MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

涼風の栃木へ。星野リゾート 界 川治に泊まった2日間 16 - イタリア大使館別荘記念公園① チェッカーボードの館(2024年8月23日/2日め)

2024年8月23日 「イタリア大使館別荘記念公園」で。(栃木県日光市)


8月23日(金)


中禅寺湖のほとりにある、
英国大使館別荘記念公園を後にして、次は、
イタリア大使館別荘記念公園に向かって、
森の中を歩きました。


10分も歩かないうちに、黒い建物が見えてきました。

イタリア大使館別荘記念公園に到着。^^


【イタリア大使館別荘記念公園】
中禅寺湖畔の豊かな自然や国際避暑地の歴史とのふれあいが楽しめる公園です。明治中頃から昭和初期にかけて、中禅寺湖畔には、各国の大使館をはじめ多くの外国人別荘が建てられ、国際避暑地として発展しました。

園内の建物は、1928年(昭和3年)にイタリア大使館の別荘として建てられたもので、1997年(平成9年)まで、歴代の大使が使用していました。その後は栃木県が同館を買い取り、修理と復元を行って一般公開されました。(国の登録有形文化財)
「本邸」は、床板や建具・家具などをできる限り再利用して復元し、「副邸」は、往時の歴史を紹介する「国際避暑地歴史館」として整備しています。また、園内からは、表情豊かな中禅寺湖の風景を堪能することができます。


なにも調べずに来たので、😅
ここに着いてみて、初めて、
イタリア大使館別荘記念公園には、
建物が2棟(本邸と副邸)あることが
わかりました。


まずは、本邸から見て行きます。


中禅寺湖のほとりに建つ、本邸です。今立っている場所よりも少し低い土地にあるので、別荘の下の部分は埋もれているように見えます。

エントランスに向かって、石段を降りました。

エントランスの右側には、苔むした井戸があり、その先へと小径が続いています。

さすが多動夫。別荘に入ることなく、小径をどんどん歩いて行ってしまったので、仕方なく、MIYOも後に続きました。これはその小径で、別荘を横から見たところです。

本邸の先には、中禅寺湖が広がっています。

本邸は、近くで見ると渋いのですが、少し離れてみると、その様相が異なってきます。

あー、夫があんなところにいる。どうやってあそこまで行ったんだか。ほんと、多動だわ…。😓

別荘の前には桟橋があり、湖上の船が横着けようになっています。


【別荘の桟橋とヨット】
別荘の桟橋は、ヨットのために設けられました。当時ヨットは、湖でのレクリエーションの代表格で、湖面を滑るたくさんのヨットは、まさに夏の風物詩でした。かつては、男体山ヨットクラブ主催のレースが毎週のように開催され、各国大使がこぞって参加しました。レクリエーションだけでなく、日常においても、別荘の行き来や買い物などにヨットは頻繁に利用されており、別荘生活の必需品とも言えました。


桟橋の上から、夫が撮った本邸です。近くで見た時とは違う建物のように見えます。

壁面はチェスボードのような、小粋な格子柄を描いていました。

和風のような、洋風のような、不思議なテイスト。

桟橋でウロウロしている夫をあきれて見ていたら、撮られてしまいました。😄

シャレた柄の壁面を近くで見ると、チェッカーボードはタイルではなく、杉皮張りで、パターンを変えながら仕上げられていることがわかります。

夫がいつまでたっても戻ってこないので、待ちきれず、MIYOだけ、エントランスに戻りました。


「いったいどこまで行ったのやら…」
と思いながらも、しょうがないので、
先に中に入って、見学することにしました。


(つづく)

涼風の栃木へ。星野リゾート 界 川治に泊まった2日間 15 - 英国大使館別荘記念公園② 大人になったら、したいこと。(2024年8月23日/2日め)

2024年8月23日 「英国大使館別荘記念公園」で。(栃木県日光市)


8月23日(金)


中禅寺湖のほとりにある、
英国大使館別荘記念公園に来ています。


2階の展示室を見学した後は、隣りの英国文化交流室に行きました。

「英国文化交流室」とありますが、まあ、ふつうのティールームです。^^ 「英国の紅茶をいただいて、英国文化体験を」と書いてありました。


【ティールーム 南4番Classic】
英国大使館別荘記念公園の2階にあります。このティールームは、現存する日本最古の西洋式リゾートホテル、金谷ホテルが運営しています。駐日英国大使館シェフの監修を受けたスコーンと紅茶のセットなどがいただけます。


(以下、サイトのメニューからお借りしました。)
英国文化体験ミニアフタヌーンティー (1300円)
駐日英国大使館オリジナルスコーンとサンドイッチ、紅茶のセットです。 プレーン&木の実(クルミとアーモンド)のスコーンにはたっぷりの栃木県産ジャムとクロテッドクリームが添えられ、サンドウィッチと季節のフルーツがセットとなったワンプレートを英国高級紅茶と共にお楽しみください。

英国文化体験ミニアフタヌーンティー(3000円)
~ 英国高級紅茶(ポット)と小菓子付 ~
紅茶は、英国高級紅茶” NEWBY” のものです。それぞれの茶畑で、収穫に最も適した時期に摘まれた、高級品の茶葉の中から厳選したものだけを使用しています。


このときは、値段に恐れおののいて、
ティールームの中には入りませんでしたが、😄
でも、あの金谷ホテルが作った、
スコーンやサンドイッチと
高級紅茶がセットになっているのならば、
それほど高くはないのかも…?
と今さら思い出しています。


そのうえ、紅茶をいただきながら、こんな景色も堪能できるんですよ…。😮

とはいえ、ティールームの前にあるソファからでも、この景色は楽しめるんですけどね。🤣


このテラスのソファに座って休憩。
しばし、中禅寺湖を眺めていたのですが、
ふと、あるものに気がつきました。


コレです…。


この別荘は、
「大人になったら、したいこと。
 JR 大人の休日倶楽部」

の、CFの撮影地でした。


栃木県「奥日光のリゾート篇」。小百合さんが、1300円の紅茶を飲んでおられます。笑


そうとわかったら。
とたんにあたふたとする、私たち。(アホ)
「このポスターの中で、
 小百合さんが座ったソファはどれ?」
と、ふたりしてテラスをウロウロ。🤣🤣


柱の位置などを照らし合わせながら、ついに発見。小百合さんが座っていたソファを特定しました。

わざわざ、小百合さんのパネルといっしょに撮る夫。😂(撮るな~!)

小百合くんというよりも、西郷隆盛みたいですが。🤣🤣

テラスのソファに座って眺めつづけた、中禅寺湖。

雲間から差し込む光が、いくつもの帯のようになって、湖面を照らしていました。

このあとは、別荘を出て、湖に面した庭を歩きました。

別荘と湖のあいだには、3段のテラスが設けられています。(画像をお借りしました)


【三段テラス】
明治期に活躍した建築家、ジョサイア・コンドルのアドバイスを受けて設置されたものです。サトウは、いずれ増築することも考慮していたようで、1896年(明治29年)5月30日の日記に、「ボートハウスの位置を決め、家の裏手から丘の方へ延びている小道を歩く。敷地の前は三段のテラスを作ることとする。」と記してあります。
*記念公園としての復元にあたり、石を積み直しています。


このテラスからも、美しい中禅寺湖を堪能しました。

庭を歩いているときに、大きな庭石があるのに気がつきました。


【武田家旧宅の庭石】
1884年(明治17年)、サトウは家族のために、東京府麹町区富士見町(現在の東京都千代田区富士見)に家を購入します。記念公園にある3つの庭石は、その家に置いてあったもので、後に武田家から公園に寄贈されました。富士見の家でサトウは、妻であった武田カネや子どもたちと暮らしました。そしてサトウが帰国した後も、武田家の人々は、1976年(昭和51年)まで、その家に住んでおられたそうです。


左:富士見の家で暮らした、サトウとカネ。
右:カネと長男。


1906年、サトウはイギリスに帰国します。
このとき、63歳でした。
引退してからは、イギリスの片田舎で、
その後の20年をひっそりと過ごしました。
イギリスには家族もなく、
天涯孤独の日々だったようです。


最晩年、寂しさに堪えかねたサトウは、
再び、家族のいる日本に行く決意をしました。
が、病に倒れ、
もはや船に乗る体力はなかったそうです。


彼は、戸籍上は生涯独身のままで、
カネを入籍することはありませんでした。
通算25年も住んだ日本を捨て、
カネや子どもたちを残して、
帰国してしまった理由はわかっていません。


けれどサトウは、帰国後も、
日本に住む家族への手紙を送り続けました。
妻や子供たちにと、
彼が日本語で書き続けた500通の手紙は、
現在、横浜開港資料館に保管されているそうです。


黒を基調とした、凛とした佇まいの、旧英国大使館別荘。テラスのソファに座って、ただ湖を眺めているだけでも、ここを訪れる価値はあると思いました。

別荘の前を横切り、さらに左へ曲がると、目の前にはうっそうとした森が広がっています。

美しい旧英国大使館別荘に別れを告げて、その森の中に入りました。


ここから、旧イタリア大使館別荘に向かって、
森の中を歩きます。


(つづく)

涼風の栃木へ。星野リゾート 界 川治に泊まった2日間 14 - 英国大使館別荘記念公園① 垣間見る、アーネスト・サトウの生涯(2024年8月23日/2日め)

2024年8月23日 「英国大使館別荘記念公園」で。(栃木県日光市)


8月23日(金)


今回の旅は、
「界 川治」に泊まることが目的でした。
なので、ほかのスポットについては、
あまり考えていませんでした。
でも、チェックアウトしたあとは、
東京に帰る道すがら、
少しだけ観光していくつもりでした。


そこで、私たちが選んだのは、
国際避暑地記念施設めぐりです。
中禅寺湖のほとりには、
 英国大使館別荘記念公園
 イタリア大使館別荘記念公園
があり、以前から、
行ってみたいと思っていました。


案内パネルによると、駐車場で車を降り、中禅寺湖に沿って歩くと、まず英国大使館別荘記念公園に着くようです。

とりあえず歩いていたら、道がふたつに分かれました。左がイタリア大使館別荘記念公園で、右が英国大使館別荘記念公園だそうです。まずは、近くの英国大使館別荘記念公園の方に行ってみることにしました。

少し歩くと、すてきな建物が見えてきました。黒を基調とした、凛とした佇まい。ここがかつて、英国大使館別荘だったところです。


【英国大使館別荘記念公園】
明治中ごろから昭和初期にかけて、中禅寺湖のほとりには、各国の大使館をはじめ多くの外国人別荘が建てられ、国際避暑地として発展しました。本公園内に現在残っている建物は、英国外交官アーネスト・サトウの個人別荘として1896年(明治29年)に建てられ、その後、2008年(平成20年)まで英国大使館別荘として使われていたものです。2016年7月に記念公園として開園するにあたって、英国大使館別荘だったころの姿に復元されました。
別荘内からは、中禅寺湖を眺めることができます。また、当時の文化体験ができるコーナーもあり、明治維新に大きな影響を与えたアーネスト・サトウの生涯や特徴などが紹介されています。2階にはカフェ「南4番Classic」があり、スコーンと紅茶のセットをいただくことができます。


エントランスです。ここで靴を脱ぎ、スリッパに履き替えます。

その後、券売機で入館券を購入します。入館料は300円ですが、ふたつの記念公園の共通入館券だと450円になり、オトクです。


建物は二階建てで、
一階にはふたつの部屋があり、
英国外交官だったアーネスト・サトウと
サトウが愛した奥日光を紹介しています。


まずひとつめの部屋を見学します。

いかにも英国らしい雰囲気です。

この部屋では、1896年(明治29年)にこの別荘を建てた、アーネスト・サトウの生涯を紹介しています。彼は、明治維新に大きな影響を与えた人物だそうです。


【アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow/1843-1929)】
イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築きました。日本滞在は、通算すると計25年間になります。
中産階級であるドイツ人の父とイギリス人の母の間に生まれましたが、日本に憧れ、大学卒業後は、イギリス外務省に入省。1862年に横浜に着任しました。来日後、生麦事件や薩英戦争に関わり、下関戦争における長州藩との講和交渉では、高杉晋作を相手に通訳を務めました。このような経緯から、長州藩の伊藤博文や井上馨と交流するようになり、日本語に堪能な英国人として、サトウの名前が広く知られるようになりました。
サトウは、戸籍の上では生涯独身でしたが、1871年(明治4年)に武田兼(カネ/1853-1932)を内妻とし、3人の子をもうけました。兼とは入籍しなかったものの、子供らは認知して経済的援助を与えていました。第一子の女児は1873年に幼くして病没しましたが、二人の男児には経済援助と共に、英語を学ぶよう推奨しています。次男の武田久吉が27歳でロンドンに留学する際はその手配をしました。彼は後に、植物学者になっています。長男の栄太郎は、アメリカに移住。農業に従事し、現地の女性と結婚。サトウダイコンの生産者として暮らしました。
イギリスに帰国したアーネストは、晩年、「家族」の居る日本に移住しようとしましたが、病に倒れ果たせませんでした。家族に宛てて日本語で送った多くの手紙が残っており、それらは、横浜開港資料館に所蔵されています。


若かりし頃のアーネスト・サトウと、妻・兼(カネ)。


アーネスト・サトウがこの別荘を建てたのは、
カネと結婚して25年後。53歳のときです。
当時の中禅寺湖周辺は
外交官の社交場のようになっていたわけで、
はたしてサトウは、
カネや子どもたちといっしょに、
この別荘へ来たことがあったのだろうか、
と、ふと思いました。


そしてその隣りにある、もうひとつの部屋へ。

国際避暑地の歴史や奥日光の豊かな自然、サトウの次男で植物学者の武田久吉博士、サトウがこの場所を別荘として選んだ理由や建物の特徴などを紹介しています。


どちらの部屋も、きれいに清掃されていて、
とてもいい雰囲気なのですが、
ここでなによりすばらしいのは、
テラスからの眺めです。


ソファに座ると、目の前に中禅寺湖が広がります。

左側

右側

もうこれだけでも、ここに来てよかった、と思いました。^^


しばし景色を堪能してから、
二階へつづく階段を上がりました。


二階にもふた部屋あります。まずは展示室へ。

階段を上がったら、目の前に中禅寺湖が飛び込んできました。つきあたりを右に曲がると、展示室があります。

展示室の入口です。

室内では、サトウが活躍した時代の英国文化を紹介しています。

アーネスト・サトウが活躍した時代(ヴィクトリア朝)の文化や芸術も紹介されていました。これは、手仕事の復興と産業デザインの改良をめざす「アーツ・アンド・クラフツ運動」から生まれた作品だそうです。


次回は、隣りの英国文化交流室に行ってみます。


(つづく)

涼風の栃木へ。星野リゾート 界 川治に泊まった2日間 13 - 明治の館③ 至福のオムレツライス(2024年8月23日/2日め)

2024年8月23日 「西洋料理 明治の館」で。(栃木県日光市)


8月23日(金)


明治末期に建てられた石造りの洋館、
旧ホーン家住宅主屋 / 「西洋料理 明治の館」
に来ています。
お料理が運ばれてきました。


魚貝類のサラダ(1200円) 。写真ではわかりにくいですが、大きめのボウルに山盛りになっていました。

サラダはふたりでシェアしても十分の量。新鮮な魚介類がたくさん入っていて、びっくりしました。^^

MIYOはオムレツライス (1800円)。見た目は普通なのですが、ライスもデミグラスソースも超おいしい。^^ その上、オムレツの中はふわふわとろとろ。ここに来てよかった~、と思えた一品でした。

カレーが大好きな夫は、どこに行ってもカレー。このときも、ビーフカリーライス(2000円)を。

おいしかったです!^^


メニューだけを見ると、
普通の洋食メニューが並んでいるだけ。
でも、いざいただいてみると、
長い歴史の中で作り上げてきた、
不動の美味しさであることが実感できました。


レストランの玄関横には、ショップがあり、オリジナルの焼き菓子が並んでいました。

ケーキもたくさん。^^

このお屋敷の主だった、F.W. ホーン(Frederick Whitney Horne)氏の写真が飾ってありました。


【F.W. ホーン(Frederick Whitney Horne)】
1896年(明治29年)に来日し、横浜に、機械工具などの輸入会社「ホーン商会」を設立しました。その後、1907年(明治40年)に、日本蓄音機製造株式会社(後の日本コロンビア株式会社)を設立し、我が国初の蓄音機ならびにレコードの製造販売を開始しました。


さて。このお邸には、
もうひとつのエピソードがあります。
次に登場するのは、重光葵氏です。


重光葵氏は、戦前から戦後にかけては外交官として、その後は政治家として活躍しました。


【重光葵(しげみつまもる)(1887年 - 1957年)】
外交官として、ドイツ、イギリス、アメリカで要職を歴任。1930年(昭和5年)には駐華公使となり、第一次上海事変の際に、欧米諸国の協力の下、中華民国との停戦交渉を行いました。その後、駐ソ公使、駐英大使を歴任。重光は、「日本は絶対に(欧州戦争に)介入してはならない」と再三東京に打電しましたが、日本政府は聞き入れず、1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まりました。そして敗戦後、重光は、東久邇宮稔彦王内閣で外務大臣に再任され、日本政府の全権として降伏文書に署名するという大役を引き受けることになりました。
1945年(昭和20年)9月2日朝に、東京湾に停泊した米海軍の戦艦ミズーリの甲板上で、降伏文書調印式が行われ、全権団代表として大本営・参謀総長梅津美治郎と共に署名しました。重光はこれを「不名誉の終着点ではなく、再生の出発点である」と捉え、その時の心境を「願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを」と詠んでいます。
戦後日本を占領したGHQは、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く方針を示しました。さらに、公用語も英語にしようとしました。重光葵は、マッカーサーを相手に、「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを要求。その結果、占領政策は、日本政府を通した間接統治となりました。


今、私たちが日本語を話しているのは、
(=そして現在でも英語がヘタなのは。笑)
敗戦後も日本の主権を守ろうとした、
重光氏や他の皆さんの、
尽力のおかげなんですね…。


さて、その重光氏ですが、
1945年に空襲で自宅が被災し、日光に疎開。
その後7か月間、この邸に住んでいたそうです。
「日本の敗戦をどう処理するのか…。」
彼は、この邸内で苦悩し続けました。


やがて、1945年9月2日。
東京湾上に停泊していた、
アメリカ戦艦「ミズーリ」甲板で、
降伏文書調印式が行われました。
その文書に署名したのが、重光氏でした。
その日彼は、警察の自動車に乗って、
この邸を出発していったそうです。


「ミズーリ」甲板で、降伏文書に署名する重光葵氏。(画像をお借りしました)

私たちが食事したテーブルのすぐそばに、重光氏が残した句が飾ってありました。
「山は破れ 水は狂いて 流されし わが家の跡に 村人立つも」


「旧ホーン家住宅主屋」は、
日本の歴史の一片をひっそりと包み込んだような、
石造りの洋館でした。
今そこは、「明治の館」となり、
何事もなかったかのような佇まいで、
たくさんの人々が
気軽に立ち寄る場所となっています。


けれど、運ばれてきた料理を見ていると、
その影で積み重ねられてきた歴史が偲ばれ、
なにか、感慨深いものがありました。


「西洋料理 明治の館」。とてもすてきな場所でした。


さて、この「明治の館」がある、
日光不動苑なのですが、
その敷地内には、「堯心亭」だけでなく、
他にもすてきなお店があります。



駐車場に戻るついでに、
このお店を見ていくことにしました。


イングリッシュガーデンがとてもすてきな、「カフェレストラン ふじもと」です。

優雅な階段の先にあるのは、石造りのレストラン。

瀟洒な佇まいですが、注目すべきは、右側に隣接しているガレージです。


かつてこの建物は、
ホーン家のガレージだったのです。
ホーン氏が建てた別荘の主屋は、
「明治の館」となっていますが、
主屋の西側にあるこのガレージは、
「旧ホーン家住宅ガレージ棟」として、
2006年、主屋と共に、
登録有形文化財となりました。


とてもきれいにリフォームされています。おそらく、レストランで食事すれば、中を見学させてもらえるのではないかと…。

今食事してきたばかりですが、このお店でもう一回食事したくなりました。🤣🤣

次に日光へ来たときは、ぜひ、こちらにも入ってみたいです。^^


帰宅してからわかったのですが、
この日光不動苑には、
全部で3軒の登録有形文化財がありました。


①レストランふじもと(旧ホーン家住宅ガレージ棟)
②レストラン明治の館(旧ホーン家住宅主屋)
そして、
③レストラン明治の館別館游晏山房(旧ホーン家住宅別棟)
です。


【レストラン明治の館別館游晏山房(旧ホーン家住宅別棟)】
主屋付属舎の北方にあります。切妻造,鉄板葺の石造平屋建で、外周壁には稲荷川の安山岩を整層にして、妻面まで積んであります。もとはメイド部屋でしたが、現在はレストランとして活用しています。主屋付属舎とは、石造の旧ボイラー室・通路等で繋がっています。


旧ホーン家住宅別棟です。(画像をお借りしました)


次に来ることがあったら、
ガレージ棟と別棟も、
じっくりと見学していきたいと思います。


日光不動苑で咲いていた花。

車に乗ろうとしたら、すぐそばに赤とんぼがとまっていました。これはリスアカネでしょうか。


小さい頃やっていたみたいに、
目の前でぐるぐると指を回してみたら、
ほんとうに目を回したみたいで、
動かなくなってしまいました。(ごめんね~)。


トンボ君にお別れして、出発。
次の目的地へ向かいます。


(つづく)

涼風の栃木へ。星野リゾート 界 川治に泊まった2日間 12 - 明治の館② 日光不動苑と3階展示室(2024年8月23日/2日め)

2024年8月23日 「西洋料理 明治の館」で。(栃木県日光市)


8月23日(金)


明治末期に建てられた石造りの洋館、
旧ホーン家住宅主屋に来ています。
(現在は、「明治の館」というレストランになっています。)


「明治の館」です。


ようやく、39番の方が呼ばれました。
47番まで、あともう少し。^^
…と思っていたら、多動夫が、
「建物の周囲を歩いて、写真撮ってきていい?」
と…。


はいはい、そうよね。
多動だから、じっと待っていられないよね。🤣
黙ってうなずくMIYO。


ということで、意気揚々と出かけて行った夫。お邸の周りを一周してきたようです。これは建物の側面ですね。

屋根に煙突があり、そこから下に向かって石造りの柱のようになっているものが見えるので…、

おそらくこの底部には、暖炉があるもよう。^^


「明治の館」は、千古の歴史を秘めた、
日光不動苑という森の中にあります。
日光東照宮の東隣にあるこの一帯は、
もとは寺院だったところで、その寺院跡が、
「日光不動苑」として残ったのだそうです。


「明治の館」の裏手には、
「堯心亭(ぎょうしんてい)」という
日光で唯一の精進料理専門店があります。
こちらでは、
日光山輪王寺に1200年の歴史を持つ
精進料理をいただけるそうです。
伝統と格調高い数寄屋造りの建物と共に、
庭の美しさでも知られているそうで、
こちらも、いつか行ってみたいお店です。^^


堯心亭の奥には、今も、不動尊や地蔵尊、祠(ほこら)などが遺っているそうです。

栗は、まだ青いね…。^^

夫は、日光不動苑をぐるりと一周して戻ってきました。掲示板の番号は42番になっています。あともう少し。^^

そして、テラスで待つこと約20分。ようやく、47番が表示されました。私たちの番です。^^

案内していただいたのは、なんと暖炉の前のテーブルでした。なんてすてき。😄

窓際の席もすてきですね。^^

テーブルマットには、お邸のイラストが…。


注文をした後、お料理が来るまで、
おとなしく待っていればいいのですが、
多動夫は期待を裏切らず、
「2階を見てきたいんだけど」
と言い出しました。😔😔


2階もレストランになっているので、
お客さんが出入りしています。
なので、まあいいかな、と思い、
「こっそり行って、邪魔にならないように。
 すぐに帰ってくるのよ。」
と言い聞かせました。
(子どもみたいだな…。🙄)


喜び勇んで階段を上がる多動夫。その階段から見下ろした1階です。MIYOは中央のテーブルで、天井の写真を撮ってますね。笑

このとき、MIYOが撮っていた写真です。

こちらは、夫が撮った2階。1階よりも日当たりがよく、明るい雰囲気のようです。

さらに、階段を上がって3階に行くと、そこは博物館のようになっていて、たくさんの古い蓄音機やレコードが展示されていました。

3階から見下ろした階段と、2階から見下ろした階段です。お掃除が行き届いていて、とてもきれいです。^^


戻ってきた夫に、
「えっ 3階まで?
 勝手に入っちゃったの?😮」
と訊くと、
「勝手に入るな、とも書いてなかった。」
と、いつものへらず口。


まあ、おそらく3階は、
見学自由だったのでしょうけど…。
でも皆さん、レストランに来たと思ってるので、
3階にそんな場所があるとは、
誰も想像もしていないようです。
のこのこ3階まで上がって見学していたのは、
夫だけだったとか。
さすが、多動だけのことはある…。😔


…なんてことを話していると、
お料理が運ばれてきました。


毎度のことながら、お料理が出てくるまでの
話が長くて、スミマセン。😅


(つづく)