MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

新緑の長野へ。塩の道から群馬の秘湯へと歩いた4日間 5 - 塩倉、ボッカと牛方、そして牛たち(2024年6月12日/1日め)

2024年6月12日 塩の道 千国街道(長野県北安曇郡小谷村千国)


6月12日(水)- 1日め


信州の山里にある、
千国の庄資料館に来ています。


千国番所、資料館を見学したあと、次は、同じ敷地内にある、塩倉に行きました。

復元された塩倉です。


【塩倉】
千国番所で運上金(関税)として徴収した塩は、塩倉に貯蔵されていました。当時の塩倉は、奥行6間(約10メートル)、幅2間半(約4.5メートル)の建物で、塩分の影響を避けるために、釘を一本も使わない構造で建てられました。


入ることができるのは玄関部分だけで、そこから奥には行けないようになっています。

塩倉の中です。

床の上に、塩を包んだ筵が置かれていました。

そして床下には、塩から出たニガリを貯める部分が設けられていました。

このあとは、敷地内の庭を歩きました。写真は左から、千国番所、その奥が千国の庄資料館、そして右端が塩倉です。中央に、銅像が置かれています。

かつては、ボッカと呼ばれた人たちが、こんなふうに、筵で包んだ塩を背中に背負って運びました。前かがみになっていますが、背負った荷の重さは、約80キロと言われています。重かったでしょうね…。


【ボッカ】
信州では、背中に荷をつけて歩いて運ぶことによって、物資の運搬を生業とした人々を、ボッカと呼びました。ボッカには「歩荷」という字を当て、古くは「カチニ」と読みました。雪のない季節は、「牛方」が、牛を使って物資を運びました。しかし千国街道は山地にあり、雪が多かったので、冬季は「ボッカ」が活躍しました。特に、雪が降り始めてからの6ヶ月間が出番で、1人塩1俵を背負って、数人で雪の山越えをしました。街道筋に住む農夫がほとんどでした。ボッカは、約80キロ(約20貫)の荷物を背負い、一日20キロ(5里)の道を歩きました。小谷ボッカの名は特に知られており、松本地方では「ボッカさ(ボッカ様)」と呼ばれて親しまれていました。


塩を積んで街道を運んだ牛の像です。^^


【牛方】
雪のない季節、牛方は牛を使って荷物を運びました。沿道の百姓たちが農繁期の合間に行った「作間稼ぎ」でした。1頭の牛に塩を2俵ずつ載せ、一人前になると、ひとりで6頭の牛を追ったので、これを「牛ヒトメエ」(一人前)と呼びました。牛は山道に強く、荷を付けたままで起き伏しができ、丸木橋も上手に渡りました。


こんなふうに、ひとりで6頭の牛を追い、山道を進みました。


すべての見学を終え、施設の入口まで戻ってきました。右は受付で、左は休憩所になっています。ここは駐車場になっているのですが、停まっているのは、MIYO家の一台だけ。😓

駐車場にはバス停もありました。


「ここまで、バスでも来られるのかな。」
と思ったら、運行は平日限定で、1日に2便だけ。
村の人々が町に出かけるための足として、
村が運営しているバスでした。


静かな山里にひっそりと建つ、千国の庄資料館。

丁寧に維持されている、すばらしい施設でした。


こんなに見ごたえがあって、
300円というのは、安すぎます。
(でも値上げしないでね。^^)


そのうえ、平日だったせいか、
訪れていたのは、私たちふたりだけ。
施設全部を貸し切り状態で見学できて、
ふたりで600円。
感謝しかありません…。


村の中にあった、「塩の道 千国街道」のパネルです。かつてはこの街道が塩を運び、信州の人々の命をつなぎました。


次回は、牛方宿を歩きます。


(つづく)

×

非ログインユーザーとして返信する