MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
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コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 109 - ニッカウヰスキー余市蒸溜所④ 工場設立当時の事務所とリタハウス(2021年11月13日/11日め)

(2023/04/14 18:30記)

2021年11月13日 大日本果汁株式会社(ニッカウヰスキー株式会社)工場設立当時の事務所です。(北海道余市郡余市町)


11月13日(土)


ニッカウヰスキー余市蒸溜所に来ています。
ここまで、
 事務棟、乾燥塔、粉砕・糖化棟、
 発酵棟、混和棟、そして蒸溜棟
を歩いてきました。


しめ縄がかわいらしい、ポットスチルたち。^^

事務棟(中央)、乾燥塔(左)、蒸溜棟(右)。すべて、国の重要文化財です。

ガイドさんの後に続いて、さらに進みます。中央に見えている、小さな家まで歩きました。

大日本果汁株式会社(ニッカウヰスキー株式会社)工場設立当時の事務所です。(余市町指定文化財)


【ニッカウヰスキー株式会社工場創立当時の事務所】
旧社名である、大日本果汁株式会社のころの事務所です。1918年(大正7年)、スコットランドへ単身留学し、ウイスキー製法を日本として初めて学び、日本最初の国産ウイスキーを世に出した日本青年。それが、ニッカウヰスキーの創立者・竹鶴正孝氏でした。竹鶴氏は。余市がスコットランドの気候・風土や立地に酷似していることを発見し、ここをウイスキー製造の地として、原酒工場を建設しました。
この建物は、竹鶴氏の事務所として、昭和9年に建てられたものです。日本のウイスキーの生みの親となった竹鶴氏が、今日のニッカウヰスキーの隆盛という一大事業を成し遂げた原点として、また、余市町の工業発達の足跡を示す文化遺産のひとつとして、余市町より文化財指定を受け。永く後世に伝えることになりました。


ご覧ください、この景色。日本にいるとはとうてい思えない情景です。^^

このほかにも、見学ロード沿いには、いくつもの建物があります。

広い敷地内を、さらに進みました。向こうからやってきた、別の見学ツアーグループの方々とすれ違いました。

見学ツアーは70分なのですが、各ツアーグループは30分ごとに出発します。そのため、敷地内でいくつもの見学ツアーが同時進行しています。私たちも、他のグループとすれ違うことがありました。そんなとき、ガイドさん同士はこんな風にあいさつを交わしていました。^^

工事中の建物の前に来ました。

リタハウス(旧研究室)です。あいにく工事中で、こんな状態でした。


【リタハウス(旧研究室)】
ブレンディングを研究する場所(ブレンダー室)として利用されていました。かつては、この研究室の中で、さまざまな銘柄が生み出されました。ニッカウヰスキーの初代のRare Old Nikkaや丸びんニッキー、ブラックニッカシリーズやスーパーニッカなど、数々の名ブレンドのゆりかごであり、ファンにはたまらない建物と言えます。
この建物自体は、余市蒸溜所ができる前からあったと言われています。余市蒸溜所は、もともと但馬八十次という地主の土地だったのですが、リタハウスはその但馬氏の住宅でした。
リタハウスという名前は、リタ夫人にちなんでいると思われます。一時期この建物は、アフタヌーンティーを楽しめる施設として解放されていたそうで、おそらくその時にそのような名前がつけられたのでしょう。現在は、耐震性の観点から危険があるとのことで、内部に入ることができません。


こんな建物に囲まれて歩きました。まるで別世界のようでした。

中央に見える建物は、大型貯蔵庫41号庫。2021年末に完成したそうで、この写真を撮ったときは完成間際でした。貯蔵庫は26号まであったので、本当は27号になるはずですが、「余市(よいち)」にちなんで、41号になったそうです。笑


広い敷地内で迷子にならないように、
ガイドさんの後を懸命に歩きました。笑


(つづく)

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