MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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コロナでも茨城。ネモフィラの丘と弘道館を訪ねて 6 - 学校御殿(2021年4月23日)

2021年4月23日 弘道館で。(茨城県水戸市)


4月23日


弘道館に来ています。
玄関と諸役会所の間の廊下を、
奥へ奥へと歩いていきました。


畳敷きの美しい廊下が、まっすぐに伸びています。この左手には、対試場(たいしじょう)が広がっていました。ここで武術の試験などが行なわれました。

廊下の右手には、正庁正席の間があります。ここに藩主が臨席をして、隣りの正席の間や二の間で行われた学問の試験や対試場で行われた武術の試験を見ていたそうです。


【正庁正席の間】
正庁は、「学校御殿」とも呼ばれており、弘道館の中心的な建物です。正席の間と、その隣りに続く二の間・三の間は、儀礼的・公的な空間でした。特に、正席の間は、藩主が臨席して文武の試験が行われた、重要な場所でした。


床の間の掛け軸は、弘道館記碑の拓本です。石碑の実物は、現在も裏手の八卦堂内にあります。

藩主の間だけあって、釘隠しも美しいですね。

対試場に面している縁側を歩いてみました

縁側の長押に掲げられている扁額です。「游於藝」という文字は、徳川斉昭自筆によるもので、「藝に游ぶ」という意味です。論語の一節だそうです。

この縁側に立つと、対試場の広いスペースと共に、遠くに正門を臨むことができます。


藩主の部屋であった正庁正席の間から
ほど近いところに、
意外なものがありました。
湯殿と便所です。
これは、藩主専用だったそうです。



湯殿
外部から湯・水を運んで浴した場所で、斎戒沐浴(心を清め身を洗うこと)の場として使用されたとも考えられています。床に隙間があって、ここから水が流れ落ちるようになっていたようです。

便所
畳敷きの三室からなり、奥の部屋は大便用、その手前の部屋は小便用で、さらに手前に手を洗うところがありました。


「藩主専用」だけあって、
湯殿も便所もかなり立派です。
けれど、なにか不思議な気持ちでした。


ここは藩校。
つまり、学校だったんですよね。
藩主のために、
こんなりっぱな湯殿や便所が、
ここに必要だったのかな、と…。


私「学校なのに、なんでこんなものがあるの?」
夫「藩主がときどき来てたからじゃないの?」
私「ここは学校でしょ。
  藩主の別荘だったわけ?」


…不届きなことを言ってスミマセン。
でも、この2週間前に訪ねた、
会津藩校・日新館は、
いかにも学校という感じで、
もっと生き生きとした雰囲気でした。
藩主のお風呂だのトイレだのは、
なかったけどなあ…と。


弘道館は、学校というよりも、
もっと格式が高い感じです。
「学校御殿」ですか…。


まあそれだけ、弘道館には、
藩主が頻繁にやってきた、
ということなのかもしれません。
徳川慶喜が謹慎していたところでも
ありますし…。
同じ藩校と言っても、藩によって、
その佇まいや雰囲気が
全然違うなあ、と感じました。


左手が、藩主専用トイレの入り口です。ここから、長い廊下を歩いて、次の棟に向かいます。


この廊下のスペースを利用して、開館180年記念の企画展示が行われていました。テーマは、「渋沢栄一と弘道館」です。


この廊下に続いて、
至善堂と4部屋があり、
展示スペースとなっていました。


至善堂御座の間(画像をお借りしました)
徳川慶喜が、大政奉還後の1868年(明治元年)、4ヶ月間の謹慎生活を送っていたところです。ここは、慶喜が幼少期に学んでいた部屋でもありました。

左端に座っているのが、徳川慶喜です。右端のふたりの女性は、慶喜の母と長女です(明治22年撮影)。

長持(ながもち)
江戸時代以降、衣服や調度などの保管や運搬に使われたものです。この長持は、将軍職を辞した徳川慶喜が、1868年(明治元年)に上野寛永寺から水戸に下り、弘道館の至善堂で謹慎していた当時に使用したものと伝えられています。

「雲高気静」と書かれた掛け軸。徳川慶喜の筆です。

雲龍水
弘道館に備え付けられていた、消火用ポンプです。「安政4年(1857年)」の銘があります。


これで、弘道館の見学が終わりました。
次は、広い梅林を通って、
孔子廟の方まで歩いてみます。


(つづく)

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