めです。小さな集落も見えます。

こんな山深いところにも、人の家があって、暮らしがあるんですね…。^^

赤く土が見えているのは、焼き畑のあとなのでしょうか。周囲に高い木がないのは、長年焼き畑農業を続けてきたからだと思われます。


そして、メイッティーラの近くを
通ったときです。
東へと走る私たちの進路が、
南北を走る線路と交錯しました。
線路の前でトラックが止まりました。
踏切なんてものはなく、
列車が来る気配もありません。
さらにけっこうな時間、
そこでずっと待っていると…、


列車です! 列車が走ってきました。これはたぶん、ラングーンからマンダレーへと北上する列車だと思います。

列車の中は満杯状態。乗りきれなかった人たちは屋根に乗っています。笑


列車は、私たちの目の前を、
ゆるゆると通り過ぎて行きました。
あのスピードなら、屋根の上の人たちが
振り落とされる心配もないのでしょう。^^


このあとも、途中の村々で、
乗客が乗ったり降りたり。
食事休憩やトイレ休憩をはさみながら、
トラックはタウンジーへと走り続けました。


途中で寄った村で買った、ライム味のミネラルウォーターのラベルです。この頃はペットボトルはなく、お水は瓶で売られていました。ラベルの印刷が素朴で楽しいです。^^ 下の方にビルマ語が書いてありますが、グーグルで翻訳したら、「アップル、スパークリング、レモン、ソーダ」だそうです。37年後、こんなふうに、ビルマ語が普通に読める時代が来るとは思いませんでした!笑

村のトイレです。もちろん、水洗トイレではありません。四方が網代で覆われていて、とっても素朴なトイレでした。^^


そんなこんなで、タウンジーに到着。
ここから別のトラックに乗り換えて、
ニャウンシュエへ。
一日中、トラックで走り続け、
ニャウンシュエに到着したのは、
午後の遅い時間でした。


【ニャウンシュエ(Nyaung Shwe)】
 
ビルマ東部のシャン州にあり、インレー湖観光の拠点となっている町です。インレー湖の北側に位置し、船着き場がある町として栄えています。徒歩や自転車で町を周る人も多い、小さな町です。町のいたるところにゲストハウスやホテル、レストラン、旅行サービスセンターがあり、バックパッカーに人気の町です。インレー湖へのボートトリップとインレー湖周辺のトレッキングが、観光の目玉となっています。


ホテルに荷物を置いて、早速、ニャウンシュエの町を歩き始めました。赤い花の向こうに、ゆったりと歩くお坊さんの姿が見えます。

人々が日常使う橋の上にも、仏塔がありました。^^

ヤダナマンアウン・パゴダに到着。


【ヤダナマンアウン・パゴダ(Yadana Man Aung Pagoda)】
ニャウンシュエで最古の仏塔寺院です。階段状になった塔が独特のフォルムを呈しており、このような形状のパゴダは、バガンにはありません。建物を囲う壁は白く、アーチ型の窓が設けられているのが特徴的。博物館が併設されており、その中にある、「老いの像」や「疾病の像」というリアルに作られた仏像が有名です。他には何世紀にもわたって集められた宝石や彫刻、漆器、ダンスドレスなどが展示されています。


この日は、なぜか門が閉ざされていて、中には入れませんでした。とりあえず、写真を一枚。

ちなみにこれは、現在のヤダナマンアウン・パゴダ。37年前とほぼ変わらない姿でした。^^(画像をお借りしました)


お寺の中には入れなかったけど、
このニャウンシュエに来た一番の目的は、
このお寺ではないので、
気を取り直してさらに歩きました。


ニャウンシュエに来た一番の目的。
それは、
「インレー湖で船に乗る」
ことでした。


その船の乗り場はどこなのか?
チケットはどこで買えるのか?
なにもわかっていません。😅
当時は、そんなことを教えてくれるような
ガイドブックは、ありませんでしたから。


情報はなにもなかったけど、
とりあえず、湖の近くまで行って、
その辺の人に聞きまくればなんとかなるだろう、
…と、このときは思っていました。


普通の民家が並ぶ通りを歩いていると、空き地で人々がチンロンをやっていました。ビルマに来て5日めでしたが、チンロンを間近で見るのは初めて。^^


【チンロン/ခြင်းလုံး】
主にミャンマーで行われている伝統的な遊戯またはスポーツです。5世紀から7世紀ごろ、現在のミャンマー地域に居住したピュー族がチンロンに似た遊戯を行っていたとされ、タイェーキッタヤーで発見された遺跡からは、銀製のチンロン球が出土しています。
現在は、庶民の娯楽として路上などで行われており、見世物としての個人ショーもあります。また、競技規則に則ったスポーツの試合としても行われています。
ビルマ語で、「チン」は籠、「ロン」は球体を意味しており、競技の名称となっているだけでなく、競技で使用されるボールも「チンロン」と呼ばれています。伝統的なチンロン球のサイズは、直径約13cm・円周約40cm。籐(とう)を幅3mm、長さ3mの紐状に裂き、6本または10本どりで球形に編んで作ります。中空で重量は約100gであり、トウ紐の間には五角形の穴が12ヶ所あります。


チンロン球です。直径約13cm。

このチンロン球は、当時、
ビルマのよろず屋さんで普通に売られていました。
お店でこれを見つけたときも、夫は、
「あっ オレ、これ買う!」
と言って、即買いしていました。


ほんとうに、ブロマイドとか、チンロン球とか、
絶対に使う予定のないものを、
衝動買いするんですよね…。😔
帰国してから使うわけでもないし、
家の中のどこかに押し込んでそのまま放置。
このときのチンロンも、本棚の上で、
30年くらい、ホコリをかぶっていましたね…。😔


その後も何度も海外に出かけているうちに、
夫の衝動買いのおかげで、MIYO家はしだいに、
ガラクタ博物館のようになっていきました…。
(終活の断捨離で、数年前にようやくほとんど処分しましたが。😅)


楽しそうにチンロンをやる人々。これが普通の、チンロンスタイルです。パンツの人もいますが、履いていたロンジーを上にたくし上げ、裾を股の間に通して腹部にはさんで、パンツのような形にする人がたくさんいました。その折り方が上手で、サマになっています。😄


さて、インレー湖の船着場まで、
のんきに歩いてきたのですが、
ここで衝撃的な事実を知ることになります。


「インレー湖で、乗れる船はない。」と…。


当時、インレー湖には、ごくわずかですが、
観光客用の遊覧船がありました。
でもその船のチケットは、
団体ツアーで押さえられていて、
個人旅行者が買える枠がありませんでした。


つまり、
「船着場に行って、チケットを買って、
 待っている船に乗り込み、
 時間になったら出発する。」
…みたいなシステムが、
当時はまだなかったのです。
(あったかもしれませんが、とにかく、
 外国人用にはありませんでした。)


唯一の方法は、船一隻を、
自分たちでチャーターすること。
ただし、乗客10人分の費用がかかります。
それは、私たちには法外な価格で、
とうていムリでした…。


ここまで来たのに。
インレー湖はすぐ近くにあるのに。
船に乗れないなんて…。


み「インレー湖で船に乗れないとしたら、
  ここまで来た意味があったの?」
夫「ない…。」


まさか船がないとは…。
夫も私も、予想外の事実を知り、意気消沈。
ボー然としながら、
あてもなく、通りを歩いていました。


ここで、また新たな人物が登場します。
この人もまた、ビルマの旅で、
忘れられない人になりました。


アウンおじいちゃんです。


この話の続きは、次回に。^^


(つづく)

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