MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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ベトナム家族旅行:
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コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 100 - 旧下ヨイチ運上家②(船主居間、番人様方居間、帳場、酒部屋、便所、神棚、そしてアイヌ絵)(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 旧下ヨイチ運上家で。写真を撮るのに忙しく、なかなか内部に入れませんでした。笑(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


旧下ヨイチ運上家(うんじょうや)に来ています。



「下」という字が不思議だったのですが、
当時の余市場所は、
上ヨイチ(余市)と下ヨイチ(余市)とに
区分されていて、
「運上家は下ヨイチにあった」という、
ただそれだけのことだったようです。^^


それでは、
旧下ヨイチ運上家の内部をさらに見ていきます。


入口を入ってすぐのところには、「船主居間」がありました。

船主居間です。

中で、船主がお酒を飲んでいました。

この部屋の障子を開けると、船主が座っている位置から、帳場が見えます。船主は、居間でお酒を飲んでくつろいでいるときでも、常に、番人たちや帳場のようすに目配りをしていたのかもしれません。

帳場の手前にある板の間は、「番人様方居間」でした。帳場と番人様方居間の一部は、上台所よりも床が高くなっています。床の高さで、当時の身分関係がうかがえます。^^

帳場の中です。手前でお茶を入れているのは、丁稚の小僧さんですね。^^


【帳場】
支配人、帳役、アイヌの通詞、番人、稼ぎ方を置く場所でした。交易、漁業取扱いなどの業務を行い、余市場所の漁獲高、金銭の取扱いなどの事務処理を行いました。


帳場は板の間ではなく、畳が敷かれています。今で言うと、経理部や総務部のようなところだったのでしょうか。^^

次は、上台所の奥にある、「酒部屋」です。


【石室付酒部屋】
酒は、お祝いの時だけでなく、網おろし、切上げ、交易などの業務には欠かせないもので、灘、若狭、能登、新潟などから北前船(弁財船)で運び込まれました。たいへん貴重なものだったので、酒のための部屋を特別に設けてありました。


*陶磁器類は、余市町・金田小大郎氏から寄贈されたものです。

器は、下台所にもたくさんありました。

美しいお猪口は、明治時代の九谷でした。

最後に、土間の奥にある便所に行きました。

こんな感じです。😅 やはり、漁夫が使用するトイレは、木製なんですね。


これで、1階の左半分を見終わりました。
次は右半分の上手座敷を歩きます。
ここには、
役所的な業務を行う勤番詰所がありました。
武士が過ごすエリアなので、
すべて畳敷きになっています。


勤番詰所エリアの入口です。上部には、巨大な神棚が設けられていて、まるで小さな神社のようです。床には、賽銭箱まで置かれています。


上の写真で、床の部分にもご注目ください。
これまで歩いてきた板の間(上台所)よりも、
床が2段にわたって持ち上げられています。
身分の差がありすぎて(?)、
1段上げるだけでは、足りなかったみたいです。笑


その神棚の左側には、アイヌ絵の幟旗(のぼりばた)が天井から吊るされていました。

これは、別の部屋にあったアイヌ絵の幟旗です。


【アイヌ絵(武者のぼり下絵)】
江戸末期、松前藩の絵師・早坂文嶺の作です。義経と蝦夷の娘が結ばれ、男子が誕生したのを祝い、若者が弓を引こうとしたのですが、義経が片手で押さえただけで弓が引けなくなりました。それくらいに、義経は力が強かった、というエピソードを描いたものだと言われています。
端午の節句の際、子どもの成長を願って幟旗(のぼりばた)を立てる習慣は、江戸時代に武家の間で行われていたもので、松前にも同じ習慣がありました。
「義経蝦夷渡伝説」(義経は平泉で死なずに、蝦夷地に渡ってその地を征服し大王と仰がれ、後に神としてまつられた)という物語は、江戸時代から伝えられ、義経の死にまつわる伝説のうち、最も流布したものとされています。この絵も、その伝説にまつわるものと思われます。

ただし、この伝説には、もうひとつの側面があります。江戸時代、幕府によるアイヌ民族の同化主義政策が開始された際、この「義経蝦夷渡伝説」がアイヌに強制され、日本に帰属させるための精神的な手段となったことも、心にとめておきたい点です。


左:片手で弓を押さえる義経。
右:義経とのあいだに生まれた子どもを背負う、アイヌの女性。

それでは、仏壇の下をくぐって、上手座敷に入ります。


次回は、上手座敷の中を歩きます。


(つづく)

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