埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 8 - マンダレーからパガンへ。(1987年5月4日/4日め)
1987年5月4日 村の食堂で朝ごはん。(ビルマ・マンダレー)
1987年5月4日(日)- 4日め
夜11時発の夜行バスでマンダレーを出発し、
次に向かったのは、パガンでした。
ラングーン(現在のヤンゴン)から夜行列車でマンダレーまで行きましたが、その日の夜行バスに乗って、今度はパガンに移動しています。
ええっと…。
ビルマに着いて3日めになるわけですが、
昨日は夜行列車、今日は夜行バスってことで、
まだ一度もお風呂に入ってないですね…。😅
一応、毎日服は着替えているのですが、
まだ一度も、ベッドで寝ていません…。😅
日本を出るときから、
こんなことになるんじゃないかな、
と覚悟はしていたので、まあいいです。😅
さて。
グーグルマップによると、
マンダレーからパガンまでは、290キロ。
自動車で約5時間の道のりです。
ただしこれは、現在の話。
当時は、マンダレーからパガンまで、
10時間もかかりました。
現在よりも、道路はずっと素朴だったはす。
いったいどんな山道を走っていたのか。
舗装道路だったかどうかも、
よく覚えていません。😄
マンダレーを出発したあと、
私たちが乗ったバスは、
夜を徹して走り続けました。
そして夜が明けた頃、
ようやく、どこかの村に停車。
バスが停まった気配で、私も目が覚めました。
私たちが乗ったバスです。早朝だったので、村の中を托鉢のお坊さんが歩いています。
バスの下に荷物入れはなく、預けた荷物は屋根に載せていました。私たちのバックパックも、この中に入っています。笑 お盆に食べ物を載せて売り歩いている人が、何人も見えます。
この村では、トイレ休憩だったようです。
天秤棒で担ぎ売りをしている、食べ物屋さん。トレーに朝ごはんを載せて売る少女もいます。
バスに戻ると、窓越しに食べ物を売る女性や子どもたちが集まってきました。売っているのは、ゆで卵やナッツ、手作りのスナック類。
いい笑顔です。^^
ほどなく出発。
その後バスは、いくつもの村で停車しました。
そのたびに、降りる人がいて、
乗ってくる人もいます。
その流れの中で、私たちも少しずつ、
後ろの席へと詰めていきました。
その頃のバスの中です。後ろの方につめて、なんとか窓際の席に座れました。車内はぎゅうぎゅう詰めで、立っている人もたくさんいます。
次の村で再び休憩。牛車が見えました。家も、前の村はトタン屋根でしたが、この村は藁ぶき屋根。^^
左奥に停まっているのが、私たちのバス。そして右側をご覧ください。このバス、ボディが木でできてるんです。すごいっ。
小さな売店で食べ物を売る少女と。
みんな、どうしてこんなにおおらかな笑顔なのか。
この少女が店番をしている売店の
壁をご覧ください。
「網代」でできています。
日本にも、「杉柾矢羽根網代」がありますが、
現在では、歴史的建造物などで、
たまに見られるくらいになってしまいました。
けれど当時のビルマでは、
どこの家でも普通に見られる建築材でした。
工業製品がほとんどない状況の中、
人の手で作られる網代は、
入手しやすかったのだと思います。
風通しがいいので、暑い国には適していますが、
防音性は皆無です。🤣
前日お伺いしたココさんの家でも、ほとんどの壁が網代で造られていました。
これは、日本の建築で見られる、杉柾矢羽根網代です。
【杉柾矢羽根網代】
杉柾矢羽根網代とは、「網代」の代表的なもので、杉の突板を材料に使用し、矢羽根模様に編んだものです。主な用途は内装用建材で、天井や建具、壁面などに使用されます。
小さい木片を組み合せた物ではなく、長い材料を編み込んで作ります。杉材を薄く細い板状に切り、手作業で矢羽根模様に編みこんでいくという、手間のかかる建築材です。
矢羽根網代は、伝統的な連続文様である「矢羽根文様」を網代で表したものです。網代の中で最も代表的かつ人気のある編み模様で、 現在でも、数は少なくなりましたが、一般住宅や宿泊施設、店舗などに幅広く使用されています。杉材の真っすぐではっきりとした木目が、直線状に連なる矢羽根模様を描き、力強くもすっきりとした印象を与えます。
夕張鹿鳴館で見た、杉柾矢羽根網代の天井です。(2023年5月13日 北海道夕張市)
このときの日記です。
積丹から幌加内へ。新緑の美幸線をトロッコで駆けた、11日間の北海道 26 - 夕張鹿鳴館③(2023年5月13日/4日め)
さて、この村の食堂で、私たちも朝ごはんをいただきました。MIYOは、世界中どこに行っても、ほぼほぼ、ごはんとチキン。大好きなんです。😄
上の写真の右に置いてある素焼きの壺には、
お水が入っています。
内側から、水が少しずつ浸みだして、
それが蒸発するので、
気化熱により、中の水が冷やされる、
…という仕組みです。
当時のビルマでは、どこにでも置いてあり、
誰でも自由に、少しだけ冷たい水を
飲むことができました。
村の中を托鉢して歩く、見習い僧の子どもたち。
大好きな一枚。
山あいの小さな村は、
朝の穏やかな空気に満ちていました。
(つづく)