MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでもポロト湖。星野リゾート 界 ポロト スイートを無料で楽しむ 17 - 仙台藩白老元陣屋資料館③から白老仙台藩陣屋跡①へ(2022年6月21日/5日め)

2022年6月21日 「仙台藩白老元陣屋資料館」で。三好監物所要の、紺糸縅甲冑(複製)。三好家伝来の家紋入りです。(北海道白老郡白老町)


6月21日(火)


「仙台藩白老元陣屋資料館」で、
駐留していた藩士たちの
足跡をたどってきました。


彼らが築いた陣屋は面積が約66,000 m²、
堀と土塁に囲まれた曲輪があり、
内曲輪と外曲輪の中に6基の門を構えていました。
本陣、勘定所、殻蔵、稽古場、長屋などを築き、
常時120名の藩兵が駐屯していたそうで、
その様子は錚々たるものだったと思います。


そんな中、1868年(慶応4年・明治元年)に
戊辰戦争が勃発します。
官軍が白老陣屋を攻撃する危機が高まったため、
藩士は白老を離れて仙台に引揚げました。
こうして陣屋は、12年の歴史に幕を閉じました。


【陣屋の終焉】
1868年(慶応4年)5月3日、戦火は東北地方へと波及しました。6月以降、仙台藩の戦局不利となり、ついに7月、白老へ元陣屋追討軍が派遣されました。箱館の野口屋又蔵(白老場所請負人)から急報を受けた御備頭児玉覚之進は、「賊軍」の汚名に、もはやこれまでと撤退を決意しました。

1868年7月18日早朝、野口屋又蔵からの急報が白老に届きました。敵地での衝突を避けるため、仙台藩士たちは、白老から支笏湖畔へ向かい、さらに山越えしながら定山渓を経由して小樽に到達しました。ここで船を雇い、奥州へと撤退しました。元陣屋追討軍の白老到着は、7月21日でした。辛くも難を逃れたという、ぎりぎりの逃避行でした。


最後に、この資料館で心に残った、
ふたりの人物について、
書いておきたいと思います。


【草刈運太郎】
仙台藩が白老に元陣屋を築いてから3年後、三代目の代官として、白老に着任しました。1868年、戊辰戦争が起こり、東北諸藩と同盟を結んだ仙台藩は敗れ、白老の陣屋にも政府軍が迫りました。このときに、元陣屋の藩士は全員白老を撤退したのですが、運太郎は、藩の民政責任者として当地に残りました。その後まもなく、政府軍が進軍してきたのですが、元陣屋の器物を破壊する官兵に抗議して、運太郎は深手を負いました。社台の漁家相木林蔵の番屋に逃れたのですが、刀創は治りませんでした。同年8月25日、再起不能を知ると、身を清めて砂浜に坐り、はるか南の仙台を拝み、割腹して果てました。49歳でした。白老に今も残る墓碑は、1883年(明治16年)、旧仙台藩士で画家の茂庭竹泉が同地を訪れた際に、その死を悼んで建立したものです。今も供養のために、地域住民による墓前祭が行われているそうです。


草刈運太郎の墓です。(画像をお借りしました)


【野口屋又蔵】
白老場所請負人3代目。仙台藩と去就と共にした商人でした。野口屋は、1844年(弘化元年)から、白老で昆布養殖に取り組み、成功させました。その三代目又蔵は、1859年に場所請負人に指定され、行こう、漁業をはじめ、諸産業の振興に努めました。
幕末、野口屋一家は、官軍の追討をうけた仙台藩士の撤退に献身的に協力しました。そのため、官軍からさまざまな圧迫にあい、資産の多くを失いました。


アヨロ鼻灯台にある、野口屋又蔵功績碑です。

資料館の終わりには、白老での蝦夷地警備を進言した三好監物の、紺糸縅の甲冑が展示されていました。

紺糸縅が美しさに、目が覚めるようでした。


1868年。
藩論が紛糾し、勤皇狩りが行われる中、
当時若年寄だった監物は、
会津討伐の詔勅を受けます。
しかし、従うことなく、
8月15日、従容として自決しました。
ときに53歳でした。


1966年(昭和41年)、白老仙台藩陣屋跡は、
国指定の史跡となり、白老町が整備しました。
1981年(昭和56年)、白老町は、
縁のある仙台市と「歴史姉妹都市」を提携
1984年(昭和59年)には、
町制施行30周年を記念して、
「仙台藩白老元陣屋資料館」を開館しました。


ここでしか見ることができない資料が
多数展示されていて、
たいへん見ごたえのある資料館でした。
ここまで整備した白老町の尽力に、
頭がさがる思いです。


資料館を出て、陣屋があった場所へと歩きました。

写真の中央あたり、はるか向こうに見えている門のあたりが、陣屋跡のようです。そこまで歩きます。

陣屋跡の配置図です。堀と土塁を円形にめぐらして、内曲輪と外曲輪を構成しています。現在は、資料館から搦手御門跡まで歩いているところで、ここから内曲輪に入ります。

かなり広いです。こういうとき、旅は体力勝負だ、とつくづく思います。😅

曲輪を囲む、堀と土塁が見えてきました。

堀にかかる橋をわたると、搦手御門跡があります。ここからが内曲輪に入ります。内曲輪に入るとすぐに、右手に厩跡が見えます。ここで馬をつないで、奥に進んだんですね。

そして左手には、勘定所跡が広がっています。広いですが、雑草が刈り取られ、きれいに整備されていました。

中を歩いてみると、けっこうな広さがあったことがわかります。

そしてこれが、本陣跡です。

本陣の向こう側には、兵具蔵跡がありました。

こちらは穀蔵跡。

内曲輪のほぼまんなかあたりに、井戸跡もありました。

厩跡あたりをウロウロしているところを、夫に撮られました。笑 奥に見えている白い建物が資料館です。

そしてMIYOも、井戸跡前に立っている夫を撮りました。笑 奥に詰御門が見えていますが、この門の向こうに、外曲輪が広がっています。実際に歩いてみると、陣屋跡の広さに驚きます。

内曲輪と外曲輪の間にある、詰御門です。向こう側に見えているのが外曲輪。堀に橋がかかっています。

そしてこちらは、今歩いてきた内曲輪です。

ここまでに歩いたところです。資料館から搦手御門跡まで移動し、内曲輪の中を、ぐるりと見て歩きました。


ご覧の通り、陣屋跡には、建物らしいものはなく、
わずかな痕跡が残るのみです。
けれど、資料館で知ったさまざまな出来事を
胸の内で反芻しながら歩くと、
言いようのない思いがこみ上げてきました。


明治維新、とひとことで言うけれど、
その陰には、数えきれないほどの
苦難や悲しみがあったのだ、と
思わずにはいられません。
ここ、白老仙台藩陣屋跡も、
そのひとつだったのだと思いました。


次回は、表御門の向こう側に広がる、
外曲輪を歩きます。


(つづく)

×

非ログインユーザーとして返信する