MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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ベトナム家族旅行:
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4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 80 - 王宮㉑ 肇廟、太廟、門樓、そして午門へ(2023年6月19日/6日め)

(2023/10/14 19:00記)

2023年6月19日 フエ王宮・閉館間際の午門で。


6月19日(月)


王宮の午門から入城し、
「の」の字を描くようにぐるりと回って、
歩いて歩いて、最後のスポットである、
内務府を訪れました。



上の地図を見ると、
右下の隅のエリアが、まだ残っています。
このエリアには、
太廟と肇廟
があるのですが、現在は大改修中で、
入ることができませんでした。
建物を見ることはできませんでしたが、
ベトナムの文献を調べていたところ、
損傷の調査レポートが見つかったので、
その内容を参考にしながら、
このエリアの現状を掲載しておこうと思います。


地図で最後に残っていた右下のエリアを、空から撮ったものです。中央部に、肇廟、太廟、門樓が縦に並んでいます。(以下15枚、画像をお借りしました)


まずは、このエリアの主軸となる、
太廟から見ていきます。


これは、太廟の西側にあった門の写真です。門の向こうに、太廟の美しい屋根と植木鉢が見えます。槍を持った衛兵もいますね。^^(1919年)

在りし日の太廟です。


【太廟(Thái Miếu)
 1802年に建てられた廟です。フエ王宮における最大の木造建築物で、グエン王朝のルーツ(先祖)である広南国(1558年−1777年)の歴代皇帝を祀っています。
グエン王朝が成立する以前、フエの地は広南朝阮氏が治めており、9代にわたって続きました。が、やがて西山朝に打倒されます。広南朝の皇族は皆殺しにあいましたが、ひとりだけ生き残りました。それが、後に西山朝を打倒したグエン・フック・アイン(阮福映)であり、のちの、グエン朝初代ザーロン帝です。ザーロン帝は、王宮を建造するにあたって、まず太廟の建設から始めました。ザーロン帝は広南朝の武王(位1738~65)の孫にあたり、広南阮氏の跡を継ぐ正統性を明らかにする必要がありました。そのため、歴代の王を祀る太廟を真っ先に建設したと言われています。
グエン王朝成立後、ザーロン帝は、一族の仇である西山朝の皇族を太廟に捧げて、復讐を成し遂げたことを報告しました。そしてそのまま、彼らを城外に引きずり出し処刑したと伝えられています。


太廟は、
グエン王朝の基盤
とも言える存在でした。
しかし1947年、フランス軍との交戦中、
ベトミンによって完全に破壊されました。


破壊後の太廟です。わずかに残った基礎が、草むらの中に放置され続けました。

1972年、太廟は、古い基礎の上に再建されたそうなのですが…。

これが、現在の太廟です。どうしてここまで放置されてしまったのか…。

目を覆うばかりの惨状。瓦はすべて撤去され、トタン屋根は何か所もはがれています。😲

もはや、言葉もありません…。😯

倒壊寸前なのか、つっかえ棒で支えてあります。これは国の重要文化財級の建物だと思うのですが…。

その内部です。鉄骨で数か所を支えているようですが、現在の太廟は、ほぼ廃墟となっています。

太廟の庭で。すっかり錆びて、置かれたままになっている香炉です。


続いて、太廟の北にある肇廟です。


【肇廟(Triệu Miếu)
太廟の裏手にある肇廟は、太廟の一年後、1803年に建てられました。広南朝の太祖ティエン・グエン・ホアンの父、グエン・キムを祀る場所です。肇廟もまた、太廟と同様に状態が悪く、修復が待たれています。


在りし日の肇廟です。(画像をお借りしました)

こちらも、現在はキビシイ状態です…。

内部も荒れ果てています。


さらに、東西にふたつの門が並んでいる、
門樓を見てみます。


これは、東側のクアンヒ門です。胸が痛みます。


エリア内にある門の多くは、
ひどく損傷したまま、放置されています。
倒壊の危険もあるので、安全性の観点から、
観光客は立ち入りを禁止されているそうです。


すごいモノを見てしまったなあ…
と言う、驚きしかありません。


文化財というものは、
「必ず残さなければ」という強い意思と
相当の費用をかける覚悟がないと、
守り続けることはできないのだと、
痛感しました。


けれどベトナム政府は、
太廟と肇廟をずっと放置したのではなく、
「ここまで手が回らなかった」
ということではないかな、と感じています。


ベトナムの人々は、
戦争で壊滅状態になっていた王宮内部を、
これまでも、たいへんな年月と費用をかけて、
再建してきました。


けっしてあきらめない人たちなのは、
歴史が証明済みですが、
この王宮においても、彼らは、
多くの困難を乗り越えながら、
ひとつ、またひとつ、と再建し、
美しい王宮の姿を、
取り戻してきたのだと思います。


そして今。
ようやく、太廟と肇廟を修復する段階
たどり着いたようです。


太廟と肇廟エリアの修理・復元プロジェクトは、
2026年から始まります。
工期は4年。
総工費は、2650億ドン(約16億円)以上。
建物だけでなく、庭や小道の整備も含めて、
工事が完了するのは、2030年だそうです。


あと7年。


「そのときまで生きてないよ。」
と、即座に笑いとばした、多動夫。
「いや…。73か。生きてるかな…。」
と言ったきり、黙ってしまいました。


あと7年。


7年後のMIYOは71歳。
そのときまで、元気で長生きして、
ぜひ、このエリアを歩いてみたい。


…そんな夢を持ちながら、
今を生きるのが大事なのだと思います。
たとえ本当に行けなくても、ね。😄


太廟と肇廟のあるエリアを通り過ぎて、2番通りを進みました。

修復工事中の太和殿が見えてきました。道路沿いに、ベトナム各地の写真が飾ってあります。はるか向こうの方までずうっと続く写真の数々が、「べトナムは、こんなに魅力的な国なんだよ。」と語りかけているようでした。

写真や彫像のひとつひとつを見て、楽しみながら歩きました。


そしてついに…。


午門が見えました。

夕方5時。スタート地点だった午門に、戻ってきました…。


王宮日記は、次回が最終話になります。


いまここ。😄


(つづく)

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