MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 93 - 旧余市福原漁場⑥ 文書庫(1階から2階へ)/ 山口かほるさんの個展(2021年11月13日/11日め)

2021年11月13日 旧余市福原漁場・文書庫で。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


旧余市福原漁場の、文書庫に来ました。
これまでに、
 網倉
 米・味噌倉
 納屋場
 雑倉
 石倉

を見てきました。
公開されているスポットの、
ようやく半分が終わったのですが、
あとまだ半分が残っています。😅
全スポットを書き終えるまでには、
まだまだ、何日もかかりそうですが、
(スミマセン)
がんばって書き続けようと思います。


文書庫です。


【文書庫(文書蔵)】
漁場経営についての書類、高価な衣服、調度品など、網元の重要な財産を保管するための蔵でした。北海道では一番蔵とも言います。土造りで、地上3階、地下1階、平面坪数は24.5坪です。3階建ての土蔵は、道内では他になく、全国的にも珍しいもので、当時「大宅(おおやけ)」と呼ばれた漁場経営者の権勢を物語っています。外壁は板に見えますが、実は漆喰(白壁)でできています。漆喰は雨や潮風に弱いので、その漆喰を保護するために、上から板をあてています。この板は着脱式になっているので、乾燥期には板をはずし、壁に風をあてたのかもしれません。

余市福原漁場の文書庫では、先祖伝来の大切な文書や家具什器、土地や漁業権・金銭貸借取引・漁師との契約書などの重要書類、そして高価な衣類や装飾品などが保管されていました。


文書庫です。

文書庫は、今見学したばかりの石倉の隣りにあります。

長い歴史を積み重ね、言いようのない雰囲気を醸し出しています。

右側面から見たところです。一見、木造のようなのですが、開け放した窓を見ると、内側は土蔵であることがよくわかります。


それでは、中に入ってみます。

外観は古い木造家屋のように見えましたが、玄関を入ると、内側に、漆喰の土蔵が現れます。

漆喰の土蔵部分には、4層にわたって、扉が取り付けられていました。


①両開き扉(防火扉)
一番外側にある、分厚い漆喰の非常に重い扉です。(カバー板が取り付けられているので木の扉に見えますが、実際は漆喰です。カバー板は、漆喰の扉を保護するために、あとから取り付けられたものです。)この扉は、
普段は開け放してあり、火事の時には閉じました。閉じると、合わせ目の「ひだ」がピタリと合うようにつくられています。それでも隙間があるときは、生味噌を塗りつけました。(昔は、扉のそばに、目つぶし用の生味噌を常備していました。)
②裏白戸
漆喰の防火戸です。
③大戸
ケヤキの一枚板で、からくり錠が付いています。
④中戸
くぐり戸のついた網戸。からくり錠が付いています。


扉の向こう側、文書庫の内部(1階部分)です。壁に沿って、かつて網元の家で使用されていたであろう、たくさんの食器が展示されていました。

階段を上がって、2階に行きます。

2階です。部屋いっぱいに、たくさんの資料が展示されていました。まずは、床の中央部にある、四角い仕切りをご覧ください。

床の格子戸です。2階や3階へ大きな荷物や重い物を引き上げるときには、この格子戸が水平に開きました。重い物を引き上げるときは危険が伴うので、2階と3階の穴を重ねることなく、それぞれの位置をずらして作ってあります。そのため、1階から3階へ、重い物を一気に引き上げることができません。作業者は、2階でいったん荷物を降ろして、呼吸を整えてから、さらに3階へと引き上げました。これもまた、昔の人の知恵でした。

かつて使用されていた、火鉢や箪笥です。

この漁場の最後の経営者であった、川内家の半纏です。


【川内家の半纏】
福原漁場最後の経営者であった川内藤次郎は、明治33年には、約5.4ヘクタールの農地を所有しており、不漁の年に備えて果樹園や水田も営むなど、堅実な経営をしていました。昭和に入って凶漁が続くと、ニシン漁の将来を予見して、昭和22年、漁業から完全に手を引きました。その際、粕干場などは果樹園に切り替えるなどして、農業に転向しています。その頃に雇われ人が着用していたのが、この半纏です。


川内家の暖簾です。

「現場を見回る親方」と書いてある写真がありました。最後の経営者・川内藤次郎であると思われます。


ニシンで稼いだ金を使い果たし、
水泡に帰してしまう網元が多い中、
彼は書物等にお金をかけ、
不漁の時期には農業への方向転換を行うなど、
堅実な経営者であったと伝えられています。


(つづく)


(お知らせ)


山口かほるさんから、個展の案内状をいただきました。国立市のギャラリーで、4月6日から11日まで開催されます(無料)。


【山口 かほる】
 1950年5月生まれ。
生後3ヶ月で脳性マヒと診断される。
10歳の時に兄嫁から絵を習い、口で描くことを始めた。
14歳で入所した施設では、4時に起き、両手が使えないから、時間をかけて朝食を自分で食べ、学校へ行った。やがて宗教に出会い、心の救いと友人を得、忍耐を学んだ。
絵画は、16年間研究所に通い、学習を重ねた。初めは口で描いたが、長年酷使した体のためにとの助言に沿い、現在は足で描いている。個展の開催多数。

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