MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

ベトナム・カンボジアを歩いた14日間 48 - アンコールトム① 南大門へ(2024年1月17日/6日め)

2024年1月17日 アンコールトム・南大門で。(カンボジア・シェムリアップ)


1月17日(日)- 6日め


激動のビルマ日記をようやく終了できて、
頭の中はまだビルマなのですが、笑
今日からは、
アンコールワットの連載を終えたところで、
中断していた旅日記の続きを、
のんびりと書いていきたいと思います。^^


と言うことで、今回からは、
「ベトナム・カンボジア旅日記」です。
これまでの日記はこちらです。
2024年1月 ベトナム・カンボジアを歩いた14日間


この続きになる、第48話は、
4時間余りにわたったアンコールワットの見学を
終えたところから始まります。


私たちが歩く道の外側に、あぜ道のような細い道があり、地元の方々はそちらを歩いていました。カンボジアの伝統スカーフであるクロマーが見えます。頭に巻いたり、肩にかけたりしているようすが、いかにもカンボジアらしくて、つい写真を撮りました。

アンコールワットの入退場口近くにあったトイレ。


2010年に家族で来たときは、
こんなにきれいなトイレはありませんでした。
あれから14年で、
ずいぶん整備されたと思います。


入退場口まで戻ってきました。


この場所で、
私たちをここまで連れてきてくれた、
イエップさんが待ってくれているはずです。


この日一日、私たちを乗せて走ってくれたトゥクトゥクと、ドライバーのイエップさんです。


イエップさんの姿を目で探していると、
すぐに彼が、どこからともなく現れました。
4時間以上も出かけたきりだったのに、
私たちが戻るとすぐに姿を見せる…。
タクシーやトゥクトゥクを貸し切りにすると、
たいていみなさん、こうなんですよね。
待ち合わせ場所に戻ると、
すぐに私たちを見つけて現れてくれるので、
待たされた記憶がありません。
いつも、すごいなあ、と思います。


お水を飲んで、アイスキャンデーを買ってひと休みしているうちに、イエップさんが、駐車場に置いてあったトゥクトゥクに乗って戻ってきました。お水は、前日のバスでもらったものですが、ラベルにはアンコールワットが描かれていました。


時刻は午後1時半。
アンコールワットで時間を忘れて歩きまわり、
まだお昼ごはんを食べていません。
なので、イエップさんに、
「次のスポットに行く前に、
 食事ができるところに
 連れて行ってください。」
とお願いしました。


トゥクトゥクに乗って、出発! 後ろの方にちんまりとアンコールワットが写っているのが、夫のこだわり。笑

イエップさんが連れて行ってくれたのは、観光客向けの小さなレストラン。「お水が冷えてる。」「氷がたくさん入ってる。」とうれし泣きしながら飲みました。ちなみに私たちは、東南アジアの氷でお腹をこわしたことはありません。笑

アンコールワットでゆっくりしすぎて、あまり時間がなかったので、簡単なものを注文し、さっさとすませることにしました。MIYOはエビチャーハン。

夫は、春雨スープ麺。


ふたりがそれぞれに食べたいものを選び、
どちらもシェアしながら食べるのが、
MIYO家流です。^^


20分でランチをすませ、トゥクトゥクに乗って再び走ります。

あっ 向こうの方に、なにか見えてきました。

アンコールトムの入口、南大門です。


【アンコールトム(Angkor Thom)】
アンコール遺跡群の1つで、アンコールワット寺院の北に位置する、巨大な城郭都市の遺跡です。約3キロメートル四方の京城であり、幅100メートルの堀と、ラテライトで作られた8メートルの高さの城壁で囲まれています。特に、中央に建つバイヨン (Bayon) 寺院が有名です。「アンコール」は、サンスクリット語のナガラ(都市)からでた言葉。また「トム」は、クメール語で「大きい」という意味です。「大きい都市」という名のアンコールトムは、周囲の遺跡とともに、1992年、「アンコール遺跡群」として、ユネスコの世界遺産に登録されました。


南大門で。


【南大門】
アンコールトムと外部とは、、南大門、北大門、西大門、死者の門、勝利の門の5つの城門でつながっています。各城門は塔になっていて、塔の四面(東西南北)に観世音菩薩の彫刻が施されています。また、門から堀の上にかかる橋の欄干には、乳海攪拌を模したナーガの石像が置かれており、このナーガを引っ張る阿修羅と神々の像もあります。 


まだアンコールトムの中に入っていないのですが、もうすでに、この時点で感動。^^

居並ぶ石像は阿修羅と神々たちで、左右それぞれ、54体ずつあります。全員で、ナーガを引っ張っています。

右側に並んでいるのは、阿修羅像。

トゥクトゥクを降り、橋の上を少し歩いてみました。

ナーガを先頭に、ずらりと並ぶ石像たち。右側にあるのは、神々の像です。

まさに、アンコールワットの乳海攪拌図のようです。

アンコールワットの乳海攪拌図の日記はこちらです。
ベトナム・カンボジアを歩いた14日間 34 - アンコールワット⑦ 第一回廊(天国と地獄、乳海攪拌)(2024年1月17日/6日め)

乳海攪拌図の神々と同じ、とんがり帽子をかぶっています。^^

南大門を背に、右と左に並ぶ、阿修羅と神々。

14年前の、同じ場所で。(2010年7月26日 長男と長女・14歳/中3)

14年前に見た、南大門。少し雨模様の日でしたが、雨に濡れた南大門はぐっと深みのある色合いになり、観世音菩薩の彫刻も、はっきりと見ることができました。(2010年7月26日)



さて、トゥクトゥクに戻りました。これから、あの門の下をくぐり抜けます。


次回は、アンコールトムを歩きます。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 35 - ストランドホテルの晩ごはんと軍票。そしてフォーさん、チーレィさんの思い出。(1987年5月8日-10日/8日め-10日め)

1987年5月2日 ラングーン駅で。(ビルマ・ラングーン)


最終話になります。
長い連載におつきあいくださり、どうもありがとうございました。


1987年5月8日(火)- 8日め


フォーさんといっしょに、
ラングーンのダウンタウンを歩いています。
旧最高裁判所のから、通りをさらに直進して、
ようやく、めざすストランドホテルに着きました。


現在のストランドホテルです。(画像をお借りしました)


【ストランドホテル(Strand Hotel)】
1901年に開業した、ビクトリア様式の名門ホテルです。シンガポールのラッフルズやペナン島のE&Oと同じく、サーキーズ(Sarkies)兄弟によって建てられ、サマセット・モームなど、多くの著名人に愛されてきました。正面に円柱が並ぶビクトリア様式の華麗な建築美はそのままに、内部は改装を重ね、高級ホテルとなりました。
第二次世界大戦中の1941年には、日本軍がホテルを接収し、ホテル内の一部を馬小屋として利用した時期もあったそうです。また、開業以来、ビルマ人はホテルを利用することができない時期が続きましたが、1945年以降になって、ようやく、ビルマ人が宿泊できるようになりました。
1993年の全面改装後は、全室スイートの最高級ブティックホテルとなりました。2017年にプールが増設されたあとも、その外観は保たれており、内部でも、チークと大理石の床、マホガニーの家具、天蓋付きのベッド、年代物のバスルームなどに歴史が偲ばれ、ヤンゴンを代表するホテルとなっています。(ヤンゴン市遺産リストに登録されました。)


「夕方6時に、ストランドホテルの
 ロビーで会いましょう。」
と、Sさん、Kさんと約束していました。


この日のお昼に、
Sさん、Kさんとランチをご一緒したとき、
「ストランドホテルって、知ってるよね?
 ビルマ最後の夜だし、
 あの有名なホテルに、
 泊まるのはちょっとムリだけど、
 せめてごはんくらい食べて、
 高級ホテルを見学するっていうのはどう?」
と提案したのは、もちろんMIYO。(アホ)


あのころは、みんな20代。
貧乏旅行ばかりしていたので、
ラングーンの最高級ホテルに泊まるなんて、
だれも想像もしていません。


「でも、ごはんくらいなら…。」
「雰囲気くらいは…。」
「建物も見てみたいし…。」


など、それぞれの思惑が一致し、
話は即決。
それぞれが、午後を好きなように過ごし、
夕方6時に、ストランドホテルで
再び集まろう、ということになりました。


この時、私と夫の頭の中には、
「会えるかどうかわからないけど、
 もしもこのあとで会えたら、
 夕食はフォーさんもいっしょに。
 今度は私たちがごちそうしなくては。」
という思いがありました。


なので、このあとシュエダゴン・パゴダで、
無事、フォーさんに会えたときに、
「今日は、夕食をご一緒してください。」
と、お願いしてありました。


ホテルの中に入ると、ちょうど、結婚披露宴が催されているところでした。ビルマ族の盛装をまとった、新郎新婦です。

参列している女性の衣装もすてきでした。


私たちが泊まることもできない高級ホテル。
そこで、豪華な結婚式を挙げられる人って、
どれくらいお金持ちなんだろう…。
なんて思いましたね。笑


こちらは、ビルマに到着した日に、たまたま見かけた結婚式。ビルマに住む華僑の結婚式のようでした。

ストランドホテルのレストランで。左から、Sさん、Kさん、夫、フォーさん。

いったいなにを食べたのか、まったく覚えていないのですが…。

テーブルの上をよく見ると、どうも西洋料理だったみたいです。😅

ちなみに現在は、ストランドホテルでディナーをいただくとこうなります。🤣🤣

カフェでは、英国式のハイティーが人気で、連日、欧米人でいっぱいだそうです。


私たちが食事したのは、
どちらのお店だったのでしょうね…。🙄
(どうでもいい情報ですが。笑)


5人での食事を終えたあと、
フォーさんは帰って行きました。
帰り際、フォーさんから、ビルマのお土産を
たくさんいただいてしまい、
またまた恐縮してしまいました…。


旅行中、私たちが買ったお土産は、
会社でばらまくための、
小さなお茶のパックくらいだったので、
フォーさんからいただいたお土産が、
いちばんりっぱなビルマ土産だったかも、です。


私たちが買ったお茶の包み紙です。ティーバッグ10個分くらいのお茶の葉が入っていて、1個3円くらいだったかと。(←そんな安いのをばらまいたのか?😅)


夫は、なんでもアルバムに貼っていたので、
ブログを書くのには助かりました。
その夫ですが、
「ビルマのスターのブロマイド」だの、
「チンロンの球」だの、
日本に持ち帰っても絶対に使わないモノを、
なぜか買ってしまうという病気なのは、
以前にも書きました。
ブロマイドを買った話。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 21 - 糸操り人形劇「ヨウッテー・ポエー」(1987年5月5日/5日め)
チンロン球を買った話。

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 22 - タウンジーを経てニャウンシュエへ。チンロンを見る。(1987年5月6日/6日め)


夫が買った、スターのブロマイドとチンロン球です。


でも、夫が買ったもののなかで、

いちばん笑えたものはこれだった、

と思うものがあり、最後に、

それについて書いておきたいと思います。


これがなんであるか、おわかりでしょうか…。


これは、第二次大戦中に、

日本政府がビルマで発行した紙幣で、

上から、

 10セント、1ルピー、5ルピー、10ルピー

です。

それぞれに、JAPANESE GOVERNMENT と、

印刷されています。


戦時中、日本軍は、現地で物資を調達し、

この「軍票」と呼ばれる紙幣で

代金を支払いました。

ですが、日本が敗戦すると同時に、

この紙幣は紙くずになってしまいます。

そのため、ビルマで、

物資の代金を軍票で受け取っていた人々は、

大きな被害を受けました。


ビルマを旅行中、夫と歩いていて、

なにげなく通り過ぎたお土産物屋さんで、

この「軍票」を置いてあるのを、

夫が見つけてしまいました。


代金として受け取ったつもりの軍票が

日本の敗戦時に紙くずになってしまい、

そのまま、捨てられることなく、

ビルマに残されていたようです。

その軍票が、流れ流れて、

お土産物屋さんで売られている、

…ということなのでしょうか。


「あっ オレ、これ買う!」

と、夫はいつものセリフを言いました。

「日本がばらまいて迷惑をかけたんだから、

 日本人として、

 これを見たからには買わなくちゃ。」

と…。


夫の気持ちはわかるけど、

お店には軍票が束で置いてあったし、

「あなたがここで、

 その中の何枚かを買ったところで、

 なにも解決しないよ。」

と、MIYOは思いました。


でもまあ、大した金額ではないし。

当時の夫は、とにかく、

「ビルマでしか買えないようなものは、

 なんでも買いたい。」

みたいなところがあったので、

ビルマの人々へのお詫び半分、

ビルマのコレクションを増やしたい気持ち半分、

…だったと思います。


帰国後、夫は、その軍票をアルバムに貼り、

今日に至るまで、大事に保管しています。

でもこの話には、後日談があります。


大戦中、日本軍はたしかに、

大量の軍票をビルマで発行し、使用しました。

そしてビルマから敗走するとき、

ばらまいた軍票を全部放置したのですが、

その軍票を作るための版下もまた、

そのまま、ビルマに残してきたそうです。

(もう必要ないですからね…。🙄)


おわかりでしょうか。

現在、ビルマのお土産物屋で売られている軍票は、

その、日本軍が残していった版下を使って、

ビルマ人がせっせと印刷したものなのです。😮


み「あなたはいったい、なにを買ったの?

  日本軍がばらまいた、軍票?

  それとも、

  ビルマ人が作った、子ども銀行券?💢」

夫「まんまとだまされたよなあ!

  あっはっは。」


…全然、反省の色はありません。😔


ストランドホテルで、知り合った女性と。ハワイから来たそうです。これが、この日の最後の写真になりました。


1987年5月9日(水)- 9日め


ビルマ最後の日です。

この日の朝のフライトでバンコクに戻り、

私たちのビルマ旅は終わりました。


ラングーン空港で。


このあと、バンコクで一泊し、

翌10日に日本に帰国するのですが、

私も夫も、

完全に抜け殻のようになっていたようで、

このあとの写真が、一枚もありません。

なので、旅日記としてはここで終わりますが、

その後のお話を、書いておきたいと思います。


この一年後、私たちは、

チーレィさんというビルマ人留学生から、

手紙を受け取ります。

「ビルマの日本語学校で、

 フォーさんと同級生でした。

 フォーさんからおふたりを紹介されました。」

と。

ほどなく、銀座で待ち合わせ、

いっしょに食事をしました。


チーレィさんは、留学生として来日しており、

新聞配達をしながら、勉強を続けました。

在学中に、中国人の同級生と結婚したあと、

東海大学を卒業しました。

日本では就職することなく、卒業と同時に、

グリーンカードを取得して、渡米。

未知の国に行き、仕事し、会社を経営して、

家族(妻と二人の子どもたち)を支えた彼は、

ビルマと中国から両親を呼び寄せ、

みんないっしょに、アメリカで暮らしました。

本当にりっぱだったと思います。


アメリカから日本に一時帰国したときのチーレィさんと。日本に来たときは必ず連絡してくれ、いっしょにごはんを食べました。チーレィさんとのご縁は、30年以上続きました。

このときの日記です。

ビルマの竪琴を、あなたと。~高田馬場 「ミンガラバー」で、ビルマ料理~(2018年4月15日)


「今、ガンで入院しています。」

というメールをもらったのは、2019年。

「私も、3年前に手術したばかりです。

 いっしょに生き延びましょう。」

と返信したのが、最後になりました。


そんなチーレィさんと私たちを結びつけてくれたのが、ラングーンで会った、フォーさんでした。


フォーさんは、

「いつか日本に行きたい。」

と願っていたのですが、かなわず、

その後、マレーシアに働きに行きます。

何年も一生懸命働いてお金を貯めたのですが、

詐欺に遭い、全てを失ったそうです。


2017年3月、チーレィさんはビルマに里帰りしました。そのときに、フォーさんと会ったそうです。いっしょに撮った写真をメールで送ってくれました。


メールには、

「誰だかわかる?」

と書いてありましたが、

ええ、もちろんわかりましたよ。^^


マレーシアですべてを失ったフォーさんは、

帰国し、お坊さんになったのだそうです。

いろんなものを越えて来たフォーさんの、

現在の穏やかな表情を見ていると、

37年前、いっしょに歩いた日のことが、

まるで夢のように思えてきます。


私たちとフォーさんを再びつないでくれた、

チーレィさんも、大切な友人でしたが、

今では帰らぬ人となりました。


私たちはこうして、いろんな人や物を

失くしながら、その痛みを抱えながら、

それでも、今を生きていくのだと思います。


私と夫は、そもそもどうしてビルマに行ったのか。

それは、1987年のはじめに、

馬来由貴さんの「みんがらばぁビルマ」を

読んだことがきっかけでした。

冒頭の、

「ビルマに行ってきました。

 あれから、いくら時間がたっても

 しみじとした何かが消えません。」

という文章に、今は深くうなずくばかりです。


私たちも、なのです。

37年もたったのに、今でも、

「しみじみとした何か」が、

胸の中にずっと残っているのです。

ビルマは本当に、そんな力がある国でした。


すばらしい国だった、ビルマ。

でも、いちばん忘れられないのは、

旅の途中で会った、たくさんの人々。


ラングーンからマンダレーへ。

パガンからニャウンシュエへ。

得度のお祝いにも闖入し…、

誰もが笑顔だった、あの日。

家にも招いていただきました。

ビルマはほんとうに、子どもが多かったなあ…。

家の前を通りがかっただけで、ごはんを食べさせてもらいました。笑

やさしかった、アウンおじいちゃん。


37年前、

こんなにものびやかな国があったことを、

これからも忘れられないと思います。


長い長いお話におつきあいくださり、ありがとうございました。


そういえば、

「このマンダレー駅、

 歴史のある、いい建物だったのに、

 全部取り壊されたんだよね。」

と、夫はいつも残念がっていました。


現在のマンダレー駅です。(画像をお借りしました)


でも先日、夫が言いました。

「駅舎が全部なくなったと思ってたけど、

 オレたちの後ろに写っていた、

 ロータリー部分だけは、

 現在の写真にも残ってるのがわかった。」

と…。


37年前の、1987年5月3日。

私たちは、このロータリーの前に、

立ってたんですね。

バックパックを背負って。


ってことは、道路のど真ん中に立ってたようです。

まあ、当時は自動車なんてほとんどなかったから、

轢かれる心配はありませんでしたが。笑


連載35回。

一日もお休みすることなく、

風邪をひいて、38度の熱が続いているときも、

実は書き続けていました。

書いているあいだはずっと、

もういちどビルマを旅しているような気がして、

たいへんだったけど、とても楽しい日々でした。


ありがとう、ビルマ。


(おわり)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 34 - ヤンゴン市庁舎、AYA銀行、エマニュエル・バプテスト教会、旧最高裁判所とラングーン駅(1987年5月8日/8日め)

1987年5月8日 AYA銀行の前で、フォーさんと。(ビルマ・ラングーン)


1987年5月8日(火)- 8日め


スーレーパゴダを後にし、
ストランドホテルへと、再び歩き始めました。


スーレーパゴダはダウンタウンの中心で、ロータリーになっており、そこから東西南北に道路が延びています。

そのロータリーで撮ったと思われる、一枚。


ビルマらしくない建物が、
ロータリーを囲むように並んでいます。
実はこのあたりは、
イギリス植民地時代に建てられた建築物が
数多く残っているエリアでした。
でもこの当時、
MIYOはそういうことに無頓着だったので、
あまりわからずに歩いています。😅


夫は、ヒンドゥー寺院だのパダウン族だのと、
興味の幅が広く、(←広すぎ)
関連する本などをやたらと読んでいます。
そしてなぜか、
「世界の文化」だの「民俗学」みたいなのは、
いちいち覚えています。
(MIYO家の「燃えないゴミの日」は、
 30年かけても覚えられないのに。🙄)


なので、このときもすぐに気がついて、
上の写真を撮っていました。
今さらですが、ブログを書くにあたって、
中央の美しい建物がなんであるか、
調べようとしたのですが、
これがなかなか見つからず、苦労しました。


これがロータリーにあったことすら
覚えていなかったので、
「ここはいったいどこだろう?」から始まり、
ラングーンの写真を半日かけて調べまくって、
ようやく発見。^^


「AYA銀行」でした。
2010年にミャンマー政府から認可された、
開発銀行だそうです。


現在の同じ建物。白く塗り変えられています。なかなか見つけられなかったのはこのためでした。😅(AYA Bankのサイトから画像をお借りしました)

真ん中の建物がAYA銀行であると判明したので、その両端もわかるはず。と、調べてみました。

上の写真の左端に少しだけ見えている尖塔を手がかりに探したところ、ヤンゴン市庁舎と判明。下の写真は現在の市庁舎です。尖塔の形がそっくりです。(画像をお借りしました)


【ヤンゴン市庁舎】
1936年に建てられました。ミャンマー最大の都市であるヤンゴンの市庁舎であり、市の行政機関であるヤンゴン市開発委員会の本拠地です。この建物の特徴は階段状の屋根で、pyatthatと呼ばれる伝統的な様式です。ヤンゴン中央鉄道駅も設計したビルマの建築家、ウーティン(U Tin)によって設計されたもので、ビルマのシンクロティック建築の好例と見なされています。


そしてAYA銀行の右にあるのは教会のようです。

現在のAYA銀行とエマニュエル・バプテスト教会。教会は、屋根に十字架が取り付けられてある以外は、ほとんど変わっていません。(画像をお借りしました)


【エマニュエル・バプテスト教会】
1885年、アメリカの宣教師によって建てられました。第二次世界大戦で破壊されましたが、1952年に再建されました。


ここまでわかると、地図上で、自分たちがどんなふうに歩いていたかが、はっきりと見えてきます。^^


37年前の写真に写っている建物を調べて、
地理も良くわかっていなかった自分たちが
当時歩いた道筋を、
写真を頼りにたどってみるというのは、
なにかとても楽しく、
わくわくするような作業でした。^^


次に、このAYA銀行と教会の間の道を入り、
交差点を右に曲がって、
さらに歩いたようです。


すると、道路の右手に、塔のようなものが見えてくるんですよね…。写真中央の赤いドームも気になります。

まず、上の写真の右に見えているのが、独立記念碑。マハバンドゥーラ公園の中にあります。これは現在の写真です。(画像をお借りしました)


【マハバンドゥーラ公園(Maha Bandula Garden)と独立記念碑】
公園の名は、第一次英緬戦争でイギリスと戦ったMaha Bandula将校に由来しています。この公園の中央に聳え立つのが、「独立記念碑(Independence Monument)」です。もともとこの場所には、英ビクトリア女王の彫像が置かれていました。が、それに代わるものとして、1948年のビルマ独立を記念して、この塔が建てられました。


そして、上の写真中央に見えていた、
「赤いドームのようなもの」は、
歩みを進めるごとに近づいてきました。


旧最高裁判所でした。

現在の、旧最高裁判所です。(画像をお借りしました)


【旧最高裁判所】
1911年に完成しました。ヤンゴンのコロニアル建築の中でも屈指の美しさを誇る、元最高裁判所です。イギリス人建築家による設計で、複雑でデザイン性に富んだクイーン・アン様式で建てられています。赤とクリーム色のクラシックな外装が美しい正面中央には時計塔がそびえ、両脇の台座には大英帝国のシンボルである獅子像が据えられています。
2006年のネーピドー遷都により、最高裁判所も新首都に移転しました。現在は、ヤンゴン地方裁判所として利用されています。


ここまで、スーレーパゴダからわずか550mの距離なのですが、夫がいちいち立ち止まって見入っているので、めざすストランドホテルにはなかなか行き着けないのでした。


このときのMIYOは、
ストランドホテルに行くことしか、
頭にありませんでした。
だから、同じものを見ていたのに、
大して気にもとめずに、歩いています。
自分に「受けとめる力」がなかったのだ、
と、今は思います。
「貴重な建築物を見る機会だったのに、
 惜しいことしたな。」
…と、今でこそ思いますが、
まあ、若い頃っていうのはこんなものですね。😓


ここで、今歩いているエリアについて、
最後にもう少し書いておきたいと思います。


ラングーンはかつて、
「東方のガーデンシティ」
と呼ばれたところでした。
そしてその中心だったのが、このエリアでした。


【東方のガーデンシティ】
イギリス統治下の19世紀中頃、ラングーンは、英国領ビルマの政治・商業の中心地として整備・開発されました。街には病院や大学、公園や鉄道が整備され、20世紀初頭には、都市インフラの充実度は当時のロンドンに並ぶほどに発展していたとも言われています。川や湖、南国の樹木が織りなす、自然豊かなラングーンの街には、伝統の木造建築と西洋建築が整然と立ち並び、その美しさから、「東方のガーデンシティ」と讃えられました。


ラングーンの中心部にあたる、
ダウンタウン一帯は、19世紀中頃に、
イギリスによって整備されたエリアです。
碁盤目状に延びる通りには、当時建てられた、
築100年を超えるコロニアル建築物が
現在も数多く残されています。
ラングーン(現在のヤンゴン)の歴史と文化を
今に伝える、貴重なエリアです。


私たちがかろうじて写真に撮っていたものを、
ここで掲載していきましたが、
ひとつだけ、漏れているものがあります。
私たちはそこに、3回も行ったのに、
写真を撮るのを忘れていました。


ラングーン駅です。


お借りした画像ですが、
ラングーンを代表するコロニアル建築として、
その写真を、最後に載せておきたいと思います。
現在は、ヤンゴン中央駅というそうです。


どうも、この大きな5本の柱の内側で、私たちはフィルムケースとか、売っていたような気がします。柱の間に車を停めているのも、37年前と変わらず。😅(以下2枚、画像をお借りしました)

このときの日記です。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 27 - 福祉冷水店とヤミ市(1987年5月8日/8日め)


【ヤンゴン中央駅】
1877年に、イギリス軍によって建設されました。第二次大戦中に日本軍に破壊されましたが、1947年に、現在の姿で再建されました。設計は、ヤンゴン市庁舎と同じく、ミャンマー人建築家ウーティンによるもので、英緬折衷様式の特徴である、多段式の屋根などが見どころです。


ここから始まった、ビルマの旅。

フォーさんに見送ってもらって出発。

その旅も、終わりに近づいていました。(画像をお借りしました)


次回は、最終話になります。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 33 - 聖三位一体大聖堂、パダウン族とスーレーパゴダ(1987年5月8日/8日め)

1987年5月8日 ボウタタウン・パゴダで、フォーさんと。(ビルマ・ラングーン)


1987年5月8日(火)- 8日め


ここまで、
 ラングーン駅
 シュエダゴン・パゴダ
 ボウタタウン・パゴダ
 スリ カリ アマン ヒンドゥー寺院
 チャウタッジーパゴダ
 ボージョーアウンサンマーケット
…と歩いてきました。


そろそろ約束の時間が近づいてきたので、
ここで市内観光を終え、
ストランドホテル
に向かうことにしました。


ボージョーアウンサンマーケットからストランドホテルまで、約30分の道のりを歩きました。地図を見ると、マーケットはラングーン駅のすぐ前にあり、次の目的地であるストランドホテルは、さきほど訪れたボウタタウン・パゴダの少し手前、ヤンゴン川のほとりにありました。


マーケットからストランドホテルまで、
何通りもの行き方がある、と
Google Mapは提案しているのですが、
フォーさんが選んだのは、
いちばん右側のルート。


当時私たちは、
「ストランドホテルに行きたいです。」
と言い、
ただフォーさんについて歩いただけで、
市内の地理はよくわかっていませんでした。
けれどフォーさんは、ダウンタウンの中でも、
「イギリス植民地時代に建てられた
 建築物が多く残る通り」
をわざと通ってくれていたことに、
37年もたって、今さら気がつきました。😓
(遅すぎるにもほどがある…。)


ボージョー・アウンサン・マーケットを出ると、聖三位一体大聖堂が見えました。

現在の、聖三位一体大聖堂。まるで別人のように美しくなりました。(画像をお借りしました)


【聖三位一体大聖堂(Holy Trinity Cathedral)】
ボージョーアウンサンマーケットのすぐ西隣りにある、イギリス国教会の大聖堂です。ラングーンでは、大多数が仏教徒の国ですが、少数民族を中心にキリスト教徒も多く、2大宗派として主にカトリックとイギリス国教会が信仰されています。
聖三位一体大聖堂は、高くそびえるタワーが特徴的で、すぐ隣りにあるショッピングモール(ジャンクションシティ)の一風堂(ミャンマー1号店)やロッテリアのテラス席から見ることができます。
*ジャンクションシティ(Junction City)は、2017年3月にオープンしたショッピングモールで、ボージョーアウンサンマーケットの真向かいにあります。


途中で画廊に入ったのは、店内にビルマの絵がたくさんあったから。MIYOの後ろにある絵は、シュエダゴンパゴダ。そしてそのとなりの絵は、首長族(パダウン族)。

この絵に描かれていた首長族の村をほんとうに訪ねたのは、それから3年後のことでした。タイ・メイホーンソンからトラックの荷台に乗って、山岳地帯を入りました。このときの写真は、1991年の年賀状になりました。(1990年5月4日 タイ・フアイスアタオ村)


【首長族(パダウン族/Padawn)】
村落内の選ばれた女性の首に、金色の真鍮リングを纏わせる民族のことです。男性は着用しません。自称する民族名称はカヤン
首長族と呼ばれるものの、正確には、首が伸びているのではありません。幼少時から徐々に真鍮コイルを増やしていく過程で、「コイルの上圧が下顎を平板化させ、下圧が鎖骨を沈下させている」のです。肩の位置が下がることによって、極端な撫で肩となります。この状態で真鍮リングを纏うと、首部が際立って見えることから、首長族と呼ばれるようになりました。つまり、「首は伸びていない」のです。
カヤン族への誤解のひとつに、「首輪を外すと頭部の重みに耐えられなくなり、首が折れて死んでしまう」という風説があります。これも、1979年、医学的に否定されました。なぜなら、身体には(首輪の装着によって)新しい筋肉が形成されているからです。


【カヤン族を利用した、タイの観光産業】
民族の起源はチベットと言われ、その後に中国雲南地域を経て現在のミャンマーに移住したと推測されていますが、文字を持たない文化であったため、確証を得る証拠は残っていません。ミャンマー連邦内では、カヤー州(旧カレンニー州)とシャン州に暮らし、ミャンマーからタイに移住した人々は、タイのメイホーンソン、チェンマイとチェンライの観光化された民族村に暮らしています。
タイのカヤン族は、もともとは、1980年代にミャンマー東部の内戦から逃れてきた少数民族でした。しかしタイ政府当局者らは、これをビジネスのチャンスだと考えました。彼らを、難民キャンプではなく、観光目的に新設された村に定住させたのです。村に連れて来られたカヤン族の女性たちには、ツアー会社から月200ドル相当の給料が支払われました。その一方、タイ人は、船の運行会社から土産品製造会社まで、観光産業で利益を得ました。このようにして、カヤン族は、人寄せとして長年利用されてきましたが、コロナ禍を経た現在は、観光客の減少とともに伝統存続の危機に瀕しています。
2008年1月、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は、タイの首長族観光が「人間動物園である」と批判しました。それに対してタイ政府は、「彼らは難民ではなく、正規の労働者である」と主張し、カヤン族が第三国へ出国するのを認めませんでした。人道主義を謳うUNHCRやNGOと観光産業を重視するタイ当局の間には、「カヤン族が難民か移住労働者か」という確執があることは確かです。しかし、いかなる結論になろうと、難民条約に加盟していないタイへの強制力はありません。
日本の識者の間でも、「難民を用いた非人道的な観光開発である」という批判的な意見が出ています。現在、争議の解決に向けてアメリカが乗り出しており、カヤンの一部には、「難民キャンプで仮滞在すること」を条件に、第三国での定住が認められつつあります。


いやはや…。
ブログを書きながら、ふと調べてみたら、
たいへんなことを知ってしまいました。😓


私たちは、当時、
「一日かけて、山岳少数民族の村を訪ねて歩く」
というトラックに申し込んだのです。
当時このエリアに、
個人で行くことはできなかったからです。


あの頃、この山岳地帯は
ゴールデントライアングルと呼ばれていました。
麻薬の原料となる、
ケシの花が栽培されているエリアだったので、
案内人なしに歩いていると、
「ケシ泥棒」とまちがわれ、
射殺される恐れがありました。


申し込んだトラックの乗客は、
私たちふたりとイギリス人男性の3人だけで、
一日かけて、いくつもの民族の村に
連れて行ってくれました。
とても楽しかったのですが、
最後に寄ったのが首長族の村で、
「ビルマの少数民族がなぜここにいるのか。」
ととても驚いた記憶があります。
が…。
こういう事情だったのですね。
まさか、観光用に造られた村だったとは、
想像もしていませんでした。


私たち、たいへんな村に行ってしまいました。
行ってよかったのか。
行くべきではなかったのか…。😔


ちなみに、コロナ禍で観光客が減少したせいか、
この「首長族の村」は、
現在、バンコクにも進出しています。


2023年11月、バンコクに9日間滞在しました。
このときの日記です。
MIYO'S WEBSITE - 4年ぶりのタイ。バンコクを歩き続けた9日間


上記の日記には書いていませんが、
ある日、バンコク市内を歩いているときに、
「首長族の村」の大きなパネルを見つけて、
ふたりしてとても驚きました。


コロナ禍で観光客が減少したため、
どうやら、タイ北部の観光村をたたみ、
カヤンの人々を連れてバンコクまで稼ぎに来た、
ということのようです。


彼ら(←だれ?)の経済に翻弄され、
流浪の民となりつつある、カヤン族の人々。
彼らが本当に望む生き方はなんなのか。
どうすれば、人として普通に生きていけるのか。
そんなことを、考えてこんでしまいました。


ちなみに。
首長族(Long-neck People)という呼称は
民族名ではなく、観光誘致において、
便宜上使用されている名称です。
イギリスに亡命したカヤン族の男性は、
自らの部族が「Long-neck People」ではなく
「Brass Coilling Tribe(真鍮巻部族)」と
呼ばれるべきであると主張しているそうです。


お話は、ラングーンに戻ります。


画廊で絵を見たあとは、手作りのカゴ屋さんへ。ひとつひとつが、どれもとてもかわいらしい。^^

お供え物を売るお店で。

映画館の前で。あっちこっちで引っかかりながら歩くのは、夫の得意技。🤣

おや、前方にパゴダが見えます。あれはもしかして…。

スーレーパゴダです!


【スーレーパゴダ】
ダウンタウンの中心部に位置し、街のランドマークとして親しまれている、黄金のパゴダです。2600年以上前の仏陀の時代に、シュエダゴンパゴダよりも先に建立されたと伝えられています。高さ約46mのこのパゴダを起点として、東西南北に大通りが延びているため、町歩きの目印になります。「スーレー」は聖髪を意味しており、内部にはブッダの聖髪が収められていると伝えられています。(ヤンゴン市歴史文化遺産)


「パゴダはもういいよね。」
…なんて、横着なことを言っていましたが、
ストランドホテルまで歩く途中にあり、^^
フォーさん、ちゃんと連れてきてくれました。


パゴダづくしだったビルマで、
最後に訪れたパゴダ。
それが、スーレーパゴダでした。


街の中心にあったんですね…。

現在の同じ場所。(画像をお借りしました)

青空に輝いていた、シカラ。

現在のシカラ。(画像をお借りしました)

入口を入ったところです。

どうやら後ろの像のマネをしているらしいのですが、ボケちゃったのでわかりません。🤣

1890年代のスーレーパゴダ。(画像をお借りしました)

現在のスーレーパゴダ。100年前も現在も、パゴダはいつでも街の中心でした。(画像をお借りしました)


ストランドホテルまで、あともう少しです。


いまここ。😄


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 32 - チャウタッジーパゴダとボージョーアウンサンマーケット(1987年5月8日/8日め)

1987年5月8日 チャウタッジーパゴダで、フォーさんと。(ビルマ・ラングーン)


1987年5月8日(火)- 8日め


早朝、ラングーン駅に到着したあと、
フォーさんといっしょに、
 シュエダゴン・パゴダ
 ボウタタウン・パゴダ
 スリ カリ アマン ヒンドゥー寺院
…と歩きました。


こんなふうに歩いたようです。この地図を見ていて、右上にショッピングモールがあることに気がつきました。あの、モノがなにもなかったラングーンに、今やショッピングモール。すげー。😮


③ボウタタウン・パゴダから
④スリ カリ アマン ヒンドゥー寺院まで、
今まで来た道を逆戻りしながら歩いています。
これは、ヒンドゥー寺院が目的地だったから、
ではなくて、このあたりに、
ピックアップトラックの乗り場があったからです。


ピックアップトラックには、
タウンジーやパガンなどの地方都市で
さんざん乗ってきたので、
再びこれに乗るのはうれしかったです。^^
(当時の)大都会だったラングーンでも、
人々の移動手段はやはり、
ピックアップトラックでした。
ところが。
これがまた、なかなか来ないのです。


ラングーンを観光できるのはこの日だけです。
ビルマ最後の日に、トラックを待って、
時間をムダにしたくなかったので、
タクシーに乗ることにしました。^^


夫がタクシーの中から撮った、ラングーン市内の写真。


「こんなヘンな写真、なぜ撮った?🙄」
と、ずっと思ってきました。
でもこの写真があったおかげで、
タクシーに乗ったことを思い出したので、
まあ、役にはたったのかな。🤣


タクシーは、ゆるゆるとした上り坂を走って行きました。このカーブをぐるりと回った丘の上に、めざすパゴダがあります。

同じ道路から見た、現在のラングーン市内です。高層ビルが、いくつも建設中。(画像をお借りしました)


そして、目的地である、
チャウタッジーパゴダに到着しました。


現在のチャウタッジーパゴダ入口です。(画像をお借りしました)


夫はなぜ、パゴダの外観を撮り忘れたか…。
それは、ここでいちばん重要で、見るべきものは、
パゴダではなく…、


この中にあるからなのです。これは現在の写真。当時はもっと素朴で、観光バスなんてもちろん停まっていませんでした。(画像をお借りしました)


【チャウタッジーパゴダ/Chauk Htat Gyi Pagoda】
1899年にポー・ター卿の庇護の下に建設されました。現在は、チャウタッジーの仏殿として知られています。見どころは、ヤンゴンで最大と言われる、巨大な涅槃仏です。全長約70m、高さ約17mで、優雅なほほ笑みを浮かべながら、肘枕で横たわっています。特徴は目で、その大きさは1.77m×0.58mもあります。どの角度から見ても優美な表情をしている、印象的な像です。
もうひとつの見どころは足です。ひときわ巨大な足の裏には、仏教の宇宙観を表す細かいレリーフが、黄金で精巧に描かれています。描かれているのは、108個の仏教宇宙観図絵で、仏門、宇宙、自然、動物などを見ることができます。


これがその、涅槃仏です。建物はなく、屋根だけがついている状態。まるで屋外ステージのようでした。

現在の涅槃仏です。37年前の方が、微笑みが柔らかい気がします。(画像をお借りしました)

こんなふうに全身を撮るのは、かなり難しかっただろうな、と…。(画像をお借りしました)

そして、お待たせしました。こちらが有名な、「足の裏」です。

現在の「足の裏」です。37年前の素朴なレリーフは、すべて、金で塗りまくられました。(画像をお借りしました)


ところで。
涅槃仏とはなんなのでしょう。🙄
調べてみました。


【涅槃仏(ねはんぶつ)】
釈迦が入滅する(亡くなる)様子を、仏像として表したものです。寝仏、寝釈迦像、涅槃像とも呼ばれ、主にタイの仏教寺院などで見ることができます。足の裏には、宇宙観を示す文様などが描かれています。
ほとんどの像容は、右手を枕とするか、もしくは頭を支える姿です。基本的には、頭は北向き、顔は西向きとされます。これが後に、一般の俗人が亡くなった時に「北枕」とされる由縁となりました。


なるほど…。
さんざん、あちこちの国で見て来たのに、
知りませんでした…。😓


再びタクシーに乗り、ダウンタウンに戻りました。このころは高い建物がないので、シュエダゴン・パゴダは、市内中心部ならどこにいても必ず見えました。^^


ビルマ観光と言えばパゴダ観光。
滞在中、寺院とパゴダばかり見てきたので、
正直言って、
「お寺はもうこれくらいでいいかな。」
と言う気持ちが、私にも夫にもありました。
残り時間が少なくなってきたので、
スーレーパゴダはパス。😅


「次はマーケットを見たいです。」
と、フォーさんにお願いしました。
Gougle Mapもロクな地図もなかった時代。
目的地までは、
現地の人に尋ねまくって歩いていたので、
移動には、手間も時間もかかりました。


けれどラングーンでは、
「**に行きたい。」
と言うだけで、
フォーさんが連れて行ってくれたので、
ほんとうに助かりました。


さて。ボージョーアウンサン市場です。これは現在の写真です。(画像をお借りしました)

建設後間もない頃と思われる、同じマーケットです。イギリス植民地時代に建てられたコロニアル建築で、正面中央にドームがあります。(画像をお借りしました)


【ボージョーアウンサンマーケット/Bogyoke Aung San Market】
イギリス植民地時代の1926年に建てられました。当時の名前は、スコットマーケット(Scott Market)でした。1940年代になり、イギリスからの独立の機運が高まり、「ビルマの公的機関はビルマの名であるべき」という主張の元、ミンガラーマーケット(Mingala Market)と名前を変えることが提案されました。ミンガラ-とは、「縁起が良い」と言う意味です。が、この提案は否決されました。
1948年、ビルマが独立を果たし、マーケットの名前は「ボージョーアウンサンマーケット」と変更されます。この後、建物はさらに増築されました。
この建物は、現在、「ヤンゴン保存遺産」に登録されています。


市場の名前ひとつにも、
ビルマの人々がくぐってきた、
様々な歴史がしのばれます。


マーケットの中です。これはロンジーの生地屋さん。値段を見ると、ひとつ30チャットくらいですね。マンダレー行きの夜行列車で買ったお弁当がひとつ8チャットだったので、だいたい、駅弁4個分ということでしょうか。日本の物価で言えば、4000円くらいにあたるかな?


海外では、現地の価格を見る時、
両替のレートはひとまず別にして、
「庶民の定食の何回分だろう?」
と考えて、
日本の価値に換算することが多いです。
夫からは、
「なんでも食べ物だな。あはは。」
と笑われますが、
案外、実態をついていることが多いんです。😄


「これは、現地の人々にとって、
 どれくらいの負担感になるのだろう。」
というのは、両替レートからは見えてきません。
ポイントは、
「この品物の値段で、地元の人々は、
 何回、ごはんが食べられるか。」
です。
MIYOは、いつも、そんなふうにして、
現地の価格を見ています。
(勝手な計算ですけどね。😅)


食べ物屋さんエリアに来ました。

男の子が給仕をしていました。ビルマは社会主義国なのに、当時は、たくさんの子どもが働いていました。

ジュースはガラス瓶で。冷蔵庫もありません。自家製の、わけのわからない飲み物も、けっこうありました。ものがほとんどなかったビルマ。これが、ラングーン最大の市場の、普通の風景でした。

そして、現在のボージョーアウンサンマーケット。


37年が過ぎたというのは、
こういうことなのだと、
そんな思いが、胸に沁みました。


いまここ。😄


(つづく)