コロナでも上州2。からっ風に吹かれて歩いた群馬 2泊3日の湯めぐり旅 35 - 臨江閣③ 本館1階(奥座敷と板の間)(2023年1月18日/3日め)
2023年1月18日 臨江閣本館の2階で、Nさんと。(群馬県前橋市)
1月18日(水)
臨江閣本館に来ています。
臨江閣本館です。このあと別館に行き、その2階から眺めたときに撮った写真です。
4つの和室をずずうっと歩いたあと、
さらにその先にある、
「奥座敷」に行きました。
奥座敷です。「一の間」(奥側)と「次の間」(手前側)の二部屋で構成されています。
手前側の「次の間」には、臨江閣の建設のために尽力した、初代群馬県令・楫取素彦(かとり もとひこ)のふるさとである、萩についての展示パネルがありました。右は、楫取素彦のひとりめの妻、寿です。
つづいて奥側にある、奥座敷の「一の間」です。
ここには、楫取素彦とその妻・寿に関する展示がありました。
はじめは、
どうして萩の展示が群馬県に?
と、戸惑ったのですが、
楫取素彦は、萩の出身なんですね。^^
そして彼の妻である寿は、
吉田松陰の妹です。
素彦は寿を深く愛していて、
寿が病死した後、
「寿が亡くなるときに着ていた衣類を
洗いたくない。」
と言ったそうです。
その後周囲の勧めで、素彦は、
寿の妹・文(後の美和子)と再婚します。
夫婦の片方が亡くなると、
その兄弟と再婚するのは、
当時は珍しいことではありませんでした。
素彦は文と、幸せな晩年を過ごし、
84歳でこの世を去ります。
その際、勲一等瑞宝章が贈られました。
その9年後、1921年に、
美和子もひっそりと息を引き取ります。
美和子の激動の生涯は、
テレビ番組でドラマ化されています。
【花燃ゆ】
明治維新で活躍する志士を育てた吉田松陰の妹である、文(美和子)の物語です。文は、長州藩の運命に翻弄されながらも、松陰の教えを胸に、志を持って維新の世を力強く生きぬきました。その生涯は、2015年1月から1年間、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で放送されました。
楫取美和子と「花燃ゆ」。
また脱線しました…。😅
話を臨江閣に戻します。笑
奥座敷・「一の間」の縁側に立つと、屋敷内が一望できます。左側に見えるのは、奥座敷・「控の間」。そして縁側の向こうには、さきほど歩いた4つの部屋が一列に並んでいます。
このほかにも、1階部分では、
階段下のスペースを利用して、
様々な展示がありました。
かつてこの地にあった、前橋城の模型です。
この模型を平面図で見ると、こうなります。(画像をお借りしました)
【前橋城のその後】
大政奉還により、江戸幕府が終焉しました。そして1871年(明治4年)、廃藩置県により、前橋城本丸御殿に前橋県の県庁が置かれました。このときに、他の建屋は取り壊されました。そしてまもなく、府県統合によって群馬県が成立し、県都が高崎から前橋に移されます。その後本丸御殿は、1928年(昭和3年)に老朽化で取り壊されるまで、群馬県庁舎として使われました。
現在、本丸跡地には、1999年(平成11年)に竣工した、鉄筋コンクリート建の群馬県庁本庁舎(地上33階・地下4階)が置かれています。また、二の丸跡地には、前橋市役所が置かれ、三の丸跡地は前橋地方裁判所になっています。三の丸外郭の地は、1905年(明治38年)に整備され、前橋公園となりました。この他、前橋城址には、移築された群馬県庁昭和庁舎と群馬会館の2つの近代建築遺産がある。
なお、臨江閣、るなぱあく(共に、国の登録有形文化財)が位置するのは、東西300メートル、幅70メートルにも及ぶ前橋城の大空堀(自然の地形で、人工の壕ではない)跡になります。
現在の城址は市街化が進み、城の面影はほとんどありませんが、2021年(令和3年)、発掘調査によって大手門の石垣が発見されました。
お城の本丸が、そのまま、
群馬県庁舎として使われたんですね…。😮😮
そして、一昨日私たちが歩いてきたところは、
とりもなおさず、前橋城の跡地だったのだ…
と、このときに初めてわかりました。
かつての群馬県庁舎の模型です。前橋城の本丸御殿が、そのまま群馬県庁舎として使われました。なんと斬新なSDGsでしょうか。😄
上から見ると、さらに壮観ですね。(これは、1階板の間にあった模型です。)
当時の、玄関部分の写真です。これが群馬県庁舎ですよ。😮😮
そして二の丸跡地に置かれた、前橋市役所です。
鐘楼の模型(1/13)もありました。時の鐘・撞鐘堂(しょうきょうどう)と呼ばれました。
【鐘楼】
かつては、前橋城にも時の鐘がありました。鐘楼は、江戸時代中期、松平家が建て、当初は八幡宮の境内に神宮寺といっしょに祀られていました。が、明治に入り、神仏分離から神宮寺は廃寺となります。その時に寺の鐘の処分が検討されましたが、町民の希望で時の鐘として存続しました。
その後は、時の鐘として町民に親しまれていました。1883年(明治16年)の大火で鐘楼が焼失しましたが、すぐに寄付で再建され、鐘も元どおり据え付られました。日本が太平洋戦争に突入すると、金属供出で、家庭金物などと一緒に回収されました。が、溶かす直前で終戦となりました。戦後、奇跡的に発見されて寺に戻され、今でも親しまれています。鐘楼は戦火を逃れ、戦後まで存在し続けたそうです。
1階部分には、さらに「板の間」があり、ここも展示スペースになっています。
板の間の展示テーマは、「臨江閣と近代前橋の歩み」でした。
空襲後の市街地。前橋市も焼け野原になりました。
「公用アリ役場ニコイ」という貼り紙に驚きました。召集令状を渡す家が留守の場合、この紙が貼られたそうです。命がけで出征する人に向かって、この言い方はないと思います。😔
かつて臨江閣に取り付けられていた品々も保管されていました。
改修前の臨江閣別館大屋根にのっていた鯱瓦(実物)です。現在、別館の大屋根を飾っているのは、これを元に作製された複製品です。この写真だけでは大きさがわかりにくいので…、
夫と、そしてNさんにも並んでいただきました。笑
忘れじの、西双版納。^^
次回は、臨江閣本館の2階を歩きます。
(つづく)