埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 4 - アトゥマシー僧院、クトードー・パゴダ、そしてタナッカー(1987年5月3日/3日め)
1987年5月3日 クトードー・パゴダの売店で、タナッカー体験。(ビルマ・マンダレー)
*ちなみに、MIYOの後ろに、売り水を濾す布フィルターが設置してあります。どうやら、お水を売る時は、これが必須だったようです。笑
1987年5月3日(土)- 3日め
シュエナンドー僧院を出たところで、
ちょっと休憩しました。
僧院の隣りにある売店で飲み物を買って飲んでいたら、珍しがって、子どもたちが集まってきました。みんな、いい笑顔だと思いませんか。^^
休憩後、次に行ったのは、
アトゥマシー僧院でした。
アトゥマシー僧院は、
あまり有名な僧院ではありません。
けれどこの僧院には、
夫がとても行きたがっていました。
テインさんにそれを告げると、
すぐに連れて行ってくれました。
場所は、シュエナンドー僧院の西、
すぐお隣りにあります。
アトゥマシー僧院です。まるで、このまま絵葉書になりそうなくらい、雰囲気のある写真。^^
【アトゥマシー僧院(Atumashi Kyaung)】
シュエナンドー僧院のすぐ西隣りにあります。1857年に、ミンドン王によって建立された僧院で、チーク材を使用し、 5つの段階的な長方形のテラスで構成されていました。1890年に、火災によって建物が被災したあと、第二次世界大戦中には、日本・イギリス両軍の戦闘で壊滅的に破壊され、その後廃墟となりました。
1880年代のアトゥマシー僧院。当時は、5層構造の美しい僧院でした。(画像をお借りしました)
そして私たちが見た、アトゥマシー僧院です。5層の僧院部分はすべてなくなり、最下層の、周囲にめぐらされていたアーチと階段のみが残っていました。
このブログを書くにあたって、
僧院の名前を尋ねたのですが、
夫はすっかり忘れていました。
なのでまずは、上の写真を手がかりに、
ネットで検索してみました。
でも不思議なことに、
同じような僧院がなかなか見つからず、
苦労しました。
それもそのはず。
ネットで探しまくったあげく、
「名前はアトゥマシー僧院」
ということはわかったのですが。
このアトゥマシー僧院は、1996年、
ビルマ政府によって再建されていて、
別人ならぬ別僧院になっていました。🤣
現在のアトゥマシー僧院です。周囲に巡らされたアーチの部分は、たしかに、夫が37年前に撮った写真と同じものです。笑(画像をお借りしました)
アトゥマシー僧院の再建工事は、
刑務所の受刑者労働を利用して
行われたそうです。
5層構造だったのが4層構造になっていますが、
オリジナルの姿をかなり再現しています。
驚きました。
私たちが訪れた1987年から、
37年もの年月がたっているとはいえ、
なかったものができちゃってるとは…。😅
あの当時の写真で検索しても、
これでは見つからないはずです。笑
37年の間に、シュエナンドー僧院の、
損傷していた木彫りは修復され、
なくなっていたアトゥマシー僧院は、
なんと再建されていました。😄
このブログを書かなかったら、
「現在はどうなっているか」なんて、
とうていわからなかったと思います。
でもこうして、いかに変貌したのかを
はっきりと見せられると、
37年もの年月の長さを、
しみじみと実感しました。
アトゥマシー僧院は、
最下層のアーチ部分は古いものの、
かつては僧院が破壊されていた状態だったし、
現在は、再建されて間もないということで、
歴史的価値はあまりないそうです。
けれど夫は、あの当時、
「この僧院に、ぜひ行きたい。」
と言っていました。
その理由は、
「かつてここで、多くの日本兵が戦ったから」
そして、
「そのときの、日英両軍の戦闘で、
破壊されてしまった僧院だから」
です。
マンダレーは、第二次大戦時、
日本軍の激戦地となったところです。
この地を、ただ観光するだけでなく、
かつてこの国で、日本のために戦った、
たくさんの方々に、思いを馳せてみる…。
ビルマを歩くのなら、
そういうこともまた必要なのではないか、
と、私も夫も思っていました。
もちろん、亡くなった方々を悼むだけでなく、
戦場となったビルマの人々に対しても、
申し訳ない思いがありました。
夫の心中では、そんな、
さまざまな気持ちの延長線上に、
このアトゥマシー僧院があったのだと思います。
続いて私たちが向かったのは、クトードー・パゴダでした。マンダレー駅からここまで、ココさんのおかげで、効率よく移動できています。
ココさんは、私たちふたりを載せて、
サイカーをこぎ続けていました。
それも一日中なので、たいへんです。
でも、弟のウィンさんが、
自転車で伴走していて、ときどき、
ドライバー役を交替していました。😄
奥に見えているのが、クトードー・パゴダです。
入口でサイカーを降りました。手前左にあるのは、売店。
ここは、
クトードー・パゴダの正面玄関なのですが、
現在の写真をネットで確認してみて、
またまた驚きました。
同じ正面玄関の、現在の写真です。(画像をお借りしました)
クトードー・パゴダの別名は、
「白亜の仏塔群」。
白い仏塔の美しさが見どころなのだから、
こんな風にキンキラキンにしなくても…
と思うのですが、おそらくこれが、
ビルマの人々の美意識なのかな、と。😅
さて、この入口から、
さっさと中に入ればいいのですが、
そうならないのが私たちなんですね。😅
ここで、楽しい出会いがありました。
このおねえさん、ほっぺのタナッカーが、葉っぱの形で描いてあります。カワイイ。😄
【タナカ】
ビルマ人独特のスキンケアです。私たちが訪れた時は「タナッカー」と呼んでいましたが、現在ネットでは、「タナカ」と書くことが多いようです。
「タナカ」という名前の樹をすりつぶし、それを水に溶かして顔や肌に塗る、というもので、当時、ビルマでは、女性のほぼ100%がタナカを塗っていました。男性や子どもでも、タナカを塗っている人はいます。
タナカには、
・日焼けから肌を守る。
・毛穴を綺麗に保つ。
・肌を白くする。
・蚊から肌を守る。
…などの効果が期待できるそうですが、真偽のほどはわかりません。^^
これが「タナカ」の木を切ったものです。(画像をお借りしました)
普通は、「顔にただ塗りたくっているだけ」
という人が多いのですが、
この女性のタナッカーはリーフ柄。
「あら、そのタナッカー、すてきね。^^」
と、つい話しかけてしまいました。
すると…。
「やってあげる。座って、座って。」と。パゴダ前の売店のテーブルで、タナッカー大会が始まりました。MIYO、めちゃくちゃうれしそうです。笑
「これが、タナッカーの粉よ。」「なるほど~。」
「これを水に溶かして、顔に塗るの。」ワクワク…。
左から、始めま~す。
次は右ね。^^
この一部始終を見ようと、みんな、わらわらと集まってきました。乗り合い自動車までが、出発を遅らせて、MIYOのタナッカーができるまでを全員で見守っています。そしてみんな、いい笑顔なんだな、これが。😄
MIYOのタナッカーが完成したので、
おねえさんにお礼を言って
去ろうとしたのですが…。
ここで彼女が、
もじもじしながら言いました。
「あなたのその、アイシャドウ。
すてきね…。」
あ~~~~。😄
わかりました。🤣
MIYOがタナッカーをやってみたかったように、
彼女もまた、同じように、
MIYOのメイクが気になっていて、
やってみたかったのですね…。😄
当時、ほぼ鎖国状態で、モノがなかったビルマ。
あの頃の女性にとって、
タナッカーは、唯一の化粧品。
なかなか手にすることができない、
外国のアイシャドウや口紅を、
彼女が気にしたのは、無理もないことでした。
「いいよ、いいよ~。ちょっと待ってね。」と言って、MIYOも化粧ポーチを取り出しました。いったいどんなのが出てくるのかと、全員、興味津々。🤣🤣
今度はMIYOが、おねえさんにメイク。
かんせい。😄 ビルマのタナッカーをつけたMIYOと、カネボウのアイシャドウと口紅をつけた、ビルマのおねえさん。ちなみに、子どもたちも全員、葉っぱ柄のタナッカーを塗ってるので、このおねえさんが描いてあげたのだと思います。笑
日緬メイク大会も無事に終わり、
おねえさんとお別れして、私と夫は、
クトードー・パゴダの中に入ったのですが…。
売店でいっしょにいたおチビちゃんが、ずうっとついてくるんですよね…。😅
「なあに? どうしたのかな~?😄」と話しかけたら…、
「あたちも、くちべにぬってほしいの!」
と、精一杯、訴えてきました。🤣🤣
髪が短いので、男の子かと思っていましたが、
よく見たら女の子でした…。😅
ビルマ語で言ってるんですけど、
なにを言いたいのか、よおくわかりました。^^
「はいはい、いいですよ~。」と、ここでまたもや、メイク大会。おチビちゃんに、口紅塗ってるところです。
おチビちゃんと手をつないで歩いた、「黄金の仏塔」。
ビルマまで行って、いったいなにやってんだ、
…と、笑われそうですが。😄
次になにが起こるかわからない、
でもおもしろいことばかりだった、ビルマ旅。
ひとつひとつのエピソードを思い出すにつけ、
なつかしくて、おかしくて、愛おしくて、
胸が締めつけられるような気持ちになります。
次回は、クトードー・パゴダの中を歩きます。
(つづく)