コロナでも茨城。ネモフィラの丘と弘道館を訪ねて 5 - 弘道館(正門から玄関へ)(2021年4月23日)
2021年4月23日 弘道館で。(茨城県水戸市)
4月23日
充実のランチの後は、
午後の部ということで、
水戸市に向かいました。
「水戸学の道」散策マップです。重要な歴史スポットが、JR水戸駅から歩いて行ける範囲に集まっています。これから、マップ中央にある弘道館を起点に、赤い丸のエリアをぐるっと歩きます。けっこうな広さでしたが、またまた今回も、とにかく歩きます。😭😭
【弘道館】
水戸藩第9代藩主徳川斉昭が推進した藩政改革のひとつとして、1841年(天保12年)に創設された藩校です。藩校としては日本最大規模の、約32000坪の敷地面積を有し、総合大学のような偉容を示していました。
学問の教育・研究としては、当時広く行われていた文系のほかにも、一部の自然科学についても行われていました。また、第2代水戸藩主の徳川光圀が編纂を始めた、『大日本史』の影響を受けた水戸学の舞台ともなりました。
明治維新の際、水戸藩では改革派(天狗党)と保守派(諸生党)が激しく争い、弘道館もその舞台となりました。1868年(明治元年)には、会津戦争で敗走した諸生党が水戸に舞い戻って弘道館に立てこもり、水戸城に入った本圀寺党・天狗党の残党らと大手門を挟んで戦闘する事態となり、文館・武館・医学館等多くの建物が銃砲撃によって焼失しました。1872年(明治5年)の学制発布により、弘道館は閉鎖され、藩校としての役目を終えました。その後は、県庁舎や学校の仮校舎、公園として活用されました。
1945年の戦災によって、鹿島神社、孔子廟、八卦堂が消失しましたが、正庁、至善堂は、市民の消火活動で、奇跡的に災禍をまぬがれました。2011年の東日本大震災では、建造物の多くが甚大な被害を受けましたが、3年にわたる復旧工事を経て、2014年に全面復旧しました。
弘道館は、1922年(大正11年)に史跡、1952年(昭和27年)に特別史跡に指定されました。1964年(昭和39年)には、創建時から現存する正門、正庁、至善堂が、重要文化財に指定されています。
駐車場に車を停めたら、すぐ目の前が弘道館です。これは正門ですが、ここから入ることはできません。
弘道館 正門
【弘道館 正門】
重要文化財です。本瓦葺きの四脚門で、藩主が来館する際など、正式の場合のみ開門しました。柱には、1868年(明治元年)の「弘道館の戦い」による弾痕が残っています。この戦火で、正門・正庁及び至善堂などを残し、建造物のほとんどが焼失しました。
正門を反対側から見ると、こんな感じです。
通用門です。正門の右手にあります。先生や役人たちが出入りした門です。
見学者は、こちらの通用門から入ります。奥に見えている建物が、観覧券売り場です。
観覧券売り場
弘道館の玄関に着きました。
正庁の玄関です。ちなみに現在は、ここから入ることができません。すぐ近くの別のところから入館します。正面上に掲げられているのは、「弘道館」と書かれた斉昭自筆の扁額。奥には、水戸藩の藩医が書いた「尊攘」(尊王攘夷)の書が掲げられています。
斉昭自筆の扁額。「弘道館」と書かれています。
さらにその奥に見える、「尊攘」(尊王攘夷)の書。水戸藩の藩医・松延 年が書きました。ここは諸役会所と呼ばれ、来館者の控えの間でした。
在りし日の弘道館描いた鳥瞰図。その広大さがわかります。
徳川斉昭公・七郎麻呂(慶喜)公像
玄関に飾られている、徳川斉昭と、息子で江戸幕府最後の将軍になる慶喜の像です。慶喜は7番目の子供だったことから、幼名は七郎麻呂といい、5歳から11歳までこの弘道館で教育を受けました。幼少の頃から才気を発揮していた七郎麻呂に、斉昭は大きな期待を寄せていました。
玄関の右隣りに、別の入り口があります。見学者は、ここで靴を脱いであがります。
弘道館の館内平面図です。現在地はこのあたりです。それにしても広い。笑
玄関と諸役会所の間の廊下を通って、奥へと進みました。24畳、12畳、15畳と、広い部屋が続きます。