MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 7 - 北海道博物館② 「オホーツク海沿岸の人々」と「和人社会との交易」(2021年11月3日/1日め)

2021年11月7日 有珠外輪山展望台から、洞爺湖を臨みました。(北海道有珠郡壮瞥町字昭和新山)


11月3日(水)


北海道博物館で、
「アイヌのくらし」という企画展を
見学しています。


第二章は、
「北海道 オホーツク海沿岸の人々」
がテーマです。


(解説から)
近世までは、人口のほとんどをアイヌ民族が占めていた地域です。しかし、隣接する大漁場である北の利尻、東の国後では、和人による開発が急速に進み、人々の暮らしは和人社会との切り離しがたいものになりました。近代以降に、多数の和人移住者が流入するようになると、水産資源が枯渇するようになり、離散に追い込まれる集落もありました。ここでは、宗谷岬周辺と知床・斜里を中心に、海岸線を南下しつつ、人々の姿を紹介していきます。


1912年頃、儀礼を実施する斜里の人々。

花矢です。熊送りの際に、儀礼的にクマに射かけるものです。熊が体を動かすと振り落とされ、それを、子どもたちが先を争って拾いました。


【熊送り】
このときは、意味を知らなかったのですが、最近になって、「ゴールデンカムイ」で説明される場面があり、ようやくわかりました。熊送りは、クマを崇拝する民族が執り行う宗教儀礼だそうです。クマを神の化身と見なし、恵みに感謝するもので、2種類の儀礼があるそうです。
・狩り熊型熊送り儀礼
 狩猟で得られた熊の魂に「肉と毛皮の恵み」を感謝し、クマの魂を天界に送り返したうえで再訪を願うこと。
・飼い熊型熊送り儀礼
 子熊を村内で飼育したうえで肉と毛皮の恵みを受け取り(屠殺し)、クマの魂を天界に送り返したうえで再訪を願うこと。


アニメの「ゴールデンカムイ」
我が家では、私だけでなく、
夫も長女も楽しみに見ています。
北海道の情景が丁寧に描かれていて、
アイヌ文化も豊富に紹介されています。
おもしろくて、ためになります。^^
(現在、東京MXで放映中。)


左上から、有翼酒箸、捧酒箸(パスィ)、熊神用耳飾。

左:木幣
右:天川恵三郎氏(アイヌ名エシヤラ)。展示してある儀礼用具類は、天川氏が研究者に渡したものだそうです。熊撃ちの名手として知られると同時に、秀才で、近代的な法制度に精通していました。アイヌに関する社会運動家であったため、当局による監視対象となりました。


第三章のテーマは、
アイヌ社会と和人社会の「交易」
です。


(解説より)
近年、アイヌ民族はしばしば「交易の民」と称されるようになりました。とりわけ、アイヌ社会に蓄積された豊富な漆器や刀剣類といった和製品やロシア沿海州~サハリン経由でもたらされた絹織物が、注目されています。ここでは、主に、19~20世紀の事例を取り上げ、和人社会からアイヌ社会にもたらされたものと、アイヌ社会から和人社会に移出されたものの実例を通じて、「交易」の実態に迫ります。


前列中央に座っているのが、明石和歌助(イカシワッカ) 虻田(アプタ)首長です。この地域のアイヌ民族のリーダーでした。背後に積み重ねられた物品は、和人との交易で得た品々です。これらを多く所有することが、豊かさの象徴でした。

当時の交易品の数々が展示されていました。

漆器類です。
上段左:行器。和人社会では食べ物を持ち運ぶのに使用するものですが、アイヌ民族は、儀礼の際に酒を入れるのに使用しました。
上段右:桶
下段左:台盃。儀礼の際に酒を入れる漆器です。
下段中:日常の飲食に使用する漆器です。和人の史料には、「南部椀」と記されています。

角盥(つのだらい)

陣羽織。近世には、役職に就いた男性の正装として、陣羽織の着用が制度化されていました。その陣羽織が、和人からアイヌの手に渡りました。近代になり、制度がなくなったあとも、アイヌ社会では男性の正装の一つとして重視され続け、神々に祈りを捧げる際に欠かすことができないものと考えられるようになっていきました。

アイヌ民族の女性が製作した、オヒョウ繊維製の衣服(アットゥシ)は、近世には和人社会でも受容され、厚子(あつし)と呼ばれました。近代に入ってからも、漁場の労働者や都市住民の雨具として用いられました。アットゥシを作ることは、アイヌ民族女性の貴重な収入源となりました。

1872年(明治5年)ごろに、東京湯島で開催された博覧会に、石狩の志村弥十郎(シャンゲ)氏が、熊の飼育係として雇用され、上京しました。この時に着用した衣服であることが、現存する写真で確認されています。

左:木綿製衣服。帆布をオヒョウ繊維製の布に近い色に染め上げています。(明治期・古平町 山口家)
右:オヒョウ繊維製衣服。オヒョウ繊維製の布に濃い藍染めの木綿布を貼りつけ、文様を描き出しています。(明治期・古平町 山口家)

左:オヒョウ繊維製衣服。アイヌ民族の女性が製作した衣服は、和人社会に流通し、北海道だけでなく、東北地方から北陸地方の日本海沿岸に、数多く残されています。この衣服は、新潟県佐渡に伝わったもので、北前船を介して流通したものと考えられます。(幕末~明治期・新潟県佐渡市)
右:木綿製衣服。木綿製で仕立てられた、袷(あわせ)の衣服です。襟や裾周りの文様は、小樽市祝津や高島に残されていたものを類似しています。

アイヌの民族衣装を本土へと運んだ、北前船。

北前船については、石川県加賀橋立を訪れた時の日記に書きました。(2020年7月26日)


写真は、夫と私が、
思い思いに撮ったものです。
帰宅後、お互いの写真をいっしょにすると、
順番がかなりごちゃごちゃになりました。
多動夫が、
「歩いた順路に従って撮る」のではなく、
「好きなように歩いて、撮りたいときに撮る」
人だからです。😂😂
「順路に関わらず、気になったところに
 行ったり引き返したり。
 その都度都度で、好きなように撮る」
なんてことをしょっちゅうやるので、
写真の順番がわからなくなります。
あとから写真を見ると、
「これはどこだっけ?」
と、考え込んでしまうことも、
少なくありません。


今回も、大量のごちゃごちゃ写真を、
悩みながら、展示の順番に並べなおし、
どうにか掲載しています。
なので、写真によっては、違う章の展示が
混在している可能性がありますが、
「素人の旅行アルバム」と思い、
大目に見ていただければありがたいです。😅😅


(つづく)

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