MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 101 - 旧下ヨイチ運上家③(上手玄関、裏座敷、表座敷、縁側、そして2階)(2021年11月13日/11日め)

(2023/03/29 16:00記)

2021年11月13日 旧下ヨイチ運上家・上手座敷で。ここにはかつて、「遠山の金さん」のお父さんが滞在していました。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


旧下ヨイチ運上家に来ています。
次は、上手座敷を歩きます。


【上手座敷】
運上やの建設面積約540㎡に及びましたが、そのおよそ半分を占めていたのが上手座敷です。松前藩士や勤番下役の詰所(役人や勤番下役の勤務場所)という位置づけでしたが、江戸幕府その他の藩士たちの止宿所としても使用されました。

エリア内は、身分によってそれぞれ居住区が分けられており、中廊下を挟んで、武士たち専用の部屋がありました。


中廊下を少し歩くと、右側に上手玄関が見えました。

上手玄関です。


【上手玄関】
松前藩士や江戸幕府の役人等、武士たちが出入りした玄関です。三方ひさし付き屋根玄関で、一般の人は出入りできませんでした。


あらためて運上家の外観を見てみると、玄関がふたつあることがわかります。左側が、私たちが入った玄関で、この中には船主や漁夫のためのエリア(板の間)がありました。それに対して、右側の玄関の内側は武士のためのエリアで、すべて畳敷きになっていました。


ひとつ屋根の下ではありますが、
藩士たちは、上手玄関から出入りし、
上手座敷だけで過ごすので、
通常、漁夫たちや身分の低い人々とは
顔を合わせることもなかったと思われます。


障子や襖も豪華絢爛です。奥の金の襖は江戸時代のもので、波と千鳥が描かれています。


さて、上手座敷には、
中廊下を挟んで4つの部屋がありました。
玄関側の表一、表二、
そして庭に面した、裏一、裏二です。


まずは、いちばん奥の部屋である裏一から見て行きます。

裏一では、西蝦夷地巡検視・目付 遠山金四郎景晋(かげくに)が滞在していたときのようすを再現しています。


【遠山金四郎景晋】
幕府より西蝦夷地巡見を命じられ、1806年(文化3年)、旧暦4月15日より13日間、この運上家に滞在しました。当地では、ヨイチ・ユワナイ間の山道切り開きの策定と、北方警備の調査などを行いました。
「遠山の金さん」の父親として知られていますが、江戸幕府の対外政策の第一戦を担って東西奔走した人物でした。幕府の蝦夷地直轄、ロシア使節レザノフ長崎来航、朝鮮通信使易地聘礼などの重要案件に携わり、現地に派遣されています。その出張は、1799年から1811年までの12年間に、蝦夷地3回、長崎1回、対馬2回にのぼっています。

1805年から1806年にかけて西蝦夷地から宗谷まで見聞したあとは、長崎奉行となり、江戸に戻ってからは勘定奉行を勤めました。文政年間の能吏として知られ、中川忠英、石川忠房と共に三傑と呼ばれました。


中廊下を隔てて奥に見えている部屋は、表一です。

つづいて裏二です。この部屋は勤番詰所で、知行主や藩士、勤番下役が役所的な業務を行う部屋でした。人形は、「ヨイチ場所詰 勤番役人」を再現しています。

裏一と裏二に沿って、縁側が設けられています。この縁側の手前に、トイレと風呂がありました。

縁側から見える庭の風景です。

次は、中廊下を挟んで反対側にある、表一です。幕府勘定吟味役・村垣左太夫定行が滞在していたときのようすを再現しています。


【村垣左太夫定行】
1787年(天明7年)より9度に渡り、「遠国御用」を務めました。幕府より西蝦夷地巡見を命じられ、1805年(文化2年)から翌年にかけて、目付遠山金四郎景晋と共に松前・蝦夷地を視察し、1806年の旧暦3月23日に、ヨイチに到着しました。西蝦夷地を収公するために、この運上家に滞在したあと、石狩方面へ出発しています。視察後、蝦夷地の記録を「西蝦夷日記」にまとめて幕府に提出したことから、1807年(文化4年)、松前奉行に任命されました。その後は、老中水野忠成の元で幕府財政に携わり、諸国河川修復、金銀改鋳、江戸町会所貸付金管掌、諸国総石高検査などを担当しました。


最後の表二には、腰元が控えていました。腰元とは、身分の高い人に仕える侍女ですが、当時ここには女性は入れなかったそうなので、この人形は演出なのかもしれません。

これで、一階部分のすべての部屋を見ました。最後に、下勝手と上勝手の間にある階段を上がって、二階を見てみます。

階段です。上台所の奥、上勝手という場所にあります。

階段を上がったところです。

2階には、このような部屋が8つあり、「寝部屋」と書いてありました。


【運上家・2階部分】
2階には板の間が8部屋あり、漁師や旅人が泊ったとされています。この2階部分には囲炉裏の熱が上がってくるので、意外と温かく過ごせていたようです。この8部屋は、運上家の左半分である板の間の上にのみ設けられており、右半分の上手座敷エリアには行けないようになっていました。これは、上手座敷の上の部屋から、機密情報を盗み聞きされることがないように、という配慮からだったようです。


これで、すべての場所の見学を終えました。
最後にあらためて、
旧下ヨイチ運上家の概要を記しておきます。


【旧下ヨイチ運上家】
かつて松前藩は、米作が成立しない土地柄ゆえに無高とされており、アイヌ人との交易に経済的基盤を依存していました。その実質的な担い手だったのが、「場所請負人」と認められた商人達でした。彼らは交易のみならず、漁場経営、駅逓、アイヌ人の撫育などの業務をも同時に行っていました。運上家は、彼らのような商人達が各々の請負場所に建てた活動拠点で、往時は松前藩領内に85ヶ所もあったとされています。が、廃藩置県後に破却が相次ぎ、唯一現存しているのが、旧下ヨイチ運上家です。明治以降に開拓が進んだ北海道にとって、藩政期の歴史を伝える建物は、きわめて貴重な存在で、1971年、国の重要文化財に指定されました。


かつてこのあたりは海沿いだったそうですが、現在は、海岸が少し遠ざかっています。

運上家から見た景色です。ずいぶん埋め立てられています。


さて。
ここで、すでに1時を過ぎていました。
夫が予約している、
ニッカウヰスキー北海道工場 余市蒸溜所
の見学は、2時半から始まります。
かなり時間がおしていましたが、
多動夫、あきらめません。


「次の場所にいくよ!」と、うれしそうです。😂😂

旧余市福原漁場で買った共通入場券(880円)に含まれていた、「よいち水産博物館」に行こうというもくろみです。爆


旧余市福原漁場と旧下ヨイチ運上家で、
入場料の合計は600円。
あと一か所に行けば、モトがとれるのです。
ってことで、
「なんとしても、
 よいち水産博物館に行かなければ。」
というビンボウ根性が出てしまいました。
(アホです。笑)


またまた今回も、ドタバタ旅行ですね…。😅


(つづく)

×

非ログインユーザーとして返信する