埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 23 - バンブーホテルとアウンおじいちゃん(1987年5月6日-7日/6日め-7日め)
1987年5月7日 アウンおじいちゃんといっしょに。(ビルマ・ニャウンシュエ)
1987年5月6日(火)- 6日め
パガンからトラックに乗って、
一日がかりでニャウンシュエまで来たのに、
「インレー湖を遊覧する船はない。」
とわかって、
途方に暮れてしまった私たちです。
翌7日の午後には、
ニャウンシュエを出発しなければなりません。
まずはタジーまで行き、そこで夜行列車に乗り、
8日の朝にラングーンに到着。
9日の朝のフライトでタイ・バンコクに出発し、
10日のフライトでバンコクから日本に帰る。
…というのが、夫が立てたスケジュールでした。
あんな、いろんなことがうまくいってない国で、
交通機関が時間通りに
走っているかどうかもわからないのに、
よくもまあ、こんなタイトなスケジュールを
組んだものです。🤣🤣
なので夫はずっと、
「8日の朝にラングーンに戻れるかなあ…。」
と心配していました。
なにかひとつでもうまくいかないと、
ヘタをすると、9日にタイに戻れません。
そうすると、10日に日本に戻って11日から仕事に戻る、
ということもできないわけです。
夫は、この旅行をするにあたって、
職場の先輩にすさまじく嫌みを言われ、😅
それでも頭を下げまくって休暇を取ってきたので、
なんとしても11日に出勤しなければならない、
と思いつめていました。
旅のあいだ、夫が横で、
それを何度もぶつぶつ言ってましたが、
それに対してMIYOが思っていたのは、
「そんなの、知らんがな。
そもそもこれは、
あなたが企画したことじゃん。」
でした。
(口には出しませんでしたが。😅)
「列車が動いてなくて。😥
空港までたどり着けなくて。😥
飛行機に乗れなくて。😥
なので、当分日本に帰れないんです。😥😥」
…とでも言っておけば、会社も、
「それならしょうがないね…。」
というしかありません。
休暇を堂々と延長できる格好の理由になるし、
「日本に帰れなくなったら、
もう少し、ビルマかタイにいて
まだまだ旅行ができるから、
それはそれでいいんじゃない?」
なんて、MIYOは思っていました。
(のんきなものです。😅)
とりあえず翌日の午後は、予定通りに、
トラックでタジーに行くことはできそうです。
でも、翌日の午前中に乗りたかった船は、
ないということがわかりました。
こんな小さな田舎町で、
なにをしてすごそうか…。
と、ふたりで肩を落としていたら、
後ろから、誰かに呼び止められました。
「ニッポンジンですか!!」
ふりかえると、
ひとりのおじいちゃんが立っていました。
それが、アウンおじいちゃんとの出会いでした。
この人もまた、第二次大戦のときに、
日本軍が作った学校で、
日本語教育を受けたのかな…と思いました。
終戦から42年後のことだったので、
当時小学生だった子どもたちは50歳くらいです。
アウンおじいちゃんは、それよりももうすこし、
年が上だったように思います。
当時をなつかしく思い、
学校で習った日本語で話しかけてくる人は、
それほどめずらしくなかったので、
この人もまた、そうなのだろう、と思いました。
少し言葉を交わしたあと、
おじいちゃんはいきなり、
「フネ、ノリタイデスカ!」
と尋ねてきました。
「乗りたいです。
でも、インレー湖に、船がありません。」
そう答えると、アウンおじいちゃんは、
びっくりすることを言い出しました。
「フネ、アリマス。
ワタシトイッショ二、イキマショウ。」
初めて会った人を、どこまで信用していいのか、
と迷いました。
でも、遊覧船には乗れないとわかったし、
翌日の午前中にすることがなくなったし、
ここでもしも騙されていたとしても、
なにも失うものはないな…、と考え、
誘われるままに、おじいちゃんについていきました。
そのまま、近くにあったおじいちゃんの家に行き、
お茶をいただきながら、詳しいことを聞きました。
アウンおじいちゃんの話は、
「自分といっしょなら、小舟を手配できる。
それに乗って、水路を遊覧できる。」
…というものでした。
願ったり、かなったり、です。
翌日の朝、おじいちゃんと待ち合わせ、
船に乗ったあと、また町に戻ってくれば、
午後の、タジー行きのトラックに間に合います。
夫と相談し、お願いすることにしました。
「それで…。
費用はおいくらでしょうか。」
と尋ねたのですが、おじいちゃんの答えに、
またひっくりかえりました。
「オカネ、イリマセン。」と…。
タダ、ですか?
あっけにとられていると、
おじいちゃんはさらに言いました。
「ビルマ、ナニモナイ。
オカネガアッテモ、ナニモカエマセン。
ダカラ、モシ、イラナイモノガアッタラ、
ソレヲクダサイ。
Tシャツ、アリマスカ。」
驚きました。
「オカネではなくてモノが欲しい。」と…。
こんなことを言う国があるとは
思いませんでした。
そういうことなら、できるだけ差し上げたい。
…と思ったのですが、旅行中だし、
たいしたものは持っていません。
新品の衣類で良さそうなものは、もうすべて、
マンダレーでココさんに差し上げてしまいました。
洗濯していないものでもかまわない、
とのことだったので、未洗濯のを含めて、
そのときに持っていた衣類のありったけを、
進呈することにしました。😅
帰国するまでの衣類は、
毎日洗濯して凌ぐことにし、
これから着る予定だった着替えも、
置いていくことに。😄
…夫とそんなことを相談していると、
アウンおじいちゃん、
昔のことをいろいろ思い出したようで、
歌を歌い始めました。
「ミヨ、トウカイノ ソラ アケテー♪」
愛国行進曲です。^^
学校でならったのでしょう。
歌が終わると、今度は奥から、
古ぼけたバイオリンを持ってきました。😮
おじいちゃん、
キコキコとバイオリンを弾き始めたのですが、
それはなんと、「海行かば」のメロディーでした。
「うみ~ 行かば~ 水漬く屍~
やま~ 行かば~ 草生す屍~」
今度は、夫が歌い始めました。
夫の父親が海軍兵学校に居たためか、
夫は小さいころから、軍歌を聞きなれていて、
高校生くらいになると、
第二次大戦のときの話についても、
関連する本をよく読んでいたそうです。
アウンおじいちゃんのバイオリンに合わせて、
夫が軍歌を歌う…。
その光景を、いただいたお茶を飲みながら、
不思議な気持ちでながめていました。
こんなひとときを過ごしたことも、
ビルマならではのできごとだったと、
今ではなつかしく思い出します。
なんだかよくわからないけど、
とりあえず、明日は船に乗れそうだ…、
とわかり、少し元気がでました。
まだまだ、半信半疑ではありましたが。^^
その夜、町を歩いていて出会った女性と。「いっしょに写真を撮りましょう。」と言ったら、わらわらと子供たちがでてきました。まだ若いけど、6児の母でした。😄
ところで。
この夜に泊まったところですが…。
今で言う、ゲストハウスみたいなところでした。
っていうか、バス乗り場のあたりには、
そんなのしかなかったのです。
ホテルズドットコムで探したら、ニャウンシュエでいちばん安いのがこちらでした。ハードウッド ロッジ - ホステル。一泊1400円くらい(ふたり分)。(画像をお借りしました)
いや~。
こんないいお宿ではなかったです。笑
これは昼間、通りがかったおウチの写真ですが、どっちかというと、これに近かったです。それも平屋建てで、外壁は全部、竹でできていました。爆
これは、ハードウッド ロッジ - ホステルの客室の写真です。私たちが泊まった部屋は、これよりももっと素朴でしたね…。(画像をお借りしました)
竹でできたお宿。
その名も、「バンブーホテル」でした。🤣
一泊500円くらいだったかな…?
今思うと、写真に撮っておけばよかった、と。笑
でも、部屋の中で撮った、貴重な一枚があります。
しょぼくれて、バナナ食べてます。😂
部屋の壁も天井も、板でなくて網代。
網代のパネルを針金でしばってつなぎ、
衝立のようにして、部屋を仕切ってありました。
隙間から部屋の中が見えるので、
おちおち着替えもできません。😅
トイレとシャワーは、もちろん共同です。
シャワーは、たしか使用できたと思いますが、
「もう、私、お風呂はいいや。
晩ごはんも食欲ないからいい。
明日は朝早いから、バナナ食べて寝る。」
と言うと、夫も、
「オレもそうする。」
と言い出し、ふたりしてバナナを食べ、
夜8時には灯りを消して寝ました。
ああ、ついでに。
室内の照明も、裸電球1個でしたね。🤣
1987年5月7日(火)- 7日め
ビルマに着いて6日めの朝になりました。
この日は、朝7時に、
アウンおじいちゃんと会うことになっていました。
「待ち合わせの場所は?」
と尋ねると、
「私たちが初めて出会った場所」
と…。🤣
かなりアバウトですが、他所者の私たちには、
むしろわかりやすい。😄
…ということで、朝6時半にホテルを出て、
昨日、おじいちゃんと会った場所へと歩きました。
前日訪れた、ヤダナマンアウン・パゴダの前まで来ると、向こうから、たくさんのお坊さんがやってきました。
これから托鉢にでかけるところのようです。
後ろの方で、少し遅れ気味に歩いているのは、小さな見習い僧たち。^^
さらに少し歩いて、
前日、おじいちゃんと出会った場所に到着。
ほんとうに来るかな…と少し不安でしたが、
おじいちゃん、先に来て待っていてくれました。
このときのおじいちゃんのかっこうです。はりきって、ジャージを着てます。🤣 そして、「水の上では日差しが強いから」と、MIYOと夫の分まで、菅笠を持ってきてくれていました。😄
おじいちゃんといっしょに船着場に行き、
小さな舟に乗って出発しました。
これは、インレー湖へと続く水路です。向こうから小舟がやってきましたが、私たちが乗っているのも、これと同じような、3人乗りの舟でした。
水路上にはたくさんの家があり、陸地から家までは、渡し板を通っていきます。アヒルくんたちが、列を作って泳いでいました。
少し行くと、どこかの岸辺で舟を降りました。でっかい仏像があります。
おじいちゃん、舟に乗るだけでなく、観光案内もしてくれるようです。😄
再び小舟に戻って出発。インダー族の船頭さんといっしょに記念撮影。周囲には、水に浮いた家がたくさんありました。
【インレー湖周辺の人々】
インレー湖周辺には、独自の生活習慣や文化を持つ少数民族が住んでいます。なかでもインダー族は水上生活をしており、水上に高床式の家を建てて暮らしています。主に、漁や湖上の浮き畑で農業をしながら生活しており、市場や学校、病院など、どこへ行くにも舟で湖を渡って行きます。
次に行ったのは、葉巻工場。…と言っても、普通の家の一室で、若い女性が子どもを遊ばせながら、せっせと葉巻を作っておられました。
このあと市場に行ったら、このときと同じ葉巻を加えながら野菜を売っている女性を発見。夫、思わずパチリ。😄
葉巻くわえてます。^^
「葉巻を吸ってるふりをして。」と言われて。お仕事の邪魔をしてスミマセン。😅
おじいちゃんはお茶をもらって、
葉巻も吸っていたので、
お知り合いのおウチだったのかもしれません。
小さいネコちゃんがいたので、抱っこさせてもらいました。^^
元々乗ろうとしていた「インレー湖遊覧船」は、
モーター付きで、ここから数キロ先にある、
インレー湖の中まで行きます。
現在のインレー湖遊覧船です。一艘につき、5個のりっぱなイスが固定されています。(画像をお借りしました)
でも、おじいちゃんが乗せてくれた舟は
手漕ぎ舟だったので、
インレー湖までは行けません。
私たちはこんな小舟に乗って、水路をすべるように進んでいきました。
おじいちゃんが企画してくれたのは、
インレー湖の手前にある水路を、
ゆっくりのんびりと遊覧してまわる、
…というものでした。
でもそのことが、
予想外の展開となりました。
(つづく)