MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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コロナでも福島。満開の桜の下、城を仰ぐ 26 - 会津が教えてくれたこと(2021年4月10日/2日め)

2021年4月10日 鶴ヶ城で見かけた、すてきなおふたり。美しい、会津の春でした。(福島県会津若松市)


最終話です。
長い連載にお付き合いくださり、ありがとうございました。
このあと、少しお休みをいただきます。


4月10日


広大な家老屋敷と
会津歴史資料館(土蔵)
を見学し終わって、
これでおしまいかと思いきや、
夫はさらに、
土蔵の横にある路地を進み始めました。


大きくて立派な土蔵でした。


この土蔵の奥に、
「藩米精米所」がありました。


地図で見ると、左下のあたりです。

藩米精米所は東北一の規模を誇る精米所で、約200年前に建てられました。もともとは白川藩で使用していたものですが、それを会津武家屋敷の中に移築しました。水力を利用し、一日に四斗俵(約60キロ)の玄米を16俵ほど精米できたようです。この写真の右側には、直径4メートルの水車がありました。

ここまでで、まだ、敷地内の半分も歩いていません。これ以上見学を続けると、東京に戻るのが深夜になってしまいますが、がんばって、「旧中畑陣屋」と「くらしの歴史館」に行ってみます。地図の中央部分です。

旧中畑陣屋です。


【旧中畑陣屋】
幕府旗本・松平軍次郎康済の治める代官所でした。1837年(天保8年)、播磨国佐用郡平福村(現・佐用町)から西白河郡に所替えとなったときに、中畑村(現・福島県西白河郡矢吹町中畑227)に築造したものです。旧地には、今も、「陣屋の二本カヤ」が残っています。
中畑陣屋は、書院造の形式をもった茅葺きの寄棟造りで、中畑村など七ヶ村を管理していました。県の重要文化財に指定されています。


そして、旧中畑陣屋から、茶室、東屋を通って「会津くらしの歴史館」へ。

入り口を入ると、会津の弥生時代や縄文時代に関する展示が広がっていました。ここには、古代から江戸時代までの、会津の暮らしや人々の生活の様子が展示されています。

最後に、敷地内のショップ「郷工房 古今」に入りました。

会津もめんのマスク。味がありますね。色もすてき。^^

あまり物は買わない方なのですが、なにかこのときは、会津を応援したい気持ちになってしまって、お菓子を買いまくりました。笑 赤べこのチョコは、長女へのお土産です。

会津塗のぐい呑み。夫も私も、一目惚れしてしまいました。1個935円です。

食器を断捨離中なのにもかかわらず、買ってしまった、会津塗のぐい呑みです。写真だと大きく見えますが、通常のぐい飲みサイズです。これで日本酒をいただくのが、最近の楽しみです。^^


わずか一泊二日だというのに、
あきれるほどの、
盛りだくさん旅行になってしまいました。
予定を大幅に超えて滞在したため、
帰宅したのは深夜になってしまいましたが、
楽しく、そして、
考えさせられる旅になりました。


自刃した20名の白虎隊士をはじめとして、
会津人ならではの行動に驚き、
胸が痛むことも、多くありました。


最後に、私の心に残った人々のことを
書きたいと思います。


【西郷千恵子】(画像をお借りしました)
会津藩家老・西郷頼母の妻。会津戦争が激戦となり、新政府軍が若松城下へ侵攻してきたときに、「子連れでは足手まとい。ここで自刃するのが国に殉じること。」と言い、5人の娘や義母、義妹らとともに自刃しました。享年33歳。一族21名による自刃は、会津戦争における悲話として、白虎隊とともに語り継がれています。

【飯沼貞吉】
白虎隊ただひとりの生存者です。16歳の時、白虎隊の仲間と共に、飯盛山で自害しますが、瀕死の状態で助けられ、蘇生しました。その後、仲間を追って自殺しようとしましたが、「生き残った命で、日本のために尽くせ」と諭され、勉強して通信技師になりました。その後、朝鮮半島で、通信網敷設作業に貢献しています。76歳で亡くなったあと、遺族が飯盛山に葬ろうとしましたが、白虎隊士遺族の反対にあい、かつての仲間と同じところに眠ることは許されませんでした。そのため、貞吉の墓は飯盛山にあるものの、白虎隊士の墓とは少し離れたところに建てられています。

【萱野権平衛と次男・郡長正】(画像をお借りしました)
1869年、会津戦争の全責任を負って、自刃しました。萱野権兵衛は、田中土佐、西郷頼母、神保内蔵助に継いで、席次が4番目の家老でしたが、終戦時に、田中土佐と神保内蔵助は既に自刃して世になく、西郷頼母は城を脱出し、箱館に逃れていました。そのため、席次が繰り上がって、萱野権兵衛が斬に処されることになりました。泰然自若とした最期で、二人の息子(長準・長正)への遺言は、「会津藩士の誇りを持て」でした。

その2年後の1871年、わずか15歳で長正が切腹します。父も子も、会津藩士の誇りを抱いて、亡くなりました。


会津人の気性の強さに、驚きます。
誇り高く、きっぱりとした生き方を、
美しいとさえ思います。


翻って、38室もの部屋を擁する
「家老屋敷」の主であった、
西郷頼母を見てみましょう。


【西郷頼母】(画像をお借りしました)
200年以上にわたって、会津藩松平家の家老を代々務める家柄に生まれ
、その9代目でした。
戊辰戦争では、白河口総督となり、新政府軍を迎撃しましたが、白河城を失陥します。その後棚倉城も陥落したことで、総督を解任されました。
若松城に帰参した頼母は、藩主・松平容保に対して、「藩主が切腹して降伏する」ことを迫ったため、容保以下、会津藩士の怒りをかいます。身の危険を感じた頼母は、長子・吉十郎のみを伴い、城から逃げ出しました。
会津から脱走後、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で戦ったものの、旧幕府軍が降伏したため、箱館で捕らえられました。
1872年に赦免されたあとは、
 謹申学舎塾の塾長
  →塾の閉鎖で失職
 神社の宮司
  →謀反を疑われて解任
 代議士になろうとする
  →大同団結運動の瓦解により、とん挫
…と、不遇な人生だったようです。
1879年、長男の吉十郎が病死したため、天涯孤独となりました。
晩年は、生活費にも窮し、知人を訪ねては金を無心する暮らしでした。1903年、会津若松の十軒長屋にて、74歳で死去しました。板戸すらなく、筵を下げた入り口があるだけの、貧しい住まいだったそうです。


会津藩家老が世襲制であったことは、
戊辰戦争で会津が敗北した理由の
ひとつであったと言われています。


会津藩では、
世襲制の家老が長く続いた結果、
藩内の身分意識が強まりました。
会津藩で家老に就くことが許されたのは、
会津の名門九家の門閥の者だけでした。
また、「ならぬことはならぬものです」
という教えによって、
どんなに優秀であっても、
身分が低ければ、出世は許されませんでした。


会津藩にも有能な人がいました。
けれど戊辰戦争では、
「家柄がよい」という理由だけで、
実戦経験のない西郷頼母が、
白河口総督になりました。
その結果、大敗を喫してしまったのです。


その後も、戦争中に城から逃げ出すなど、
彼の行状には驚くばかり。
一族もろとも自害した、
妻・千恵子になんと申し開きをするのか。
自分の身代わりになって切腹した
萱野権平衛に対して、
罪の意識はないのか。
…などと、言いたいことはたくさんあります。


でも、これはこれで、
私が非難するようなものでもありません。
「武士として、潔く死すべし」
という信念は、美しいけれど、
恐ろしいものでもあります。


そういう考えを、国民全員が強要されて、
第二次大戦で数々の悲劇が起こったことを、
私たちは、忘れてはならないと思います。


西郷頼母の人生は、ひとことで言うと、
かっこわるいです。
「生き恥をさらした」という人もいます。
けれど、
「みっともない人生であろうと、
 自分はここで死にたくない。」

と考える自由は、
誰にでもあるのだと思います。
その自由を、私たちはこれからも、
守り続けなければならない。


それが、会津を旅して、
最後に私が思ったことでした。


美しい会津。
その悲しい歴史が
教えてくれていることを、
私たちは、
忘れてはいけないのだと思います。


胸にずしりと、重い旅でした。
ありがとう、福島県。



【今回訪ねたところ】
福島県県白河市
 白河小峰城跡
 ・清水門跡
 ・本丸高石垣
 ・三重櫓
 ・桜之門跡
 ・小峰城歴史館
 脇本陣柳屋旅館跡地
 座敷蔵
 勧工場
 本町(十軒店)
 遠藤家住宅建造物群
 大谷忠吉本店(白陽酒造)建造物群
 長寿院

福島県耶麻郡猪苗代町
 中ノ沢温泉

 宿泊:磐梯名湯リゾート ボナリの森
 夕食:ボナリの森
 朝食:ボナリの森

福島県会津若松市
 日新館
 ・戟門
 ・東塾
 ・大学
 ・大成殿
 ・資料館
 ・弓道場
 ・木馬場
 ・水練水馬池
 ・武講
 ・第二・第三武道場
 ・砲術場
 ・天文台
 ・明治記念室
 昼食:楽故亭 (日新館)
 鶴ヶ城
 ・廊下橋
 ・天守閣
 ・茶室 麟閣
 ・萱野国老殉節碑
 会津武家屋敷
 ・家老屋敷(西郷頼母邸)
 ・會津歴史資料館
 ・藩米精米所
 ・旧中畑陣屋
 ・会津くらしの歴史館
*掲載した写真:480枚


最後に、今回の旅での移動経路です。
下の地図は、昨日、夫に作ってもらいました。


全長、621キロだそうです。


わずか一泊二日の旅なのに、
26回も書いてしまって、
スミマセン。


(おわり)

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