MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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新緑の長野へ。塩の道から群馬の秘湯へと歩いた4日間 7 - 牛方宿② 馬屋、中二階、台所、茶の間、次の座敷(2024年6月12日/1日め)

2024年6月12日 牛方宿で。(長野県北安曇郡小谷村栂池高原)


6月12日(水)- 1日め


長野県の小谷村にある、
牛方宿(うしかたやど)に来ています。


塩の道を行きかった牛方が、荷運びの牛とともに休んだ宿です。

ここが入口です。入場料は、ひとり300円。私たちは、あらかじめ、アソビューでチケットを購入していたので、スマホのチケットを見せて入場しました。


千国の庄資料館でも、牛方宿でも、
「スマホの電子チケットで来た人は初めて。」
と言われました。
アソビューと言う名前すら、
聞いたことがないそうな…。
最終的に、入場することはできましたが、
いろいろと説明しなくてはならず、
ちょっとめんどくさかったです。😓


宿の正面に設けられた、軒です。150年以上前に建てられたそうですが、きちんと手入れされ、しっかりとした造りです。

それでは、中に入ります。

係の方が、入口部分の引き戸をすべて開け放ってくださいました。宿の中からは、こんなふうに見えます。すぐお向かいに民家があるのですが、現在は、この家にお住まいの方が、牛方宿の管理をされていました。^^

宿は平屋建てで、このような間取になっています。

入口を入ると、すぐ左側にあるのが、馬屋です。この中に、5頭から6頭の牛を入れることができました。牛方宿の、道路を隔てた向かい側には、牛小屋や鞍置き場もあったそうです。

馬屋は、かつてこの家が牛方宿であったころの、そのままの姿を残してあります。


天井の近くには、
飼い葉を蓄える場所がありました。
また、天井から、かぎ形の木がつるしてあり、
そこに飼い葉桶をひっかけて、
牛や馬にエサをやりました。
両側の柱には切込みがあり、
そこに横木を入れることによって、
牛が出られないようにしてあります。


馬屋の反対側には、中二回が設けられていました。ここは牛方のための場所です。牛方は、ここに泊まりながら、馬屋の中にいる牛のようすを目配りしていたそうです。


【牛方宿の宿泊料】
牛方が1人で6頭の牛をまとめて宿泊する時には、宿料も1人分と牛6等分を払いました。宿代について定めた、「牛、米糠(こめぬか)と薪(まき)の代5厘、牛方は7厘、但し賄(まかない)は別」という明治29年の文書が、大網地区に残っています。


さらに土間を進むと、左手に台所がありました。

このかまどの奥に、馬屋があります。


私は、ゼロ歳の頃に、母の実家に預けられ、
そのまま、かなり長い間、
祖父母の家で育てられたそうです。


祖父母の家は、
愛媛県のかなり田舎にありました。
台所は土間で、かまどがあり、
そこから板の間に、靴を脱いで上がりました。
構造が、この牛方宿とよく似ていたので、
なにか、なつかしい気持ちになりました。😄


私が祖父母の家にいたのは、
ゼロ歳から一歳の頃のことです。
当時のことを、私はもちろん覚えていません。
半年くらいたってから、
あるとき、私の母がやってきたそうです。


そのときのことを、私が高校生くらいの頃に、
母が私に、笑いながら話したことがあります。
「MIYOちゃん、って言っても、
 きょとんとしていて、
 あんた、私の顔を忘れてたよ。」
と…。


それ、笑いながら言うことか?🙄
と思わないでもありませんが…。😔
当時の母は、29歳。
18歳で嫁いでからは、
同居の姑や小姑からいびられ、こきつかわれ、
そのうえ父には愛人がいて。
そんな中で、3番目の子として生まれたのが、
私でした。
まあ、母は母なりに、
私のことをかまう余裕もない人生だったのだろう、
と…。
今はなんとなく、そう思っています。


乳児期を祖父母に育てられたあと、
自宅に戻ったのですが、その次は、
2年ほど、別の家庭に預けられました。
私のいちばん古い記憶は、その家で、
「おとうさん、おかあさん、
 おにいさん、おねえさん。」
と呼んだ人たちといっしょに暮したことです。


その後は、自宅から保育園に通うのですが、
両親は工場で家業に追われて、
家にいないことが多かったので、
家でお手伝いさんをしていた「ばあば」が、
めんどうを見てくれました。


かわいがってくれた「ばあば」と。^^

あまり、母に育てられた記憶がないのですが、
「自分はかわいそうだ。」と、
思ったことはありませんでした。
たぶんそれは、そのとき、そのときに、
私を委ねられた人たちの誰もが、
私をとてもかわいがってくれたから、
なのだと思います。^^
(話が脱線してすみません。)


台所のいろりです。


牛方宿で、台所のなつかしいようすを見て、
自分の幼い頃に思いを馳せていたら、
係員のAさんが、
「東京からいらしたんですか。
 それはそれは、遠いところを…。
 じゃあ今日は、特別に、
 いつもよりもずっと詳しく説明しますよ。笑」
と、話し始めました。


とても丁寧に、いろんなお話を聞かせてくださいました。😄


この牛方宿は、もともと、
Aさんの奥様のご実家だったそうです。
Aさんご夫妻は、現在、
牛方宿の前の家にお住まいなのですが、
この家は空き家になってしまいました。


「ありがたいことに、
 県が引き取ってくれたんですよ。」


現在の牛方宿は、長野県の県宝として、
県が管理しています。
日中は、宿の前に住んでいるAさんと奥様が、
交替で宿に待機し、
受付などの業務を担当しておられるそうです。


こんなふうにして、地元の方と協力しながら、
古い家を保存していくというのは、
すばらしいと思いました。
長野県に、感謝したい気持ちです。^^


Aさんとしばらく話したあとは、靴を脱いで座敷に上がり、家の中を自由に見学させていただきました。

上がってすぐのところは、茶の間です。MIYOの後ろに、もう一部屋あるようです。

が、この板戸は閉めきりになっていて、中に入ることはできませんでした。

茶箪笥の上には、たくさんの箱まくら。旅籠だっただけに、たくさんのまくらが必要だったのでしょう。^^

天井が高いですね。^^

続いて、次の座敷です。二間続きになっています。

物入れや引き出しが付いた階段。

たくさんの、古い人形たち。

松本地域の伝統工芸である、「松本押絵雛」が、ここにもありました。^^
千国の庄資料館で、「松本押絵雛」を見たときの日記です。
新緑の長野へ。塩の道から群馬の秘湯へと歩いた4日間 3 - 千国の庄資料館② 台所、厩、ジオラマ、茶の間、中ノ間、小座敷、広間と奥座敷(2024年6月12日/1日め)

部屋に貼ってあったポスター。味わいのある、とてもいい写真です。^^

いまここ。😄


(つづく)

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