MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
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コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 8 - 北海道博物館③ 「北千島と樺太の人びと」 / 謎の中華麺「ビャンビャン麺」(2021年11月3日/1日め)

2021年11月5日 サッポロファクトリーで。(北海道札幌市)


11月3日(水)


北海道博物館で、
「アイヌのくらし」という企画展を
見学しています。


第四章のテーマは、
「北千島と樺太の人びと」
でした。


(解説から)
カムチャツカ半島にほど近い千島列島北部を中心に住んだ千島アイヌの人びとと、樺太南部に住んだ樺太アイヌの人びとは、隣接する諸民族との交流を通じ、地域色豊かな文化を育んできました。それは、北海道アイヌとは大きく異なる点でした。しかし、19世紀以降、日本とロシアという二つの国家の間で、きわめて過酷な歴史の中を歩むことを余儀なくされました。現在、千島アイヌの子孫であると公表する人がひとりもいないという事実は、国家がひとつの民族集団を離散に追い込んだ事例として、記憶されなければなりません。この章では、北千島と樺太それぞれの人びとの歩みをたどります。


1935年(昭和10年)の、樺太落帆の人びと。

オヒョウ繊維製衣服と前掛け(1887年北見)

木綿製衣服と前掛け

別のブースに展示してあった木綿製衣服です。上の衣服と似ていますが、よく見ると、文様に微妙な違いがあります。どちらも、伸びやかな曲線がすばらしいですね。(1971年・石狩)

同じような柄の脚絆もあります。

イラクサ繊維製衣服(1941年・樺太)

オヒョウ繊維製衣服(樺太)

山刀。農業を営む和人の家に残されていたもの。植物の蔓を思わせる、特長的な文様と巧みな彫りの技術からみて、山下三五郎氏の手による可能性が極めて高いそうです。
山下三五郎:1882年(明治15年)に現在の石狩市浜益に生まれ、戦前まで札幌で活躍した工芸家です。

太刀


展示会場の中に、ひとつだけ、
異なる衣服がありました。
アイヌ民族の衣装らしからぬ、
ワンピースです。


ロシア風衣服、プラーテ。アレクサンドラという、千島アイヌの女性が着ていたそうです。

左:アレクサンドラ・ストロゾフ(1934年 色丹島)
右:アレクサンドラが好んで着ていたプラーテには、紅いモミジの柄が、今も鮮やかに残っていました。



(解説から)
千島列島では、幕府による対ロシア政策の一環として、1803年(享和3年)に択捉(えとろふ)島と得撫(うるっぷ)島の間の往来が禁止されました。以来、択捉島以南の人びとは日本側、得撫島以北の人びとはロシア側の支配下におかれました。得撫島以北では、ロシア人との接触を通してロシア正教を信仰し、名前もロシア風の洗礼名を用いるようになりました。そのため、後に「千島アイヌ」「北千島アイヌ」と呼ばれることになります。
1875年(明治8年)、樺太千島交換条約が締結されました。これをうけ、1884年(明治17年)、日本政府は、千島アイヌを北海道本当に近い島に移住させました。
展示されている衣服(プラーテ)は、1935年頃に千島アイヌを訪ねた和人研究者によって収集されたものです。移住から50年が経過していた当時、このようなロシア風の衣服を着用する千島アイヌは少なくなっていましたが、アレクサンドラだけが、プラーテを日常着としていたそうです。


80年もの間、ロシア人として生きて来た、
千島アイヌの人びと。
その後、日本側に強制移住させられましたが、
移住から50年を経ても、
ロシアの衣服を着続けた女性がいた…。


モミジ模様のプラーテは、
日本とロシアの複雑な歴史に翻弄された、
千島アイヌの人びとの心情を、
物語っているかのようでした。


展示は、
「第五章 北海道 太平洋沿岸の人びと」
へと続きます。


(つづく)


(おまけ)


写真の数が少なめだったので、
最近作ってみた、
「ビャンビャン麺」をご紹介します。


ビャンビャン麺は、中華麺です。
中国・西安で一般的に食べられている、
平たい幅広の麺のことで、
ネギや唐辛子、山椒をのせ、
「タレをからませて食べる汁なしのきしめん」
のような食べ物です。


このビャンビャン麺。
世界一むずかしい漢字である、と言われています。
なんと、一文字で50画を超えるんです。
どんな漢字かと言うと…。


コレです。爆(画像をお借りしました)


もう、笑うしかないですね。
「馬」だの「長」だのがてんこもりです。
ちなみに、この漢字は、
「ビャンビャン麺」以外には使わないとか。
せっかく覚えても、使い道はなさそうです。🤣🤣


名前の由来には諸説ありますが、
麺を打つときに
「ビャンビャンッ!」と音がすることから、
ビャンビャン麺と呼ばれるようになった、
といわれています。


このビャンビャン麺が気になっていました。
すると、なんと、
オイシックスのミールキットに登場したのです。


さすがオイシックス。いかにもおいしそうに、きれいに撮りますね。(画像をお借りしました)

ふたり分で、1717円でした。
ちょっとお高いけど、
「ビャンビャン麵を食べてみたい!」
という気持ちが先にたち、
つい買ってしまいました。
そしてできあがったのが、こちらです。


我が家のビャンビャン麵。チンゲン菜、ねぎ、しいたけ、豚肉がのっていて、丼の底には、ソースがたまっている状態です。付け合わせは、鶏からあげの甘酢あん、サラダ、切り干し大根といんげんの和え物。この日のお昼ごはんにいただきました。(2022年2月2日)

まずは、麺をリフトアップ。こーんなに幅広なんです。麺というより、布きれみたいですね。笑

そして、ぐっちゃぐちゃに混ぜて、丼の底にある酢醤油のようなソースをからめながらいただきます。


味は、まあ、普通の中華きしめんですね。笑
中華風の香辛料がきいていて、
日本料理にはない味です。
おいしくいただきました。^^


そういえば、
数十年前の中国映画を見ていると、
丼のような器を片手に持って、
家の前とかを歩きながら、
麺を食べてる人が、よく登場しました。


ラーメンなら、丼が熱くて重いので
持ち歩けないし、
スープがこぼれる可能性もありますが、
ビャンビャン麵なら、スープがないので、
軽いし、それほど熱くもないので、
手軽に、歩きながら食べられます。
(焼きそばみたいな感覚ですね。^^)


日常の食事を、屋外で、
歩きながら普通に済ませる人々なので、
ビャンビャン麵は、その生活スタイルに、
合っていたのかもしれません。


それにしても、どうしてあんな、
難しい漢字を作ったのか。🤣🤣


このビャンビャン麵、
東京で売っているお店を見つけました。


先日、夫と上野に行き、アメ横を歩いていたら、
立ち並ぶ中華屋台のひとつが、
ビャンビャン麵のお店でした。笑
ついうれしくなって、
写真を撮らせていただきました。


店員さんのユニフォームです。背中に大きく、「ビャンビャン麵」とあります。(2022年1月22日)


すごいなあ…。
中国には、この活字があるんですね。😄😄


中国人のスタッフの方に、
「いかがですか。すぐ食べられますよ。」
と、言われたのですが、
ちょうどランチをすませてきたばかりで、
お腹がいっぱいです。


写真まで撮らせてもらって、
申し訳ないのですが、
そのまま、帰宅しました。
残念。^^

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