MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
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コロナでも福島。満開の桜の下、城を仰ぐ 6 - 本町(十軒店)と長寿院(2021年4月9日/1日め)

2021年4月9日 古い家屋が残る、十軒店を歩きました。(福島県白河市)


4月9日


小峰城跡から歩いて、
旧脇本陣柳屋旅館建造物群
に来ています。


奥州街道白河宿の中心だった場所で、
今も、古い家屋が残るエリアは、
宝箱を開けるような楽しさがありました。


かつて明治天皇が宿泊したという
「座敷蔵」を見学したあと、
次は、
「脇本陣柳屋旅館跡地」の隣りにある、
「勧工場」に行きました。


勧工場です。


こ、これですか…?(汗)
なんか、
シャッター商店街の廃屋のような…。😅😅
(スミマセン。)


【勧工場】
1879年(明治10年)、東京上野で第1回内国博覧会が開催され、その後、売れ残った出品物を陳列所で販売しました。この陳列館が「勧工場」と呼ばれ、全国の都市に流行しました。白河市の勧工場は、明治末に建てられた勧工場「小槌屋商会」跡で、白河における初めての「百貨店(デパート)」でした。文明開化の時代を伝える洋風建築物で、一部改修されていますが、当時の原型を比較的とどめています。



当時は、ハイカラな商品が並べられ、
人々が憧れるデパート、
のような位置づけだったのでしょう。^^


ここまで、
古い建造物をいくつか訪ねてきましたが、
実は、このエリアにあるのは、
これだけではありません。


今歩いている通りは、
旧奥州街道なのです。
かつては、「白河宿」として、
にぎわっていたところだけあって、
この付近には、
古い建物がいくつも残っています。


あまり時間がなかったのですが、
旧奥州街道沿いに、この本町エリアを、
もう少し歩いてみることにしました。


左下が小峰城跡。右上の本町エリアを歩きます。


【本町】
「十軒店(じっけんだな)」と称されていました。1805年に完成した「白河風土記」によると、家数は96軒となっています。その半数近くが宿屋であり、旅館街ともいえる町でした。大名が参勤交代の際などに宿泊する「本陣」と「脇本陣」も置かれていました。


遠藤家住宅建造物群。両側に蔵を従えており、白河の伝統的な町屋建築です。


【遠藤家住宅建造物群】
江戸時代の遠藤家は、小峰城下における有力な商家でした。代々、「むらかみ屋」の屋号で旅籠を営み、本町の庄屋も務めています。明治以降は、貸し布団、不動産等を業としました。

建造物群は、切妻・平入りの主屋に蔵が併設してあり、白河の伝統的な町屋建築です。主屋は、明治10年頃に建築されたもので、一階と二階の軒は重厚な「せがい」、二階の窓は全面格子で覆われています。また、玄関脇の腰部には、隅丸に面取りされた白河石が使用されています。地上三階、地下一階という、明治期には珍しい構造となっています。


大谷忠吉本店(白陽酒造)建造物群です。

やはり、両側に蔵がありますね。


【大谷忠吉本店(白陽酒造)建造物群】
大谷忠吉本店は、1879年(明治12年)に、酒造業の蔵元として創業され、現当主で5代目を数えます。3代目大谷忠一郎氏は詩人としても活躍した人物で、酒造業の傍ら、詩人萩原朔太郎に師事し、福島県詩人協会長なども務めた。萩原は、この家を度々訪ねており、1938年(昭和13年)、忠一郎の妹美津子と結婚しました。

建造物群は、店舗の両脇に漆喰の蔵が並立しており、白河を代表する景観の一つとなっています。奥には、規模の大きい酒蔵が3棟連担し、その中に煉瓦造りの煙突があります。これらの建造物は、創業当時(明治12年頃)に建築されたものと考えられます。


煉瓦造りの酒蔵が、今も残っていました。

小さいころは、こんなゴミ箱をよく見かけました。なつかしい。^^

さらに歩いて、長寿院へ。


【長寿院】
戊辰戦争白河口の戦いなどで戦死した、新政府軍各藩の墓地が営まれています。墓所入り口には、明治天皇の東北巡幸に随行した岩倉具視、大久保利通によって奉納された燈籠があります。


慶応戊辰殉国者墳墓(西軍)です。戊辰戦争白河方面における戦死者を祀ったもので、長州藩(山口県)、土佐藩(高知県)、大垣藩(岐阜県)、館林藩(群馬県)、佐土原藩(宮崎県)各藩の戦死者が眠っています。

墓は全部で116基ありましたが、その後、薩摩藩(鹿児島県)の墓所は小峰城東部に改葬されました。

桜の花が舞う中、びっしりと並んだお墓に、手を合わせながら歩きました。

遠く四国や九州から、はるばるこの地まで来て戦い、命を落とした方々は、どんな思いだったことでしょう。故郷に帰ることもできず、この地で眠っている方々のお墓を前に、切ない気持ちでした。


戊辰戦争白河口の戦いでは、
東軍(奥羽越諸藩)と
西軍による、
大規模な戦争が行われ、
合わせて1000名近い
戦死者を出しました。


長寿院にあるのは西軍の墓地ですが、
東軍諸藩の戦死者の墓も、
市内各所に所在しているそうです。


西も東もありません。
長寿院に来て、
立ち並ぶ墓碑を見たとき、
戊辰戦争の痛ましさを、
初めて実感したような気がしました。


(つづく)

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