MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 32 - チャウタッジーパゴダとボージョーアウンサンマーケット(1987年5月8日/8日め)

1987年5月8日 チャウタッジーパゴダで、フォーさんと。(ビルマ・ラングーン)


1987年5月8日(火)- 8日め


早朝、ラングーン駅に到着したあと、
フォーさんといっしょに、
 シュエダゴン・パゴダ
 ボウタタウン・パゴダ
 スリ カリ アマン ヒンドゥー寺院
…と歩きました。


こんなふうに歩いたようです。この地図を見ていて、右上にショッピングモールがあることに気がつきました。あの、モノがなにもなかったラングーンに、今やショッピングモール。すげー。😮


③ボウタタウン・パゴダから
④スリ カリ アマン ヒンドゥー寺院まで、
今まで来た道を逆戻りしながら歩いています。
これは、ヒンドゥー寺院が目的地だったから、
ではなくて、このあたりに、
ピックアップトラックの乗り場があったからです。


ピックアップトラックには、
タウンジーやパガンなどの地方都市で
さんざん乗ってきたので、
再びこれに乗るのはうれしかったです。^^
(当時の)大都会だったラングーンでも、
人々の移動手段はやはり、
ピックアップトラックでした。
ところが。
これがまた、なかなか来ないのです。


ラングーンを観光できるのはこの日だけです。
ビルマ最後の日に、トラックを待って、
時間をムダにしたくなかったので、
タクシーに乗ることにしました。^^


夫がタクシーの中から撮った、ラングーン市内の写真。


「こんなヘンな写真、なぜ撮った?🙄」
と、ずっと思ってきました。
でもこの写真があったおかげで、
タクシーに乗ったことを思い出したので、
まあ、役にはたったのかな。🤣


タクシーは、ゆるゆるとした上り坂を走って行きました。このカーブをぐるりと回った丘の上に、めざすパゴダがあります。

同じ道路から見た、現在のラングーン市内です。高層ビルが、いくつも建設中。(画像をお借りしました)


そして、目的地である、
チャウタッジーパゴダに到着しました。


現在のチャウタッジーパゴダ入口です。(画像をお借りしました)


夫はなぜ、パゴダの外観を撮り忘れたか…。
それは、ここでいちばん重要で、見るべきものは、
パゴダではなく…、


この中にあるからなのです。これは現在の写真。当時はもっと素朴で、観光バスなんてもちろん停まっていませんでした。(画像をお借りしました)


【チャウタッジーパゴダ/Chauk Htat Gyi Pagoda】
1899年にポー・ター卿の庇護の下に建設されました。現在は、チャウタッジーの仏殿として知られています。見どころは、ヤンゴンで最大と言われる、巨大な涅槃仏です。全長約70m、高さ約17mで、優雅なほほ笑みを浮かべながら、肘枕で横たわっています。特徴は目で、その大きさは1.77m×0.58mもあります。どの角度から見ても優美な表情をしている、印象的な像です。
もうひとつの見どころは足です。ひときわ巨大な足の裏には、仏教の宇宙観を表す細かいレリーフが、黄金で精巧に描かれています。描かれているのは、108個の仏教宇宙観図絵で、仏門、宇宙、自然、動物などを見ることができます。


これがその、涅槃仏です。建物はなく、屋根だけがついている状態。まるで屋外ステージのようでした。

現在の涅槃仏です。37年前の方が、微笑みが柔らかい気がします。(画像をお借りしました)

こんなふうに全身を撮るのは、かなり難しかっただろうな、と…。(画像をお借りしました)

そして、お待たせしました。こちらが有名な、「足の裏」です。

現在の「足の裏」です。37年前の素朴なレリーフは、すべて、金で塗りまくられました。(画像をお借りしました)


ところで。
涅槃仏とはなんなのでしょう。🙄
調べてみました。


【涅槃仏(ねはんぶつ)】
釈迦が入滅する(亡くなる)様子を、仏像として表したものです。寝仏、寝釈迦像、涅槃像とも呼ばれ、主にタイの仏教寺院などで見ることができます。足の裏には、宇宙観を示す文様などが描かれています。
ほとんどの像容は、右手を枕とするか、もしくは頭を支える姿です。基本的には、頭は北向き、顔は西向きとされます。これが後に、一般の俗人が亡くなった時に「北枕」とされる由縁となりました。


なるほど…。
さんざん、あちこちの国で見て来たのに、
知りませんでした…。😓


再びタクシーに乗り、ダウンタウンに戻りました。このころは高い建物がないので、シュエダゴン・パゴダは、市内中心部ならどこにいても必ず見えました。^^


ビルマ観光と言えばパゴダ観光。
滞在中、寺院とパゴダばかり見てきたので、
正直言って、
「お寺はもうこれくらいでいいかな。」
と言う気持ちが、私にも夫にもありました。
残り時間が少なくなってきたので、
スーレーパゴダはパス。😅


「次はマーケットを見たいです。」
と、フォーさんにお願いしました。
Gougle Mapもロクな地図もなかった時代。
目的地までは、
現地の人に尋ねまくって歩いていたので、
移動には、手間も時間もかかりました。


けれどラングーンでは、
「**に行きたい。」
と言うだけで、
フォーさんが連れて行ってくれたので、
ほんとうに助かりました。


さて。ボージョーアウンサン市場です。これは現在の写真です。(画像をお借りしました)

建設後間もない頃と思われる、同じマーケットです。イギリス植民地時代に建てられたコロニアル建築で、正面中央にドームがあります。(画像をお借りしました)


【ボージョーアウンサンマーケット/Bogyoke Aung San Market】
イギリス植民地時代の1926年に建てられました。当時の名前は、スコットマーケット(Scott Market)でした。1940年代になり、イギリスからの独立の機運が高まり、「ビルマの公的機関はビルマの名であるべき」という主張の元、ミンガラーマーケット(Mingala Market)と名前を変えることが提案されました。ミンガラ-とは、「縁起が良い」と言う意味です。が、この提案は否決されました。
1948年、ビルマが独立を果たし、マーケットの名前は「ボージョーアウンサンマーケット」と変更されます。この後、建物はさらに増築されました。
この建物は、現在、「ヤンゴン保存遺産」に登録されています。


市場の名前ひとつにも、
ビルマの人々がくぐってきた、
様々な歴史がしのばれます。


マーケットの中です。これはロンジーの生地屋さん。値段を見ると、ひとつ30チャットくらいですね。マンダレー行きの夜行列車で買ったお弁当がひとつ8チャットだったので、だいたい、駅弁4個分ということでしょうか。日本の物価で言えば、4000円くらいにあたるかな?


海外では、現地の価格を見る時、
両替のレートはひとまず別にして、
「庶民の定食の何回分だろう?」
と考えて、
日本の価値に換算することが多いです。
夫からは、
「なんでも食べ物だな。あはは。」
と笑われますが、
案外、実態をついていることが多いんです。😄


「これは、現地の人々にとって、
 どれくらいの負担感になるのだろう。」
というのは、両替レートからは見えてきません。
ポイントは、
「この品物の値段で、地元の人々は、
 何回、ごはんが食べられるか。」
です。
MIYOは、いつも、そんなふうにして、
現地の価格を見ています。
(勝手な計算ですけどね。😅)


食べ物屋さんエリアに来ました。

男の子が給仕をしていました。ビルマは社会主義国なのに、当時は、たくさんの子どもが働いていました。

ジュースはガラス瓶で。冷蔵庫もありません。自家製の、わけのわからない飲み物も、けっこうありました。ものがほとんどなかったビルマ。これが、ラングーン最大の市場の、普通の風景でした。

そして、現在のボージョーアウンサンマーケット。


37年が過ぎたというのは、
こういうことなのだと、
そんな思いが、胸に沁みました。


いまここ。😄


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 31 - スリ カリ アマン ヒンドゥー寺院とエーカンバラナータル寺院(1987年5月8日/8日め)

1987年5月8日 シュエダゴン・パゴダで、フォーさんと。(ビルマ・ラングーン)


1987年5月8日(火)- 8日め


シュエダゴン・パゴダで、
無事フォーさんと再会でき、
フォーさんに案内されて
ボウタタウン・パゴダに行った後、
次に私たちが見たのは、
スリ カリ アマン ヒンドゥー寺院
でした。


いえ、フォーさんが連れてってくれた
わけではありません。
フォーさんは仏教徒ですから。🙂
歩いていて、夫が勝手に見つけたのです。


【スリ カリ アマン ヒンドゥー寺院/Shri Kali Temple】
ラングーンのダウンタウンにある、ヒンズー教寺院です。「リトルインディア」と呼ばれるエリアに、1871年、タミル州からの移民によって建てられました。当時ビルマは、英領インドの一部であり、「ビルマ州」と呼ばれていました。
この寺院の見どころは、建物のカラフルな外観で、特に屋根には、多くのヒンドゥー教の神が、像や石の彫刻となって飾られています。寺院は、地元のインド人コミュニティによって、現在も保全管理されているそうです。


夫は最初、ピックアップトラックの写真を撮ろうとしていました。…が、その後ろに、不思議なものが見えるのに気づき、それをいっしょに撮ったため、主役だったはずのトラックが端っこに追いやられました。笑

MIYOが撮ってほしかったのは、ピックアップトラック。でも夫は、後ろの寺院が気になって仕方がない。…というヘンな構図の写真になりました。🤣


「あれ、どうみてもヒンドゥーの寺院だよ。
 なんでビルマに、
 ヒンドゥーのお寺があるのかなあ。😵」
とか言って、やたら気にしていました。
MIYOは、そんなん知らんがな、としか
思いませんでしたが。🙄
当時、ヒンドゥー教に興味がなかったし。
(今もあまりないですが。)


たしかにビルマは、人口の90%が仏教徒。
そんな国にヒンドゥー教の寺院があるのは、
かなりおかしい。
でも、それに瞬時に気が付く夫も、
かなりオカシイと思う…。🤣


現在のスリ カリ アマン ヒンドゥー寺院。きれ~~に、着色されています。そしてそれが、この寺院のウリになっているそうです。(以下2枚、画像をお借りしました)

まあ、こういうの、ビルマでは珍しいのでしょうね。インドではわりとフツーの光景ですが。笑


このブログを書いていて、
「そういえば、
 これと似たのを最近見たなあ。」
…と思い出し、写真を探してみたら、
ありました。
エーカンバラナータル寺院です。


どーーーーーん。高さ60mの、エーカンバラナータル寺院です。(2020年1月28日 インド・カーンチープラム)


【エーカンバラナータル寺院/Ekambaranathar Temple】
インド南部、タミルナドゥ州の都市カーンチープラムにあるヒンズー教寺院です。少なくとも西暦600年以来存在していたとされており、インドで最も古代の寺院の1つです。パラッバ朝時代(推定)の建立で、チョーラ朝、ビジャヤナガル朝時代に増改築され、南インド最大級の高さ約60メートルのゴープラム(塔門)が建てられました。シヴァ神を祀っており、カーンチープラム観光のハイライトと言えます。
*ゴープラム(タミル語: கோபுறம்)は、南インドのヒンドゥー教寺院に見られる塔門又は楼門建築のことです。宗教的には、聖俗を分かつ山門としての機能を有します。歴史的には、9世紀ごろチョーラ朝期から建てられはじめ、時代が下るほど高大なものが建てられるようになりました。その後、交易や人的交流によりドラヴィダ文化の影響を受けた東南アジアにまで広がりました。(だから、ビルマでも造られたんですね。😄)


ゴープラムを真下から見上げたところ。すごい迫力です。

この下をくぐって中に入ります。


たしかに、ゴープラムはすごいのですが、
それは観光客にとっての話。
ヒンドゥー教の人々にとっては、
これはただの塔門。
もっと大切な寺院は、その先にあります。


塔門をくぐると、その先に、寺院の広大な回廊が見えてきます。高速道路みたいですが、いえ、これが寺院なんです。屋根をびっしりと埋める装飾もすごい。

回廊の中です。とにかく広いです。

1400年以上前からあると思われる柱。こんなのが延々と続きます。

横に立っている男性は、ドライバー兼ガイドさん。チェンナイからカーンチープラムまで、車で1時間半くらいかかるので、アゴダで「専用車による1日ツアー」を申し込みました。ガイドは別になくてよかったのですが、セットについていました。笑

37年前は、ビルマでこんなでした。(1987年5月3日 マンダレー駅)

その33年後、南インドで。(2020年1月28日 カーンチープラム・エーカンバラナータル寺院)


なんか、いつまでたっても、
やってることがあまり変わりませんね…。😅


ああ、でも、ちょっと進歩したかも。
このときのインド旅では、格安航空券ではなく、
生まれて初めて、ANAマイルを使ったのです。
だからLCCではなく、ANA。
フルサービスキャリアですよ!^^
エコノミークラスでしたが、
機内食ではハーゲンダッツが出てきて、
夫と二人でうれし泣きしました。爆


ANAのチェンナイ就航記念で、
マイル半額キャンペーンをやっていたので、
つい勢いで、苦手なはずだったインドに
行ってしまいました。笑


そして、ITCグランドチョーラにご宿泊。マリオットの無料券を利用したので、プレミアムクラスのお部屋に無料で泊まれました。(画像をお借りしました)


つまり、航空券もホテルも無料。
この37年で、旅のオトク度には、
はるかに磨きがかかったと思います。爆


ビルマでは、バックパックでバンブーホテルに泊まったことを思えば…、


もうね、大出世ですよ。(自画自賛)
いちばん自慢したいのは、
全部タダってことなんですけど。(アホ)


ホテルの入り口にいたベルマンの男性。こんな人に迎えられたら、気分が上がりますよ~。😄 カメラを向けたら、ちゃんとポーズを決めてくださいました。

エントランスから続く、長い階段。

二つ合わせるとMIYOの背丈くらいある置き物。壺だけでなく、置き台も陶製です。そこらへんの調度品も、いちいちすごい。🤣

客室です。

ベッドの横にある扉を開けると、そこはお風呂。(なんのため?😮)

テーブルにはウェルカムティー。温かいチャイがポットで用意されていました。

クッキーといっしょに。カップのゾウさんがカワイイ。^^


こんな超高級ホテルに、
タダで泊まれるなんて…。
ふたりですっかり浮かれていました。😄


コロナが世界に蔓延する、直前の旅でした。
そして、最後の旅になりました。
このあと、実に3年以上にわたって、
海外旅行ができませんでしたね…。
(そのかわり、日本中を旅して歩きましたが。)


話が脱線してインドに行ってしまいましたが、
あまり長々書いていると、多動夫から、
「もしかして、
 またインドに行きたくなったかな~?
 いつでもオッケーだよ♪」
とか言われそうなので、
次回はビルマに戻ります。(スミマセン)


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 30 - シュエダゴン・パゴダとボウタタウン・パゴダ(1987年5月8日/8日め)

1987年5月8日 シュエダゴン・パゴダで、フォーさんと。(ビルマ・ラングーン)


1987年5月8日(火)- 8日め


シュエダゴン・パゴダに来ています。
あの、携帯もメールもない時代に、
ラングーンで6日後にまた会えたというのは、
奇跡に近かったのではないか、と思います。


全国からお参りに来た人々が行きかう、シュエダゴン・パゴダ。こんなところでよく会えたものです。^^

MIYOが撮った夫の写真。

夫が撮った、MIYOの写真。夫はやっぱり、写真がヘタだと思う…。😞


夫は多動なので、シャッターを押した次の瞬間、
待っていられなくて、
カメラをしまっていたみたいです。😞
それでボケ写真が多い…と判明したのは、
スマホを持つようになってから。


いちばんひどかったのは、2019年8月の、
私の退職記念ディナーの写真。
もうひどいものでした…。😓
まるで心霊写真かと思うほど、
すべての写真がデフォルメされていて、
不気味。
せっかくの記念日の写真でしたが、
ほとんどを捨てざるを得ませんでした。
そのときにようやく、
「スマホのシャッターを押した瞬間に
 そのスマホをテーブルに置く」
という、夫の不思議な行動に気づきました。


「シャッターを押したら、
 スマホの処理が終わるまで、
 動かないでじっとしてなさい!」
と言い聞かせてから、
夫の不気味心霊写真はなくなりました。
(世話がやけます。)


せっかくのいい構成なのですが、ぼけて台無しです。😔

フォーさんと。

いたるところに、祈る人々がいました。

夫は相変わらず、龍のマネとかアホなことをやってます。😔


み「また! そんなアホなことやって!」
夫「アホなことしかしません!」
これが、最近の通常の会話になってきたなあ…。



3人でシュエダゴン・パゴダを
ひと通り歩いた後、
フォーさんの案内で次のスポットに
行くことになりました。


再び、ピックアップトラックに揺られて、
向かったのは、
ここから9キロ余りのところにある、
ボウタタウン・パゴダでした。


ボウタタウン・パゴダです。横に停まっている車がすばらしい。^^


【ボウタタウン・パゴダ(Pagoda Botahtaung)】
ヤンゴンのダウンタウン、ヤンゴン川の近くにある有名な寺院で、ボウタタウンとは、「1000人の将校」という意味です。建設されたのは2500年以上前で、シュエダゴン・パゴダと同じ頃に、モン族によって建立されました。パゴダの内部には、仏陀の毛髪が置かれているとされています。第二次世界大戦のときに破壊されましたが、戦後、再建されました。


その後のボウタタウン・パゴダです。(以下3枚、画像をお借りしました)

現在のボウタタウン・パゴダ。でかいコブラは取り払われ、すっきりしました。

パゴダを反対側から見たところです。


フォーさんといっしょのラングーン市内観光は、
もう少し続きます。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 29 - シュエダゴン・パゴダで、フォーさんと。(1987年5月8日/8日め)

1987年5月8日 シュエダゴン・パゴダで、フォーさんと。(ビルマ・ラングーン)


1987年5月8日(火)- 8日め


Kさん、Sさんと食事を終え、
ここでいったんお別れしました。
私たちには、ラングーンで、
会わなければならない人がいました。
それは、フォーさんです。


覚えておいででしょうか。
初めてビルマに着いて、
ラングーン市内をウロウロしているとき、
私たちに日本語で話しかけて、
ビルマ料理をごちそうしてくれた男性を。


そのときの日記です。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 1 - バンコクからラングーン、そしてマンダレーへ。(1987年5月1日-2日/1日め-2日め)

駅のホームで見送ってくれたフォーさんと、「6日後、ラングーンに戻ったらまた会いましょう。」と約束しました。


今日は、その「6日後」です。
でも、携帯もメールもない時代。
そのうえ、先のことはわからない、
気ままな二人旅でした。
何時にどうやって、
ラングーンのどこに戻ってくるのかも
決まっていなかった私たちは、フォーさんと
どうやって会えばいいのでしょうか…。


フォーさんは私たちに、こう言い残しました。
「駅から近い**公園に売店があります。
 待ち合わせの場所を紙に書いて、
 売店の人に渡してください。
 ボクは、毎日公園に行って、
 メモがあるかどうかを尋ねます。」


えーっ😮
そんなアバウトな…。😅😅
でも当時はそれしか、
連絡を取る方法がありませんでした。


ラングーンで、Sさん、Kさんと食事し、
お別れした後に向かったのは、その**公園。笑
夫と相談し、半信半疑で、
「私たちはシュエダゴンパゴダにいます。」
と書いたメモを、売店の人に渡しました。


このあと、どうやって移動したのか、全然覚えていません。でもどうやら、シュエダゴンパゴダまで歩いていったようです。2.5キロくらいあるんですけどね。^^


【シュエダゴンパゴダパゴダ】
ラングーン(現在のヤンゴン)観光と言えば、パゴダ観光は絶対にはずせません。なかでもシュエダゴンパゴダはビルマ最大の聖地で、黄金の光を放つ仏塔(パゴダ)は、ローカルも外国人も一度は必ず参拝する超有名スポットです。
シュエダゴンパゴダは、ヤンゴンの中心から1キロほど北、小高い丘の上に、シュエダゴンパゴダが望めます。ミャンマー仏教の聖地として、古くからこの国の人々に守り崇められてきました。中でも黄金に光り輝くパゴダは、歴代の王を始めとする人々の寄進により、まばゆいばかりにきらめき続けています。パゴダの頂部は、5,448のダイヤモンド、2,317のルビー、サファイア、および他の宝石、1,065の金色のベルで装飾されていて、そのトップには76カラットのダイヤモンドが飾られているのだそうです。たくさんの宝石が飾られているのは、人々のパゴダへの深い信仰心の現れです。日中は陽の光に照らされて、パゴダはきらびやかに輝きます。ラングーンでは必見のスポットです。


入口で、外国人はシュエダゴン・パゴダの入場料を支払います。当時いくらだったか覚えていませんが、現在は8ドルくらいのようです。当時のチケットは、色画用紙にガリ版刷りしたようなものでした。今見返すと、入場するときにパンチされたあとが残っていました。^^

パゴダの入口で裸足になって、大理石でできた冷たい床の上をペタペタと歩きました。^^ 目の前にそびえる、巨大なパゴダ。

パゴダの左側。

パゴダの右側。


「ビルマ最大の聖地」だけあって、
全国からお参りに来た大勢の人々が、
パゴダの中を行きかっていました。
「こんなに広くて、大勢の人がいるのに、
 フォーさんと会えるのかな…?
 ほかの場所の方がよかったかも。」
と、MIYOが言ったときです。


「いたよ。」と夫が言いました。見るとそこには、私たちを探しに来たフォーさんの後ろ姿がありました。


「フォーさあああん!
 フォーさあああん!」


夫とふたり、精一杯の声を出して、
フォーさんの名前を呼びました。
フォーさんが振り向いて、
こちらに向かって歩いてきます。


フォーさんに、会えました…。


「6日後、ラングーンに戻ってきたら、
 また会いましょう。」


と約束したけれど、
通信手段の乏しい頃だったので、
本当に会えるかどうかは、
心もとない気持ちでした。


でもフォーさんは、私たちが預けたメモを見て、
ほどなく、ここまで来てくれました。
きっと、
「ボクにメモは来てない?」
と、公園の売店に、
毎日、行ったんだろうなあ…。
もしかしたら、一日に何度も。


フォーさんに会えた。
本当に会えた。
うれしくて、涙が出そうでした。


フォーさんといっしょに、シュエダゴン・パゴダを見上げました。

青空の下、燦然と輝いていた、シュエダゴンパゴダ。

当時夫が買った絵葉書の、シュエダゴン・パゴダ。

そして現在の、シュエダゴン・パゴダ。(画像をお借りしました)


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 28 - 4人でランチ(1987年5月8日/8日め)

1987年5月8日 シュエダゴンパゴダで、フォーさんと。(ビルマ・ラングーン)


1987年5月8日(火)- 8日め


早朝、ラングーンに着いて、
駅の周りを散歩しながら、
商売までしてしまった、私たち。笑


そろそろお昼近くになったので、
駅に戻りました。
駅で、ふたりの人と
待ち合わせをしていたのです。


話は、前日の夜に戻ります。
出発時刻を過ぎても一向に来ない列車を、
線路際で、ただじっと待っていたときです。
あたりをウロウロしていた夫が戻って来て、
「日本の人がいたよ。」
と…。


「ウソ。
 なんでこんなところに、日本人がいるの?」
(↑自分もいるだろうが。🤣)
とか言いながら、夫のあとをついていくと、
そこに立っていた人は、ビルマ人。🤣


…と思いましたよ。
だって、真っ暗だから顔はほとんどわからないし、
長身の彼は、ロンジーをさらっと着こなして、
どう見てもビルマ人。


でも、口を開けば日本人でした。爆


横浜から来たという、Sさん。
私たちと同じように、7日間のビザを取り、
GWと休暇を利用してビルマに来たそうです。
ビルマに着いた日も、日本に帰る日も、
私たちと同じ。
(お互いサラリーマンだからね。^^)


「それであの…。
 荷物は? バックパックは?」
と尋ねると、
「あ、荷物、これだけです。」


そのとき彼が手に持っていたのは、
小学生の上履き入れくらいの大きさの、
巾着袋。


「はい…?
 これだけですか?😮」
「なにも持たないで旅行するのが好きなので。」


袋の中にあるのは、
シャツ、下着、歯磨き粉と歯ブラシとか、
そんなものだそうです。


「着替えのズボンは?」
「ないです。かさばるから。」


汚れたな、と思ったら、
どこかの宿に泊まった時、
夜寝る前にシャワーのついでにズボンも洗って、
干しておく。
翌朝、乾いてなくてもそれを履く…のだそうです。


「だって、暑い国なら平気だろうけど、
 そうでない国だと、困るよね?」
「ゔ~! 寒い寒い!
 とか言いながら履いてます。😄」


この人、大丈夫だろうか、と思いました。
が、話がとてもおもしろくて、
人柄がいいのはすぐにわかりました。^^


「巾着袋」ひとつで旅行する彼のスタイルには
とても驚きましたが、
あちこちで逸話が残っているそうです。


例えば、空港で。
巾着袋一つで入国しようとすると、
「ちょっと待て。荷物、受け取ってないだろ。
 あっちのターンテーブルに残ってるはずだから、
 取ってきなさい。」
と、親切に足止めされること、多数。🤣


巾着袋ひとつのSさんも驚きでしたが、
もっとすごい人を、MIYOは知っています。
その人は、なんと、
手ぶら
です。


「海外旅行なんて、
 パスポートひとつあればいい。」
と思ってるようで、
パスポートとお金しか持たない。
まあ、究極、そのとおりなんですけどね。笑


その人、Yさんは、
「『地球の歩き方』の原稿を書きませんか?」
と、大学生だったMIYOに
声をかけてくれた人でした。


「Yさん、手ぶらなんですか?
 歯ブラシも持たないの?」
と、同僚に訊くと、
「歯は磨かないんじゃない?」
なんて笑わせてくれましたが。
よく考えると、
歯ブラシなんてホテルに置いてあるから、
持っていなくてもいいのかも。


話は、タジーで会ったSさんに戻ります。
そのSさんは、そのとき、
「ビルマ旅行中に知り合った」
というKさん(日本人)を待っていました。
「彼もこの列車に乗ると言ってたから、
 たぶん来ると思うんですけど。」
と言いながら、
暗闇の中、Kさんの姿を探していました。
今と違って、携帯もメールもありません。
旅先では、
通りすがりの人と交わした口約束がすべてで、
それだけを頼りに、誰もが動いていました。


「会えるといいですね。」
と言いながら、その場はお別れしたのですが、
ラングーンに着いてホームに降りると、
SさんとKさんがいました。
無事に会えたようです。^^


ひとり旅をしている、日本人がふたりと、
夫婦旅をしている、私たちふたり。
外国人がほとんどいなかったころですから、
4人もの日本人がホームに集まるというのは、
かなり珍しいことでした。


「せっかくだから、お昼ごはんでも、
 いっしょに食べましょう。」


…ということになり、
お昼の12時に再び駅で会う約束をして
その場は別れたのです。


お昼になり、
約束していた場所に行ってみると、
ふたりはもう先に着いていました。
そのまま、駅の近くのレストランで
食事したように思うのですが、
なにを食べたのか、全然覚えていません。


ただ、4人とも、この5日間、
「村の食堂」みたいなところで
食べたり食べなかったりの生活だったので、
なにを食べても、今までと違い過ぎて、
「これは現実なのだろうか」
と思えてしまい、
戸惑いながらの食事だったような気がします。


左から、Kさん、夫、Sさん。


このあとタイに戻ってからも、
Sさんと再会し、
いっしょにバンコクの町を歩き、
水上バスにも乗ったように記憶しています。
このときのことがきっかけとなり、
Sさんとは今でも、おつきあいが続いています。


結婚式にもお招きいただいたし、
MIYO家にも、
なんども遊びに来てもらっています。
ビルマでいただいた、大切なご縁になりました。


ああ、そうそう。
このブログを書くにあたって、
Sさんに掲載の了解をいただきたく、
お電話しました。
そのときの会話です。


み「ああ、ところでSさん。
  ビルマではどこに行ったんだっけ?
  ラングーンに着いてからどうしたの?」
S「あ、パガンですよ。
  パガンがおもしろそうだと聞いたので。
  5日間ずっと、パガンにいました。」


へ? パガンだけだった? 5日間も?😮


S「パガンで毎日、
  パゴダをぶらぶら散歩して、
  そこで出会ったお姉ちゃんに、
  日本語教えて遊んでました。😄」


いい旅、してるなあ…。


「さすが、私のあこがれ、Sさん。
 やってることが違うわ。
 5日間で、ラングーンからマンダレー、
 ニャウンシュエで舟にまで乗るなんて。
 そんな計画するのは、あなただけよ!」
と言っても、夫はわっはっはと笑うだけ。


「いいんだよ。
 人それぞれ。
 オレは、ああいう旅がしたかったんだから。
 あなたも楽しかったでしょ?」


まあ、そうなんだけどね…。😓


(つづく)