MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 15 - 「ヒューイットリゾート那覇・ブッフェレストラン ティーダ」で朝ごはん①(2022年9月1日/7日め)

2022年8月31日 沖縄県立博物館で。沖縄の人々は、水を確保するために、雨水を貯めたり、村落の共同井戸から毎日水を汲んで水甕(みずがめ)に貯めたりなど、様々な工夫をしてきました。戦後は、庭先や屋上に水タンクを設置する家が増えているそうです。写真は、共同井戸から水を運ぶ人々、雨水を貯める水甕、屋上にずらりと並ぶ水タンク。(沖縄県那覇市)


9月1日(木)


7日めの朝になりました。


天気予報によると、台風11号は、沖縄本島から宮古島に向かって移動した後、さらに強烈な台風になって北上するそうです。


宮古島はたいへんなことになっていて、
航空便は全便欠航です。
一日ずれていたら、私たちも、
宮古島から出ることができず、
島に缶詰め状態になるところでした。


私たちが宮古島を出て沖縄本島に着いたら、
台風は宮古島に移動し始めたので、
これまた運よく、沖縄本島で、
それほどの被害にあわずにすんでいます。
まあ、この時点においては、ということで、
先のことは誰にもわからないのですが。


とりあえず、朝ごはんです。
前日は、8月限定で開催されていた、
「最上階のグリルでのビュッフェ」
で、眺望を楽しみながらいただいたのですが、
この日からは、ホテル1階にある、
ブッフェレストラン ティーダで、
朝食ビュッフェをいただきます。
ティーダのビュッフェの方が規模が大きい、
と聞いていたので、楽しみでした。^^


レストランの入り口には、こんなお知らせがありました。夜、台風で外出できなくなった場合は、「ヒューイットオリジナル黒カレー+ドリンク」を、500円で提供してくださるそうです。助かります。^^

レストランの中はこんな感じ。フードコーナーの周囲に、たくさんのテーブルが並んでいます。これはレストランの右半分にあたります。写真に写っていませんが、レストランの左半分にも、テーブル席がたくさんありました。広い~。^^

その、左半分です。手前にはフードカウンター、そして奥にはライブキッチンカウンターがあります。

ライブキッチンカウンターには、ホットミールのお鍋が並んでいます。
前列:モツの煮込み、豆腐ハンバーグ、人参しりしり、ゴーヤチャンプルー、味付三枚肉、スクランブルエッグ
後列:沖縄テビチおでん、肉団子の黒酢だれ、回鍋肉、紅芋コロッケ、ハッシュドポテト、茄子と茸のアンダンスー、白粥

白粥のトッピングです。ゴーヤ醤油漬け、パパイヤ黒糖漬け、冬瓜ハイビスカス漬け、油條、島らっきょ、塩昆布、ふりかけ(ゴーヤチャンプル)。トッピングがどれもとってもおいしくて、このお粥を毎日いただきました。^^

「おばーのかめーかめー」は、沖縄のお惣菜のコーナーです。

上段:大麦と野菜のマリネ、彩り野菜の白和え
中段:蓮根の和え物、玉子焼き
下段:もずく酢、海ぶどう、香るごまこんにゃく木耳。

こんにゃくの煮もの、小松菜のナムル、インゲン焙煎胡麻和え。奥には、ゴロゴロ蓮根の甘辛和えがあります。

左から、姫皮竹の子のお浸し野沢菜入り、ミミガーのポン酢和え、コールスローサラダ。奥には、あおさのてんぷら、クーブーイリチー(昆布の炒め煮)、ひじき煮があります。

上段:切り干し大根
下段:揚げ茄子とインゲンの生姜風味。オクラのおかか和え、自家製島豆腐とジーマミー豆腐

手前:海老とタコのマリネ、海老のマヨネーズ和え、季節のテリーヌ、白身魚のエスカベッシュ
奥:チーズの盛り合わせ、オリーブ、蓮根の酢漬け

そしてサラダコーナーに続きます。

ドレッシングは、旨味玉ねぎ、コブサラダ、完熟トマト、シーザー、胡麻、蘭匠ぽんず。

パンもたくさん。全部ミニサイズなのがうれしい。^^ クロワッサンショコラ、胚芽ロール、ミニクロワッサン、オレンジデニッシュ、バターロール、ミニ食パン3種(抹茶、プレーン、マーブル)。

スイーツとフルーツのコーナーです。

ヨーグルト、スイーツ、フルーツと続きます。奥のボウルには、小さなサーターアンダギーがたくさん入っていました。

牛乳プリンとマンゴープリン

ジュースコーナーには、アップル、沖縄グァバ、シークワーサー。さらにハイビスカスティーとデトックスウォーターが並びます。

MIYOの朝ごはん(一回め)。ごはんは少しだけにしておかずをたくさん食べるのが、MIYOの食べ方。

夫の朝ごはん。なんか少なめですね。沖縄そばを、MIYOもひと口もらいました。笑


しつこいですが、繰り返します。
この、豪華な朝食ビュッフェがついて、
ふたりで一泊10000円だったのです。
(ひとり5000円!😵)


そして、これだけではありません。
ヒューイットリゾートの朝食ビュッフェには、
さらに別のコーナーがあり、
お楽しみはまだまだ続きます。😵😵
そのコーナーにはなにがあったのか、
というのは、次回でご紹介いたします。^^


(つづく)

台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 14 - DiDiに乗って、琉球刺身盛りで晩ごはん。(2022年8月31日/6日め)

2022年9月2日 第一牧志公設市場で。グルクン、ミーバイ、イラブチャーの皆様です。今回の旅行で、全部食べました。とってもおいしかったです。^^


本日付けで、夫が定年退職いたします。
MIYOは、3年前に完全リタイアしているので、
これで私たちは、とうとう、「無職の夫婦=年金生活」になってしまいました。😅
とりあえず今夜は、退職祝いということで、銀座のお店を予約しました。
夫婦でたらふく飲んできまあす。😄😄


8月31日(水)


沖縄県立博物館の日記が終わり、
ほっとしています…。


この博物館は、もう情報が多すぎて、😅
(もちろん、すばらしいことなんですけど)
それをブログにまとめようと思うと、
途方にくれました。


いざ、ブログを書き始めると、
さらに一仕事です。
間違ったことを書いてはいけないので、
たとえわずか2行だけの記述であっても、
必ず、あれこれと調べ、裏付けをとります。
(この作業がおもしろかったりするので、
 関連する資料をどんどん検索してしまい、
 いつまでたっても終わらない…。😭)
気がつくと、ちょっと調べるだけのはずなのに、
1時間くらい、すぐに経過してしまいます。


一日に1本の日記を書くだけなのに、
毎日4~5時間を費やしていました。
作業量の多さに、時にはめげそうになりましたが、
折々にいただくコメントに励まされ、
なんとか書き続けることができました。
ありがとうございました。^^


ここからは、もう少し軽快に、
書き進めていきたいと思います。


さて、博物館の見学を終え、
ホテルに戻ることにしました。
が、ここで夫は、いつものように、
「ほんの30分くらいだから、歩いて帰ろう。」
と言い出しました。😵


博物館の見学で、たぶん4時間くらい、
ずっと歩いてるんですけどね…。😔
まだ歩かせるんかい、と黙っていたら、
「せっかくだから、来た時とは違う道を歩こう。」
と言い放ち、さっさと歩き始めました。😔


しかたなく、とぼとぼと後をついて歩いていたら、まもなく、「あっぷるタウン」というショッピングモールが見えてきました。(画像をお借りしました)


中にコープのスーパーがあるようなので、
ここで晩ごはんを買って帰ることにしました。
スーパーに入ると、いきなり元気がでて、
すたすたと歩き始めたMIYOです。笑


やっぱりおもしろいのは鮮魚コーナー。「琉球刺身盛り」が、こんなに入って1480円。マグロとカジキはともかく、アカマチ、ミーバイ、セーイカはなんでしょう?笑

アカマチ(以下、画像をお借りしました)
アカマチとは沖縄方言でハマダイのことを指し、沖縄では「マクブー」、「アカジジンミーバイ」と肩を並ぶ三大高級魚です。見た目はマダイより赤みが強く、大きな目とV時形の長い顎が特徴です。夏ごろが旬と言われており、この時期に水揚げされるアカマチは一番脂がのっていて美味しいといわれています。白身でクセがなく、刺身としても、焼いても、煮ても、揚げてもおいしい万能お魚です。一部の人からはマグロより脂がのって美味しいと言われています。

ミーバイ
沖縄方言でハタ類のことを指します。特にアカジンミーバイと呼ばれるスジアラは高級魚として知られ、高値で取引されます。

セーイカ
セーイカは沖縄の方言で、和名はソデイカ。世界最大の食用イカで、体長1m、体重は20㎏にもなります。あまりに大きいので、水揚げ時には胴体部分だけがセリに出されます。

そしてこちらは刺身盛合せ3点盛1111円。しまあじはわかるけど、メイチダイは聞いたことがないし、ここにも「アカマチ」が入っています。

メイチダイ
40cm前後になります。側扁し、幼魚、小型には身体を横に走る黒い帯が目にも通るが成魚では縞模様が消えます。頬に鱗があり、Trac(側線から背鰭までの鱗の数)は小さいものも含めて5つ。下顎の歯は犬歯状。


もうね…。
どれも熱帯魚みたいで、
「これ、食べられるんですか。
 食べていいんですか。」

って聞きたくなってしまうんですけど。🤣🤣


MIYOは、とにかくお刺身が大好きなので、
とりあえず買って帰ることにしました。笑
ほかに、お寿司とかお醤油とか、
ドリンクとかも買って、全部で3853円。


買物を終えて外に出たら、
雨が降り始めていました。
そう。すっかり忘れていましたが、
台風が来ているのです。😂😂
「風もでてきたし、
 これは急いで帰った方がいいね。」
と相談し、歩くのをやめて、
タクシーで帰ることにしました。


普段、私たちがタクシーを使うことは
ほとんどないのですが、
この旅行では特別です。
だって、DiDiの割引券が、
10枚(5000円分)もあるのです。🎉🎉


DiDiは、1番近くにいるタクシーを探してくれるアプリです。


宮古島を旅行中に、
たまたま、このアプリのことを知り、
インストールしてみました。
すると、現在キャンペーン中とのことで、
5000円分もの割引券をもらえました。^^


「平均15秒で見つかる」とか、
ウソでしょ~って思ったんですけど、
ほんとに、大体5秒くらいで、
タクシーが見つかります。
そして、その車が
こちらに向かって走ってくるのを、
スマホ上で確認することができます。
宮古島で、その便利さは体験済みです。笑


今回も、依頼してわずか4秒で、タクシーが見つかりました。車がこちらに近づいてくるようすは、スマホ上でモニターできます。画面上の小さな車の色まで本物と同じにしてあって、笑えます。^^


ホテルの近くのアスティーダショップに
寄って帰ろうと思っていたのですが、
雨足がどんどん強くなってきたので、
まっすぐホテルに向かっていただきました。


タクシー代は700円でした。
(手数料などはありません。)
割引クーポン560円が自動的に適用され、
支払ったのはわずか140円。
バス代よりも安いです。🤣🤣
代金はペイペイで自動決済されるので、
車内での支払いは不要です。
(目的地に着いたら降りるだけ。笑)


今回の沖縄旅行では、このDiDiに、
ほんとうに何度もお世話になりました。
(クーポンがあって安かったですから。笑)
日頃乗り慣れないタクシーに乗るたびに、
世の中はどんどん進化しているなあ、と
夫とふたりで感動していました。^^


DiDiのおかげで、ラクチンでホテルに戻りました。

お風呂に入ってからテレビをつけると、たいへんなことになっていました。「猛烈な台風11号沖縄に最接近 風速40m超」「約300戸で停電」「空の便 JAL欠航」…などと出ています。

「今年最強の台風」「宿泊キャンセル多発」「物資も不足」…だそうです。


この日、旅行を切り上げて
早めに帰宅しようとする人たちで、
那覇空港は大混雑。
けれど欠航もあったので、
結局乗れなかった人もいらしたとか…。


「なんか、たいへんなことになったね…。」


台風は9月半ばくらいから、と、
勝手に想像していました。
まだ8月だから、台風はギリギリで大丈夫。
…と思って、沖縄に来たのです。
こんなにすごいことになるとは、予想外でした。
運悪く、台風が近づきつつあるらしいことは
わかっていましたが、
こんなに強烈なのが来ているとは…。😅


まあでも、このホテルの中にいれば安全だし。
食事は、ホテル内のレストランもあるから、
とりあえず困ることはありません。
「こんなすてきなホテルに缶詰めになるのも、
 そう悪くない。」

と、MIYOは思っていました。
(↑アホ)


夫はと言えば、ついさっきスーパーで買ったオリオンビールを飲んでご満悦。

雨がやんだので、ホテルから見えるゆいレールの写真を撮りに行ったりと、のんきなものです。😅

「かわいいのが撮れた!」とか言って喜んでるけど、明日は、今年最大の台風なんだよ?😔


さしあたって、
「旅行を切り上げて東京に帰ろう」
とか、つゆほども思っていないのは、
ふたりとも共通していたのですが、
その心中は全く違っていたことが、
翌日になってわかるのでした…。


なにはともあれ、晩ごはんです。^^ ANAの機内ワインと京極純米酒は、自宅から持ってきました。笑

なんと2年も前に、北海道の「名水の郷 きょうごく」で買った純米酒。たしか買ってすぐに、夫がバスの中で飲んでたと思うのですが、もう1個買ってあったみたいです。その上、買ったのを忘れて、家の中に放置していたみたいです。(←アホ)🤣🤣

コロナでもウポポイ。登別から函館を訪ねる北海道 4泊5日のおトク旅 8 - 羊蹄のふきだし湧水(2020年11月28日/2日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


きはだまぐろの岩木寿司(980円)。ちなみに、卸している「岩木鮮魚」は、ネタがでかいことで有名で、沖縄では評判のいい会社みたいです。

そして、琉球刺身盛り(1480円)を買っちゃいました。

ぶっちゃけ、コレなんですけどね…。アカマチ、ミーバイ、セーイカ。🤣🤣

食後は、おつまみ各種を並べて、恒例の家族宴会。北海道焼もろこしせんは、7月の新潟旅行で行った「新潟せんべい王国」で買いました。「ばかうけ」を製造・販売する栗山米菓直営のせんべいテーマパークです。 笑


こうして、夜も更けていきました。
今日は、雨も風も思ったほどではなく、
博物館に行くこともできました。


でも、天気予報によると、
明日、台風はもっとひどくなるような…。
まあ、明日のことは明日考えるとして、
今日は寝ます。😄


(つづく)

台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 13 - 台風なら博物館⑥ 沖縄県立博物館 常設展示室(沖縄の家屋、魔除け、高倉、ヒンプン、湧田古窯跡1号窯)(2022年8月31日/6日め)

2022年8月31日 湧田古窯跡1号窯です。1616年に朝鮮人陶工が開いたことが始まりだそうです。(沖縄県那覇市)


8月31日(水)


沖縄県立博物館で、
「沖縄の民族とくらし」という
民俗部門展示室を見学しています。
以下のカテゴリーで展示されていますが、
今日は、前回の続きで、
第3項の展示をご紹介します。
 1.沖縄の民俗世界
 2.沖縄に生きる人々
 3.家のくらし
 4.変容する民俗


3.家のくらし


展示室の奥に、
かなりコンパクトになった沖縄の家屋が
設営されていました。


昭和初期くらいの、沖縄の民家を再現しています。


【民家の間取り】
沖縄の民家は、南向きを理想とし、門と母屋の間に中垣(ヒンブン)を設けています。母屋の間取は、一番座(客間)、二番座(仏間)、裏座、台所に区分されます。母屋の軒、または軒下の空間を、雨端(アマハジ)といいます。大きな庇が日陰を作るので、快適な場所です。雨端は、前庭(ナー)とともに、労働や社交の場として利用します。母屋の他に、前の屋(メーヌヤー)、納屋兼家畜小屋、豚便所(フール)、菜園(アタイ)があります。


図は一般的な沖縄の家屋ですが、この展示室では、点線で囲まれた部分だけが再現されています。

右側が一番座(客間)で、左側が二番座(仏間)です。通常はふたつの部屋になっていて、間に仕切りがあります。

いろりのある板間です。その奥に、台所も見えます。

食事などをする場所で、ここが家族の生活スペースです。「ちむどんどん」で、家族が食事しているシーンは、いつもここですね。^^

台所です。炉にかけられているのは、シンメーナービという鍋で、これを使って煮炊きをしました。

台所の外壁に掛けられているのは魔除けで、左がゲーン、右の貝殻はアクゲーシと言います。

沖縄にはこんなにたくさんの魔除けがあり、この展示室の中にも、すべて、さりげなく展示されています。小学生が社会見学で来館したときは、「宝さがしゲーム」のように、みんなで「魔除けさがし」をやるそうです。


4.変容する民俗


沖縄の島々は、伝統的な生活文化が色濃く残り、「民俗の宝庫」と呼ばれてきました。しかし、都市化や情報化がすすみ、島々のくらしは少しずつ変化しています。島外からの移住者も増え、新しい生活スタイルが生まれつつあります。このコーナーでは、沖縄の島々や地域における民族の変化について紹介していました。


沖縄でよく見かける伝統的な品々が展示されていましたが、詳細は割愛します。


これで、常設展示室の「館内の見学」は、
とりあえず終わりました。ふぅ…。


お昼をだいぶ過ぎてしまったので、
ここでお昼ごはんにしました。
まずは博物館前のローソンに行き、
MIYOはアイスコーヒー、
夫はコーラを買いました。
再び博物館に戻り、
館内のイスとテーブルをお借りして、
ハンバーガーをいただきます。


このハンバーガーを2個、バッグに入れて、朝からずっと持ち歩いていました。😄


どうしてバッグにハンバーガーがあるのだ、
…というのは、聞かないでください。😅


ハンバーガーは、中の具も充実していて、
食べ応えがありました。
私も夫も、朝食ビュッフェを食べ過ぎて、
あまりお腹が空いていなかったので、
このハンバーガーを1個ずつ食べたら、
それで十分でした。^^


ランチの後、ちょっと休憩して、
次は、「屋外展示」に行くことにしました。
この博物館の中庭には、屋外展示として、
琉球の伝統的な高倉民家が再現されています。


また、隣接する湧田窯展示棟には、
17世紀頃に沖縄窯業の中心を担った湧田窯が、
発掘されたままの状態で移設されています。


この博物館、内容が充実しすぎていて、
見学しても見学しても、
終わらないんですよ…。😂😂


沖縄県立博物館の全体写真です。実はこんなにでかかったんです。笑 沖縄県内最大の収蔵資料数を誇り、ここに来るだけで、沖縄の自然・歴史・文化をまとめて学ぶことができます。(画像をお借りしました)

…ということで、博物館を出て、屋外展示のスポットに行きました。座喜味城の美しい石垣をモチーフにした博物館の外壁を背景に、高倉が建てられています。


【高倉(たかくら)】
穀物を貯蔵する倉庫です。床を上げて風通しを良くし、湿気やネズミの害を防ぐ工夫がなされています。構造の違いにより、沖縄式と奄美式に分かれます。この高倉は奄美式で、昭和初期に建てられました。籾俵を60俵ほど保存できます。昭和51年12月、沖永良部島(鹿児島県)から沖縄県に移築されました。(高さ6.45m、全面積32.3㎡)


そして高倉の奥にあるのが、琉球の伝統的な民家です。


【沖縄の民家】
沖縄の伝統的な民家は、高温多湿の気候風土に適した構造になっています。門扉がなく、母屋も雨戸を全開にして風を通します。沖縄県県立博物館・屋外展示の民家は、沖縄本島南部に今も残る伝統的な民家の間取を参考にして、再現しました。


母屋の正面では、衝立のようなものが横に広がっています。これは、中垣(ヒンプン)です。沖縄の民家には門扉がなく、家の中が丸見えになります。が、門扉の代わりに設置されたヒンプンが、外部に対する目隠しとなっています。訪れた人は、ヒンプンの脇を通り抜けて、家の中庭に入るようになっています。

家の裏側から撮った写真です。奥に見えている白い塀のようなものがヒンプンです。母屋の軒、またはその下を雨端(アマハジ)といい、大きな庇が日陰を作る、快適な空間になります。この場所は、軽作業や社交の場として利用します。


靴を脱いで、家の中に入ります。
母屋の間取は、
 一番座(客間)
 二番座(仏間)
 裏座(寝室など)
 台所
に区分されます。


一番座(客間)です。

二番座(仏間)。必ず、押し入れのようなスペースが設けられていて、その上半分が仏壇になっています。

中庭の周囲では、植生展示として、もともとこの一帯にあった森を代表する樹木や有用植物が移植・栽培されています。燈籠やシーサーも置いてありました。このシーサーは、1975年に開催された沖縄国際海洋博覧会の、沖縄県出店パビリオンの正面に設置されていたものだそうです。

最後に、隣接する湧田窯展示棟に入りました。棟内に、湧田古窯跡1号窯が移設されています。


【湧田古窯跡1号窯】
1号窯は瓦を焼いた窯で、斜面を掘って造られた「半地下式平窯」と呼ばれる構造です。窯には1mほどの段差があり、下の段が薪などの燃料を燃やす「燃焼室」、上の段が瓦を並べて焼いた「焼成室」でした。燃焼室と焼成室を分ける壁には、レンガが積まれていたと考えられています。また、窯全体を覆う土の屋根があったと考えられますが、発掘された時には残っていませんでした。


発掘された、涌田古窯跡です。陶器や瓦などを焼いた窯でした。沖縄における製陶業は、1616年に朝鮮人陶工が連れてこられて技術を伝えたことに始まり、その朝鮮人陶工が窯場を開いた場所が、この涌田村だったと言われています。1682年に、各地に点在していた窯場を壺屋窯に統合するまでの間、涌田村は、窯業の中心として栄えました。

涌田古窯跡の出土品です。

「窯の大きさがわかりやすいように、隣りに立って。」と言われました。ここでも、「人間モノサシ」にされています。🤣🤣


これでようやく、
沖縄県立博物館の見学が終わりました。
長かった~。😭


沖縄県立博物館、ほんとに、内容充実です。
「せっかく沖縄に来たのに、
 雨が降って観光できない~。」
なんてときは、ぜひ、いらしてみてください。
ブログには書きませんでしたが、
琉装体験ができるコーナーとか、
お子様の体験コーナーとか、
お楽しみもありますよ。^^


(つづく)

台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 12 - 台風なら博物館⑤ 沖縄県立博物館 常設展示室(来訪神、御嶽、龕、厨子甕、墓、祝いの品々、糸満漁民)(2022年8月31日/6日め)

2022年8月31日 糸満漁民の舟「サバニ」です。北は千葉県、南は台湾まで、広大なエリアで漁を行いました。(沖縄県那覇市・沖縄県立博物館)


8月31日(水)


沖縄県立博物館 常設展示室を、
7つのカテゴリーに沿って、
順に見てきました。
次は、展示室のいちばん奥にある、
「沖縄の民族とくらし」という
民俗部門展示室を見学しました。
「民俗」とは、
世代を超えて受け継がれている生活文化
のことを言います。


下の図の、赤い丸で囲んだエリアです。

このエリアは、
 1.沖縄の民俗世界
 2.沖縄に生きる人々
 3.家のくらし
 4.変容する民俗

のカテゴリーに分かれています。
端から順に、すべてを見ましたが、
展示が多すぎて、全部を掲載しきれません。
なので、この項でも、
MIYOが特に心に残ったものを選んで、
ご紹介したいと思います。



1.沖縄の民俗世界


【訪ね来る神々】
沖縄では、海の彼方から神さまが訪れて恵みをもたらすと信じられています。その神さまは、毎年、祭りのときに仮面・仮装で登場し、人々と交流した後、再び帰っていきます。この神さまを来訪神といいます。また、お盆の日には、グソー(死後の世界)から死者の霊が訪れて、人々の歓待を受けます。
このコーナーでは、沖縄各地の来訪神、葬祭や墓について紹介しています。


石垣市登野城の「ミルク神」
豊年祭などの祭りに登場する来訪神です。八重山諸島を中心に、広く信仰されています。仏教の弥勒信仰と沖縄古来の信仰が混ざり合った、独特な風貌は、ユーモラスでもあります。その姿は、中国から伝来した布袋(ほてい)信仰の影響を受けています。

宮古島の博物館で見たパーントゥも、各家庭を訪ねる、来訪神でした。(2022年8月28日 宮古島市総合博物館)

御嶽(ウタキ)と神人(カミンチュ)
沖縄の村落には、御嶽と呼ばれる神聖な場所があります。これは、神様を祭る空間で、こんもりした杜(ムイ)になっています。御嶽の奥には、イビと呼ばれる特別な聖域があります。ここには、石(または樹木)と香炉が置かれているだけです。御嶽では、神様に祈りを捧げる女性たち(カミンチュ)によって、祭りが行われます。

龕(ガン)
葬列葬式のとき、棺を入れて運ぶ神輿(みこし)です。沖縄では、火葬が普及する以前、葬儀を終えた遺体を棺に納め、龕(ガン)に入れて、お墓まで運びました。龕(ガン)は、単に棺を運ぶ道具だったわけではなく、「集落を守護する力がある」と考えられていました。そのため、毎年旧暦8月9日に、ガンヤー(龕屋)にお供え物をし、祈りをささげていました。また、12年ごとに龕(ガン)を解体して修理を行ないますが、その際には、龕輿(ガンゴー)祭という盛大な祭りを行いました。

龕(ガン)の屋根には、金の鯱(しゃち)が向い合せになって両端に飾られています。この龕(ガン)を2本の横棒に載せ、前後4人(または8人)で担ぐようになっています。この豪華な龕(ガン)は、王家から民百姓に至るまで用いられました。沖縄では、戦後10年くらいまでは、龕(ガン)を用いて、お墓まで遺体を運んでいましたが、火葬が一般的になって、次第にその風習は見られなくなりました。

洗骨習俗と厨子甕(ずしがめ)
沖縄では、火葬が一般に広まるまで、風葬で死者を葬りました。(風葬とは、崖下や墓の中に遺体を仮置きして、自然に朽ち果てるのを待つ方法のことです。)数年後、白骨化した骨を洗い浄め、厨子甕に移します。この習俗を洗骨といい、朝鮮半島や琉球列島、中国南部に広く分布しています。納骨した厨子甕は、墓の中に安置して供養しました。

洗骨した遺骨を納めた、厨子甕です。

墓の構造
遺骨を入れた厨子甕は、墓に安置されました。下の写真は、亀甲墓の正面図です。沖縄の墓は、基本的に、屋根、墓室、墓庭の3つで構成されています。

仲宗根豊見親(なかそねとぅみゃ)の墓
これは、15世紀末から16世紀初頭にかけて、宮古島の支配者として君臨した、仲宗根豊見親(なかそねとぅみゃ)の墓です。墓には屋根、墓室、墓庭が作られていて、外観が上の構造図とまったく同じです。(2022年8月27日 沖縄県宮古島市)

そして、墓室の内部はこんなふうになっていました。

浦添ようどれ(13世紀に造られた英祖王の墓)。墓室の内部です。(2022年9月1日 沖縄県浦添市)


2.沖縄に生きる人々


沖縄で、人々の一生に登場する、
祝いの品々が展示されていました。


(写真左から)
カジマヤー祝いの風車:数え年97歳に、長寿の祝いで使う風車。沖縄では、この年齢になると子供に還ると言われることから、風車(カジマヤー)を持って集落内をオープンカー等でパレードします。
トゥシビー祝いの晴れ着:トゥシビーとは、沖縄県および奄美群島の一部で伝統的に行われてきた賀の祝いで、年中行事、人生儀礼の一つです。着物の柄には、松竹梅や亀が描かれました。
トーカチ祝いの斗掻(トガキ):数え88歳のお祝いで、本土の「米寿祝い」と同じですが、沖縄では米寿よりもトーカチ呼ぶ方が一般的です。親戚一同を招いて盛大にお祝いをしますが、その際、お祝いに来てくれた人に、トーカチ(もともとは升に盛ったお米の升切りに使っていた竹製の棒)を、お土産として配った事から由来しています。
結納料理:大きな菓子盛りが付くのが特徴です。


次は、糸満(いとまん)漁民のくらしです。


【糸満漁民】
沖縄本島の南端の糸満地区沿岸部(現・糸満市)を本拠地として、幅広い漁労活動に従事した漁民のことを言います。一般に、男は追込漁、女は漁行商に従事し、生計をたてていました。

糸満は、海人(うみんちゅ)の町として古くから漁業が盛んで、おおよそ近代まで、「サバニ」と呼ばれるくり舟に乗り、沖縄諸島や先島諸島、さらには奄美群島ほか南洋各地や日本本土にまで航海し、遠洋漁業を生業としていました。


糸満漁民が活躍した範囲。途方もない距離を航海していたことがわかります。

かつてのサバニは丸木舟で、マツやシイの一本の木をくりぬいて造りました。その後、森林保護のため、琉球王国がハギ舟を奨励しました。

ハギ舟です。厚いスギ板をつなぎ合わせて造りました。

糸満の男たちが獲った魚を売り歩くのは、女たちの仕事でした。これが、糸満の女たちのスタイルです。^^ 魚の入ったばーき(平笊)を頭上にのせ、糸満から那覇まで10キロ以上の距離を歩きました。売り歩くときの元気な掛け声は、糸満女性の代名詞となっています。

たくましい、女たち。

おばあだって、このとおり。

路上に並ぶ、魚売りの女性たち。子どもたちもお手伝い。^^

路上では、こんな風にお店を広げていました。お魚がエキゾチック~。^^

沖縄の魚は色とりどりで、見ているだけで楽しいです。^^

3日前、俺の天ぷらバルでいただいた「クロホシフエダイ(黒星笛鯛)とアボガドのカルパッチョ」も、沖縄のお魚でした。東京ではほとんど出回ることがない希少なお魚をいただけて、ラッキーでした。^^(2022年9月25日)

天ぷら大好き - 俺の天ぷらバルと俺のイタリアンをはしご酒(2022年9月25日) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


次回は、「家のくらし」というテーマで、
沖縄の家屋の中を見て行きます。


(つづく)

台風でも沖縄。台風11号と共に、宮古島と沖縄本島を楽しむ9日間 11 - 台風なら博物館④ 沖縄県立博物館 常設展示室(三線、脱清人、人頭税と移民)(2022年8月31日/6日め)

2022年8月27日 人頭税石の隣りに立ちました。琉球王国時代に、過酷な税を課された人々の苦しみは、この石に託して語り伝えられてきたそうです。(沖縄県宮古島市)


8月31日(水)


沖縄県立博物館・常設展示室で、
以下のカテゴリーの展示を見学しています。


 1.海で結ばれた人々/シマの自然とくらし
 2.貝塚のムラから琉球王国へ(自然史部門)
 3.王国の繁栄(考古部門)
 4.薩摩の琉球支配と王国(美術工芸部門)
 5.王国の滅亡
 6.沖縄の近代(歴史部門)
 7.戦後の沖縄(民族部門)


4.薩摩の琉球支配と王国(美術工芸部門)


前回の続きです。
ここからは、三線についての展示になります。


【三線】
琉球古典音楽や組踊の主要な楽器で、黒漆を塗った工芸品でもあります。棹(さお)の材料には琉球黒檀が使われています。その堅牢な棹材を直線や曲線に加工し、さらに、鳴り物としての良い音を求めて、胴内部にも複雑な細工を施す技術は、高度な手わざが求められます。


三線には、7種類の型があるそうです。一見、どれも同じように見えるのですが…、

横から見ると、型によって、棹の形状がそれぞれに異なっていることがわかります。

直富主の真壁型 附胴 胴銘「道乙酉 渡慶次作」
胴内に「道乙酉 渡慶次作」と墨で書かれています。道乙酉は1825年(道光5年)にあたります。棹と胴がそろって現存する三線としては、最も古いものです。徳之島の有力者である直富主が首里において籾30俵で求めたと伝えられ、代々子孫に受け継がれてきました。

三線の制作道具一式
4つの部材を組み合わせて三線胴の木枠を作り、上下にニシキヘビの皮を張って、「チーガ」と呼ばれる胴を製作します。ニシキヘビは沖縄に生息していないのですが、当初はタイから輸入していました。
(現在は、ワシントン条約によって輸入できなくなったので、代わりにビルマニシキヘビをベトナムから輸入しているそうです。)

婚礼酒宴の図(19世紀)
婚礼を祝って、歌い踊りあかす人々を描いた絵です。

右側の女性2人が持つ楽器は、蛇皮柄で描かれています。

近世になると、琉球・薩摩間では、琉球からの貢納品を運ぶ薩摩の大和船が行き交いました。また、18世紀初頭の琉球では、中国船の高性能な技術を駆使したマーラン船を使った民間船も登場し、海上交通を発展させました。


5.王国の滅亡


中国・日本という両大国との良好な関係を保ちながら、王国を維持してきた琉球ですが、19世紀に入ると矛盾が深まります。農村の疲弊や首里王府の財政難などが原因で、王国の経営が行き詰まってきました。さらに、アジア進出を目指す欧米諸国の外圧が琉球に押し寄せ、王国は危機的な状況に陥ります。


黒船ペリーは、5度も沖縄に上陸したそうです。


6.沖縄の近代(歴史部門)


1879年、明治政府による琉球処分が行われました。王国は消滅し、近代国家の一部として沖縄県が誕生しました。しかし、土地整理による土地所有権の確立や国勢参加は大きく遅れ、資本主義の経済体制や教育制度も大正時代に入ってようやく整いました。一方、日本による太平洋戦争の進捗とともに、沖縄も戦争体制に組み込まれていきます。1945年、沖縄では住民を巻き込んだ日米両軍による地上戦が行われ、23万余りの尊い人命が失われました。焦土と化した沖縄では、多くの貴重な文化財も焼失し、破壊されました。


不思議な写真に目が留まりました。
脱清人です。


1896年(明治29年)、明治初期の琉球処分に反対して清国に亡命し、清国に「琉球救援」を要請した人々。脱清人(だっしんにん)とも言われます。その多くは、旧支配層を中心とした上級士族でした。


【脱清人の末路】
欧米列強や周辺国に蚕食され続けていた清朝は、日本との紛争や戦争に対応する余力はほとんどありませんでした。脱清人は、その後も20年近くにわたって活動したものの、日本は確実に沖縄県の支配強化を進めていき、その長い月日の間に、脱清人も多くの指導者が病死したり、没落したりして、その影響力を減じていきました。

1894年に発生した日清戦争で、清国の敗北し、台湾が日本に割譲されました。このことによって、清国には琉球を救援する力が無いどころか、台湾すら守れなかったことが、清国からの救援を一縷の望みとし続けていた脱清人らにも明白な現実として突きつけられました。
最後まで活動を続けていた人々も、最終的には、日本に屈服するか、「日本の支配」を逃れるための脱清をするかの選択を迫られました。かくして、亡命した脱清人らは、中国大陸における歴史の大きなうねりの中で、次第に忘れ去られていきました。


上の写真では、
脱清人のほとんどが辮髪となっています。
清での長い滞在の結果なのでしょう。
脱清人が始まったのは1874年頃で、
1896年頃まで続いています。
気になるのは、清国で、20年もの長期間、
彼らの活動を支えた財源はなんだったのか、
ということです。


そこで思い出したのが、「人頭税」です。
琉球王国時代、「人頭税」というものがあり、
15歳から50歳までの民は、
生きているだけで課税されていました。


宮古島では、住宅街の中に、今も人頭税石が残されています。(2022年8月27日 沖縄県宮古島市)


【人頭税石】
人頭税の対象は15歳から50歳までとされていました。が、宮古島では戸籍が整っていなかったため、年齢ではなく身長が基準となりました。宮古島では、人頭税石というものが設置され、「石と同じ背の高さになると適齢に達したとみなされて課税された」と伝えられています。


人頭税石の隣りに立ってみました。これによると、MIYOも徴税対象になったようです。😅


年齢(15歳から50歳)ではなく、
身長で徴税を決めるというのは、
ひとたび石よりも背が高くなったら、
生きている限り徴税するということです。
恐ろしいですね…。


驚くことに、琉球王国から明治政府に支配が変わってからも、
この人頭税は続けられました。
男は粟、女は布を納めることとされ、
その過酷な税制と税の取り立てのために、
島の人々の衣食住は、
本州の乞食と変わらなかったそうです。


脱清人が活動していたのは1874年から1896年
そして人頭税は、
明治政府(1868年)以後も続けられ、
1893年から廃止運動が起こり、
1903年に、ようやく廃止されました。
脱清人が清で活動した時代と、
人頭税が存続し続けた時代が、
ほぼ、重なります。


このことから、清国内での脱清人の活動を
20年以上も支え続けた莫大な資金の財源は、
士族階級が人々から過酷に取り立て続けた
人頭税であったのだろうと、
私は推測しています。


琉球王国の士族階級が、
自分たちの特権を守り続けるために、
明治政府になってからも、
30年以上もの間、人々を苦しめ続けたわけです。
ひどい話です。


7.戦後の沖縄(民族部門)


沖縄から海外への移民は、
1899年(明治32年)のハワイ移民(27名)から、
本格的にスタートしました。
過酷な税制が敷かれる中、
当時の沖縄が非常に貧しかったことが
主な理由のようです。さらに、
 ・土地を自由に売却できるようになったこと
 ・移民会社・移民指導者の存在
 ・徴兵忌避
などの、当時の社会を取り巻く環境が、
海外への移住を後押ししたようです。


明治32年から昭和13年の移住者数は72134名で、
昭和15年当時の沖縄県の人口で割ってみると、
実に沖縄県民の約12%が移住した計算になります。


そして第二次世界大戦が終わると、
 ・先に移住していた家族等からの呼び寄せ
 ・琉球政府による移住政策の推進
により、戦後移民の歴史がスタートしていきます。


海外における沖縄県系人の人口分布図です。米国と南米に特に多いことがわかります。

沖縄県人会は、現在も、世界各地で活動しているそうです。

「世界のウチナーンチュ大会」もあるそうです。これは、沖縄にルーツをもつ海外の沖縄県系人を招待して開催されるイベントです。1990年に第1回が開催され、その後、ほぼ5年ごとに、沖縄県の主導のもと、継続して開催されています。目的は、沖縄にゆかりのある人々を結びつけた国際交流ネットワークを作り上げることだそうです。


【戦後の移民】
戦後、初めて移民が送られたのは、昭和23年のアルゼンチンへの33名及びペルーへの1名でした。以後、戦後の移民は増加していきます。移住先での暮らしは、とても過酷なものだったといいます。が、そのような状況の中においても、多くの人が、稼いだお金を沖縄の家族へ送金し、その家計を支えました。また、戦後焼け野原となった沖縄に、いち早く救援物資を送ったのも、彼らだったのです。


常設展示室の中の7つのカテゴリーを、
(これでもかなり割愛しながら、😅)
ざっくりとご紹介しました。


次回からは、「沖縄の伝統とくらし」について、
もう少しお話したいと思います。


(つづく)