コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 95 - 旧余市福原漁場⑦ 文書庫外観と主屋・漁夫溜まり(飯台)(2021年11月13日/11日め)
(2023/03/23 15:00記)
2021年11月13日 旧余市福原漁場・主屋で。右は文書庫です。(北海道余市郡余市町)
11月13日(土)
旧余市福原漁場での日記のつづきです。
文書庫の見学を終えて、外に出ました。次は、この建物の裏側にまわってみます。
文書庫の右側面です。ここから見ると、3階建ての蔵であることがはっきりとわかります。そして漆喰で造られた土蔵を守るために、全体が板で覆われていることも見てとれます。
とても珍しい造りですね。
さて、ここまで、敷地の奥から手前に向かって、
網倉
米・味噌倉
納屋場
雑倉
石蔵
文書庫
と歩いてきました。
次はいよいよ、いちばん手前にある、
主屋の中に入ります。
主屋は、文書庫のすぐ隣りに建っています。
【主屋(おもや)】
漁場経営者(親方)家族と漁夫(ヤン衆)が生活した建物で、別称「番屋」とも言われました。内部は、中央の土間(ニワ)によってふたつ(畳の間と板敷の間)に分けられています。畳の間は、親方とその家族の居住部分で、板敷の間は、「ヤン衆」と呼ばれた出稼ぎの漁夫たちが寝泊まりしていました。ニシン漁の最盛期には、30人以上のヤン衆がこの主屋で寝食を共にしていました。
漁場の所有者は、創業者の福原家から小黒家、そして川内家へと移り変わって行きましたが、建設当時である、福原家時代の主屋は、建坪が125.5坪でL字型でした。川内家の所有になったあと、大正5年頃には、半分近くの73.5坪に縮小・改築されています。主屋内部では、立派な柱や梁が今も残っています。周囲の建具の中断には素透しのガラスを入れて、見通しを良くしたり、床に埋め込み式の飯台を設けるなど、独自の工夫が随所に見られます。
30人以上のヤン衆が寝起きしていただけあって、約6割に縮小された現在のものでも、かなり大きな建物です。
それでは、中に入ってみます。
玄関を入ると、まず目に入るのが、裏口までまっすぐに延びた土間(ニワ)です。この土間を境に、左側にヤン衆が寝泊まりした部分があり、右側は、親方とその家族の居住部分になっています。これまでに見てきた番屋は、どれもこれと同じような造りになっていました。
まずは左側から見て行きます。ここは板敷になっていて、ヤン衆が生活する場所だったので、「漁夫溜まり」と呼ばれていました。
玄関に一番近い部分は、ヤン衆が食事する場所(飯台)でした。テーブルになっている板は着脱式で、このようなコーナーが、板の間の周囲にコの字型に設けられていました。食事が終わると、板をスライドさせて、座る部分に蓋をします。これにより、板の間をより広く使うことができました。また、ヤン衆が座る部分が床に埋め込み式になっているため、土足で利用することができました。これは、ヤン衆が履物を履いたままで土間から直接ここに入り、すぐに食事ができるようにするための工夫でした。
こんな風に座って食事していたんですね。^^
飯台と座る部分を、反対側から撮った写真です。
食事に使われていたものです。食事は、「銀シャリ」と呼ばれる白米のごはんが食べ放題でした。おかずは、たくあん、ニシンのきりこみ(ニシンの内臓を除き、輪切りにして塩と麹で漬けたもの)、三平汁(糠ニシンと野菜の汁物)、ニシンの塩煮などでした。炊事は女性が2~3人で担当しましたが、一度に大勢の人の食事を用意しなければならなかったため、献立は毎日同じものであったようです。漁夫の食事は、沖弁当を船上で食べることが多く、漁の繁忙期には、過酷な労働のために一日に4 回~5回の食事をとっていました。また、もっこ背負いの人たちは、座って食事する時間を惜しみ、もっこを背負ったままで、おにぎりとたくあんを両手に持ち、歩きながら食事をとることもあったそうです。
食事をしている漁夫の位置からは、土間を隔てて、親方の居住部分がこんな風に見えます。たいした距離ではありませんが、土間のこちら側と向こう側には、大きな隔たりがありました。
飯台の部分からさらに土間を進むと、囲炉裏があります。
囲炉裏の上には火棚が設けられていて、濡れた手袋や履物を吊るして乾かしました。
「手がけ」という、作業用の手袋です。指先がよく破れるので、指の部分をたくさん作っておき、破れた指の部分だけを取り換えられるように縫い合わせてありました。
左:囲炉裏の上に設けられた火棚。高い天井から吊るされています。
右:囲炉裏から少し離れたところに、ストーブも置かれていました。
漁夫溜まりのようすは、次回に続きます。
(つづく)



















