MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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新緑の長野へ。塩の道から群馬の秘湯へと歩いた4日間 6 - 庚申塔と牛方宿①(2024年6月12日/1日め)

2024年6月12日 牛方宿で。(長野県北安曇郡小谷村栂池高原)


6月12日(水)- 1日め


信州の山里にある、
千国の庄資料館を見学したあとは、
この施設の近くにある、
牛方宿に向かいました。


資料館から牛方宿までは、車で数分。
…のはずだったのですが、あいにく、
牛方宿に直結する道路が工事中で、
通行止めになっていました。


やむなく、地元の方に尋ねながら、
大きく、大きく迂回すること、30分。
ようやく到着できました。😓


もともと予定していなかった山道を、
これで大丈夫か?と思いながら
走り抜けて行ったのですが、
途中でいくつもの庚申塔に出会い、
夫は喜んでいました。



【庚申塔(こうしんとう)】
中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基いて建てられた石塔のことです。塚の上に石塔を建てることから、庚申塚(こうしんづか)ともいいます。また、塔の建立に際して供養を伴ったことから、庚申供養塔とも呼ばれます。
庚申塔が広く建立されるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からです。以降、近世を通して、多数の庚申塔が建てられました。当初は主尊が定まっておらず、青面金剛、三猿像、阿弥陀、地蔵などが見られましたが、徐々に、青面金剛像が主尊となっていきました。その後、江戸中期から後期にかけて「庚申塔」あるいは「庚申」と文字のみを彫り付ける形式が増加しました。
明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて、その撤去を進めました。さらに、高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって、残っていた庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになりました。
現在、残存する庚申塔の多くは、寺社の境内や私有地に移転されたものや、交通量の少ない街道脇に置かれていたため、開発による破壊を免れたものです。田舎町へ行くと、今でも道の交差している箇所や村落の入り口などに、「庚申」と彫られた石塔を全国で見ることができます。


大黒様もいました。お供えのお水がマグカップに入っているのが、今風です。^^


庚申塔やお地蔵様が並ぶ道を抜け、
さらに進み、ようやく、
めざす牛方宿に到着しました。


じっとしておられず、MIYOはここで車を降りて、歩いていきました。

手前にあるのが塩倉で、奥にあるのが牛方宿です。

牛方宿です。

ようやく到着しました。^^ なにか、愛らしいですね。


【牛方宿(うしかたやど)】
塩の道を行きかった牛方が、荷運びの牛とともに休んだ宿です。新潟県糸魚川から長野県松本まで物資を運んだ千国街道沿いに、かつては何軒もの牛方宿がありました。しかし、明治二十年頃、新しい国道ができると街道はその役目を終えます。そして、牛方宿もいつしか姿を消してしまいました。
現在では、小谷村栂池高原の沓掛に位置する、この牛方宿のみが現存し、昔の塩の道を物語る証となっています。1997年(平成9年)に小谷村有形文化財となり、その後、村が買い受けました。母屋は、1864年(元治元年)の「千國又兵衛家相図」を元に整備復元され、2004年(平成16年)に史料館として開館しました。2009年(平成21年)4月には、県宝に指定されています。


これは、牛方宿の向かって左側。駐車場になっています。車を降りた夫も、さっそく写真を撮り始めました。

ここから、中にはいります。

山合のわずかな土地に造られた、水田。そしてその後ろに連なる、新緑の山々…。牛方宿は、こんなおだやかな村に、ひっそりと建っていました。


(つづく)

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