MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 24 - 水上に暮らす人々と足漕ぎ舟、そしてアウンおじいちゃん(1987年5月7日/7日め)

1987年5月7日 アウンおじいちゃんといっしょに、舟に乗りました。(ビルマ・ニャウンシュエ)


1987年5月7日(火)- 7日め


ニャウンシュエでたまたま出会った
アウンおじいちゃんの引率で、
小舟に乗り、インレー湖近くの水路を
進んでいます。


水路はとても長く、こんな広いところもありました。何艘もの小舟が通っています。この水路は、ここで水上生活をするインダー族の人々にとって、水路は道路と同じで、市場や学校、病院など、どこへ行くにも舟を利用します。

インダー族の人の住まいです。水の上に、高床式で建てられます。うーん、このときに私たちが泊まっていたゲストハウスみたいです。笑

家の前で、洗濯をするおばあさん。奥の方に、別の家も見えます。

家の前にあるのは、魚を獲るための仕掛けでしょうか。

一面の花の向こうに、家が見えました。やはり高床式です。


水上に建つ一軒の家の前を、
通り過ぎようとしたときです。
家の中から、ひとりの女性が出てきて、
おじいちゃんとなにかを話し始めました。


そのあと、おじいちゃんが私たちに、
通訳してくれました。
「中に入って、ごはんを食べて行かないか、
 と言っています。」


はい…?


中に入る?
ごはんを食べる?
なぜ…?😮


目が点になっていると、
おじいちゃんは続けました。


「この家は、最近建てたばかりで、
 今日はお祝いをしています。
 お祝いの日に家の前を通った人は、
 みんな、ごはんを食べさせてもらえます。


ええええええええ。😮


びっくりしました。
家の前を通っただけなのに、
ゴハンまでいただけると…。🤣
でも、インダー族の方の家の中を見たかったし、
どんなごはんなのかも、見てみたい。


「入りたいですか?」
「はい!!!」


…ということで、その方の家の前に舟を寄せ、
家の中に入れていただきました。


お家の中です。日本と同じで、靴を脱いで上がりました。MIYOの隣りにいるのは、この家のご主人と娘さんです。テーブルの上には、たくさん、ごちそうが並んでいて、「食べろ、食べろ」と…。笑


このときに、話に聞いていた名物料理の、
「お茶の葉の佃煮」
を、食べることができました。😄


お祝いに集まった、たくさんの人々と。夫の後ろにおられるのが、この家の奥様とそのお母さん。

写真に入りきらないのですが、実は周りにまだまだたくさんいらっしゃいます。笑

若い女性のみなさんと子どもたち。この家が水上に建っているなんて、写真を見ただけではわかりませんね。^^

おじいちゃんが通訳してくださるので、みなさんと会話ができました。なごやかで、楽しいひとときでした。


家に入れていただいて、
ごはんまでいただいたのに、
突然のことだったので手土産もなく、
なんのお礼もできませんでした。


でも帰国してから、このときの写真を、
人数分、焼き増しして、
おじいちゃんに送りました。
せめてもの、お礼のつもり。^^
おじいちゃん、みなさんに、
写真を届けてくれているといいな…。😄


さて。
夫には、「インレー湖でぜひ見たい。」
と思っていたものがありました。


「インレー湖には、
 足で舟を漕ぐ人たちがいるんだって。
 それを見たいんだけどなあ。
 どこかに、足で漕いでる人、いないかなあ。」
と言いながら、
夫は、前方の彼方に目をこらしています。


「そんな珍しいものが、
 つごうよく見られるわけないじゃない。」
と、MIYOは思っていたのですが。


きょろきょろしていた夫が、
ふっと後ろをふりかえったときです。


「あっ いた!!」


え?


「この舟の船頭さんが、足で漕いでる…。」


うわ~。ほんとだ…。😮

灯台、もと暗し。探している人は、こんな近くにいました。笑

これぞ、インダー族のみなさんの、足漕ぎ航法。笑


どうして足で漕ぐのか、というと、
足で漕ぐ方が楽だから、とか、
両手があくから漁がしやすい、とか
たぶん、そんな理由じゃないかと…。
でも、片足で立った状態で、
これをやり続けるというのは、
すごい筋力とバランス感覚だと思います。


びっくりしていたら、前方に、別の小舟が見えました。あはは。この方も、やっぱり足で漕いでました。😄

見たいと思っていたものが見られて、うれしそうな夫。

水上に建つ家々が増えてきました。陸地が近づいてきたようです。

私たちを見て、子どもたちが駆け寄ってきました。手を振ってくれています。^^


こうして、約3時間ほどの、
水路遊覧が終わりました。
インレー湖には行けなかったけど、
水上に住む人々の家や暮らしに
触れることができ、思っていたよりもずっと、
充実した時間になりました。


「この舟に乗れてよかった。
 インレー湖に行くよりも
 むしろずっと楽しかった…。」
と、夫が言いました。


舟を降りて、おじいちゃんの家で休憩しました。おじいちゃんそっくりの息子さんと奥様そっくりの娘さん、そして小さなお孫さんといっしょに。


ここで、お礼の品をお渡ししました。
前夜、バックパックの中を総点検。
ふたりで話し合って、
「なくても困らないものは、
 とにかく全部さしあげていく。」
と決めたので、衣類だけでなく、
タオル、ハンカチ、ポーチとか、
かなりの持ち物を袋に詰めて、
おじいちゃんにプレゼント。


「それから、こちらは、洗っていません。
 ごめんなさい…。」
と、帰国してから洗う予定だったTシャツも、
袋にまとめて、恐縮しながらお渡ししました。
でも、おじいちゃんは、
喜んで受け取ってくれました。


おじいちゃんはどうして、
Tシャツが欲しかったのか…。
あとになって気がつきました。
それは自分のためではなく、きっと、
息子さんや娘さんに着せたかったから。🙂


ありったけのものをすべて差し上げたので、
私も夫も、バックパックの中が、
スカスカになりました。
いろんなものがなくなって、
軽くなったバックパックを背負って、
このあとも、旅は続きます。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 23 - バンブーホテルとアウンおじいちゃん(1987年5月6日-7日/6日め-7日め)

1987年5月7日 アウンおじいちゃんといっしょに。(ビルマ・ニャウンシュエ)


1987年5月6日(火)- 6日め


パガンからトラックに乗って、
一日がかりでニャウンシュエまで来たのに、
「インレー湖を遊覧する船はない。」
とわかって、
途方に暮れてしまった私たちです。


翌7日の午後には、
ニャウンシュエを出発しなければなりません。
まずはタジーまで行き、そこで夜行列車に乗り、
8日の朝にラングーンに到着。
9日の朝のフライトでタイ・バンコクに出発し、
10日のフライトでバンコクから日本に帰る。
…というのが、夫が立てたスケジュールでした。


あんな、いろんなことがうまくいってない国で、
交通機関が時間通りに
走っているかどうかもわからないのに、
よくもまあ、こんなタイトなスケジュールを
組んだものです。🤣🤣


なので夫はずっと、
「8日の朝にラングーンに戻れるかなあ…。」
と心配していました。
なにかひとつでもうまくいかないと、
ヘタをすると、9日にタイに戻れません。
そうすると、10日に日本に戻って11日から仕事に戻る、
ということもできないわけです。


夫は、この旅行をするにあたって、
職場の先輩にすさまじく嫌みを言われ、😅
それでも頭を下げまくって休暇を取ってきたので、
なんとしても11日に出勤しなければならない、
と思いつめていました。


旅のあいだ、夫が横で、
それを何度もぶつぶつ言ってましたが、
それに対してMIYOが思っていたのは、
「そんなの、知らんがな。
 そもそもこれは、
 あなたが企画したことじゃん。」
でした。
(口には出しませんでしたが。😅)


「列車が動いてなくて。😥
 空港までたどり着けなくて。😥
 飛行機に乗れなくて。😥
 なので、当分日本に帰れないんです。😥😥」
…とでも言っておけば、会社も、
「それならしょうがないね…。」
というしかありません。
休暇を堂々と延長できる格好の理由になるし、
「日本に帰れなくなったら、
 もう少し、ビルマかタイにいて
 まだまだ旅行ができるから、
 それはそれでいいんじゃない?」
なんて、MIYOは思っていました。
(のんきなものです。😅)


とりあえず翌日の午後は、予定通りに、
トラックでタジーに行くことはできそうです。
でも、翌日の午前中に乗りたかった船は、
ないということがわかりました。


こんな小さな田舎町で、
なにをしてすごそうか…。


と、ふたりで肩を落としていたら、
後ろから、誰かに呼び止められました。


「ニッポンジンですか!!」


ふりかえると、
ひとりのおじいちゃんが立っていました。
それが、アウンおじいちゃんとの出会いでした。


この人もまた、第二次大戦のときに、
日本軍が作った学校で、
日本語教育を受けたのかな…と思いました。
終戦から42年後のことだったので、
当時小学生だった子どもたちは50歳くらいです。
アウンおじいちゃんは、それよりももうすこし、
年が上だったように思います。


当時をなつかしく思い、
学校で習った日本語で話しかけてくる人は、
それほどめずらしくなかったので、
この人もまた、そうなのだろう、と思いました。


少し言葉を交わしたあと、
おじいちゃんはいきなり、
「フネ、ノリタイデスカ!」
と尋ねてきました。


「乗りたいです。
 でも、インレー湖に、船がありません。」


そう答えると、アウンおじいちゃんは、
びっくりすることを言い出しました。
「フネ、アリマス。
 ワタシトイッショ二、イキマショウ。」


初めて会った人を、どこまで信用していいのか、
と迷いました。
でも、遊覧船には乗れないとわかったし、
翌日の午前中にすることがなくなったし、
ここでもしも騙されていたとしても、
なにも失うものはないな…、と考え、
誘われるままに、おじいちゃんについていきました。


そのまま、近くにあったおじいちゃんの家に行き、
お茶をいただきながら、詳しいことを聞きました。
アウンおじいちゃんの話は、
「自分といっしょなら、小舟を手配できる。
 それに乗って、水路を遊覧できる。」
…というものでした。


願ったり、かなったり、です。
翌日の朝、おじいちゃんと待ち合わせ、
船に乗ったあと、また町に戻ってくれば、
午後の、タジー行きのトラックに間に合います。
夫と相談し、お願いすることにしました。


「それで…。
 費用はおいくらでしょうか。」
と尋ねたのですが、おじいちゃんの答えに、
またひっくりかえりました。
「オカネ、イリマセン。」と…。


タダ、ですか?


あっけにとられていると、
おじいちゃんはさらに言いました。


「ビルマ、ナニモナイ。
 オカネガアッテモ、ナニモカエマセン。
 ダカラ、モシ、イラナイモノガアッタラ、
 ソレヲクダサイ。
 Tシャツ、アリマスカ。」


驚きました。
「オカネではなくてモノが欲しい。」と…。
こんなことを言う国があるとは
思いませんでした。


そういうことなら、できるだけ差し上げたい。
…と思ったのですが、旅行中だし、
たいしたものは持っていません。
新品の衣類で良さそうなものは、もうすべて、
マンダレーでココさんに差し上げてしまいました。


洗濯していないものでもかまわない、
とのことだったので、未洗濯のを含めて、
そのときに持っていた衣類のありったけを、
進呈することにしました。😅
帰国するまでの衣類は、
毎日洗濯して凌ぐことにし、
これから着る予定だった着替えも、
置いていくことに。😄


…夫とそんなことを相談していると、
アウンおじいちゃん、
昔のことをいろいろ思い出したようで、
歌を歌い始めました。


「ミヨ、トウカイノ ソラ アケテー♪」


愛国行進曲です。^^
学校でならったのでしょう。
歌が終わると、今度は奥から、
古ぼけたバイオリンを持ってきました。😮


おじいちゃん、
キコキコとバイオリンを弾き始めたのですが、
それはなんと、「海行かば」のメロディーでした。


「うみ~ 行かば~ 水漬く屍~
 やま~ 行かば~ 草生す屍~」


今度は、夫が歌い始めました。
夫の父親が海軍兵学校に居たためか、
夫は小さいころから、軍歌を聞きなれていて、
高校生くらいになると、
第二次大戦のときの話についても、
関連する本をよく読んでいたそうです。


アウンおじいちゃんのバイオリンに合わせて、
夫が軍歌を歌う…。
その光景を、いただいたお茶を飲みながら、
不思議な気持ちでながめていました。


こんなひとときを過ごしたことも、
ビルマならではのできごとだったと、
今ではなつかしく思い出します。


なんだかよくわからないけど、
とりあえず、明日は船に乗れそうだ…、
とわかり、少し元気がでました。
まだまだ、半信半疑ではありましたが。^^


その夜、町を歩いていて出会った女性と。「いっしょに写真を撮りましょう。」と言ったら、わらわらと子供たちがでてきました。まだ若いけど、6児の母でした。😄


ところで。
この夜に泊まったところですが…。
今で言う、ゲストハウスみたいなところでした。
っていうか、バス乗り場のあたりには、
そんなのしかなかったのです。


ホテルズドットコムで探したら、ニャウンシュエでいちばん安いのがこちらでした。ハードウッド ロッジ - ホステル。一泊1400円くらい(ふたり分)。(画像をお借りしました)


いや~。
こんないいお宿ではなかったです。笑


これは昼間、通りがかったおウチの写真ですが、どっちかというと、これに近かったです。それも平屋建てで、外壁は全部、竹でできていました。爆

これは、ハードウッド ロッジ - ホステルの客室の写真です。私たちが泊まった部屋は、これよりももっと素朴でしたね…。(画像をお借りしました)


竹でできたお宿。
その名も、「バンブーホテル」でした。🤣
一泊500円くらいだったかな…?
今思うと、写真に撮っておけばよかった、と。笑
でも、部屋の中で撮った、貴重な一枚があります。


しょぼくれて、バナナ食べてます。😂


部屋の壁も天井も、板でなくて網代。
網代のパネルを針金でしばってつなぎ、
衝立のようにして、部屋を仕切ってありました。
隙間から部屋の中が見えるので、
おちおち着替えもできません。😅


トイレとシャワーは、もちろん共同です。
シャワーは、たしか使用できたと思いますが、
「もう、私、お風呂はいいや。
 晩ごはんも食欲ないからいい。
 明日は朝早いから、バナナ食べて寝る。」
と言うと、夫も、
「オレもそうする。」
と言い出し、ふたりしてバナナを食べ、
夜8時には灯りを消して寝ました。
ああ、ついでに。
室内の照明も、裸電球1個でしたね。🤣


1987年5月7日(火)- 7日め


ビルマに着いて6日めの朝になりました。
この日は、朝7時に、
アウンおじいちゃんと会うことになっていました。


「待ち合わせの場所は?」
と尋ねると、
「私たちが初めて出会った場所」
と…。🤣
かなりアバウトですが、他所者の私たちには、
むしろわかりやすい。😄


…ということで、朝6時半にホテルを出て、
昨日、おじいちゃんと会った場所へと歩きました。


前日訪れた、ヤダナマンアウン・パゴダの前まで来ると、向こうから、たくさんのお坊さんがやってきました。

これから托鉢にでかけるところのようです。

後ろの方で、少し遅れ気味に歩いているのは、小さな見習い僧たち。^^


さらに少し歩いて、
前日、おじいちゃんと出会った場所に到着。
ほんとうに来るかな…と少し不安でしたが、
おじいちゃん、先に来て待っていてくれました。


このときのおじいちゃんのかっこうです。はりきって、ジャージを着てます。🤣 そして、「水の上では日差しが強いから」と、MIYOと夫の分まで、菅笠を持ってきてくれていました。😄


おじいちゃんといっしょに船着場に行き、
小さな舟に乗って出発しました。


これは、インレー湖へと続く水路です。向こうから小舟がやってきましたが、私たちが乗っているのも、これと同じような、3人乗りの舟でした。

水路上にはたくさんの家があり、陸地から家までは、渡し板を通っていきます。アヒルくんたちが、列を作って泳いでいました。

少し行くと、どこかの岸辺で舟を降りました。でっかい仏像があります。

おじいちゃん、舟に乗るだけでなく、観光案内もしてくれるようです。😄

再び小舟に戻って出発。インダー族の船頭さんといっしょに記念撮影。周囲には、水に浮いた家がたくさんありました。


【インレー湖周辺の人々】
インレー湖周辺には、独自の生活習慣や文化を持つ少数民族が住んでいます。なかでもインダー族は水上生活をしており、水上に高床式の家を建てて暮らしています。主に、漁や湖上の浮き畑で農業をしながら生活しており、市場や学校、病院など、どこへ行くにも舟で湖を渡って行きます。


次に行ったのは、葉巻工場。…と言っても、普通の家の一室で、若い女性が子どもを遊ばせながら、せっせと葉巻を作っておられました。

このあと市場に行ったら、このときと同じ葉巻を加えながら野菜を売っている女性を発見。夫、思わずパチリ。😄

葉巻くわえてます。^^

「葉巻を吸ってるふりをして。」と言われて。お仕事の邪魔をしてスミマセン。😅


おじいちゃんはお茶をもらって、
葉巻も吸っていたので、
お知り合いのおウチだったのかもしれません。


小さいネコちゃんがいたので、抱っこさせてもらいました。^^


元々乗ろうとしていた「インレー湖遊覧船」は、
モーター付きで、ここから数キロ先にある、
インレー湖の中まで行きます。


現在のインレー湖遊覧船です。一艘につき、5個のりっぱなイスが固定されています。(画像をお借りしました)


でも、おじいちゃんが乗せてくれた舟は
手漕ぎ舟だったので、
インレー湖までは行けません。


私たちはこんな小舟に乗って、水路をすべるように進んでいきました。


おじいちゃんが企画してくれたのは、
インレー湖の手前にある水路を、
ゆっくりのんびりと遊覧してまわる、
…というものでした。


でもそのことが、
予想外の展開となりました。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 22 - タウンジーを経てニャウンシュエへ。チンロンを見る。(1987年5月6日/6日め)

1987年5月7日 ニャウンシュエの市場で。


「せめてパガンまでくらいは」と思って書き始めた日記なので、
パガンも終わったし、ここで一区切りと思ったのですが、
多動夫が「このまま書けるだけ書いてみたら」と
おもしろがっているので、もう少しがんばってみます。😅


1987年5月6日(火)- 6日め


一夜明けて、旅の6日めになりました。
1日めはタイだったので、ビルマに着いてからは、
5日めということになります。


ここまでの経路です。ラングーン(現在のヤンゴン)から夜行列車でマンダレーまで行き、その日の夜行バスに乗って、今度はパガンに移動。パガンで2泊しました。

夫はここで、またも無謀な計画を立てます。パガンからメイッティーラに戻り、そのままさらに東へと進んでタウンジーへ。そこでバスを乗り換えて、ニャウンシュエまで行くと…。この日の走行距離は、約365キロ。

ラングーン(ヤンゴン)に着いてからニャウンシュエまでの、5日間の全経路をまとめると、こうなります。総走行距離は、約1280キロ。


は~…。
私たちって、こんなふうに移動してたんだ。😮
37年もたって初めて知るこの事実、です。🤣


なにしろ、この頃のMIYOは、
旅の「企画」にはほとんど無関心だったので、
その国のどこを訪れるかは、
すべて夫におまかせでした。
実際に旅を始めたら、車の中で寝てばかり。
そのうち、「着いたよ」と言われて車を降りて、
「で、ここはどこ?」なんて聞くことも
めずらしくありませんでした。爆
(のんきなものです。)
車の中で寝てばかりというのは、
最近もあまり変わっていませんが。


夫は夫で、自分のやりたい旅を
とにかく好きなように企画できるので、
いつも嬉々としてやっていました。


…ということで、
この日の目的地はニャウンシュエでした。
現在は、パガンからニャウンシュエまで、
直行バスがあり、
8~10時間で行けるようですが、
当時、そんなものはありませんでした。
なので、まずはタウンジーまで行き、
そこで別のトラックに乗り換えて、
ニャウンシュエまで行かねばなりません。
移動時間も長いので、朝、かなり早い時間に
パガンを出発したように記憶してします。


マンダレーからパガンまで行ったときは、こんなバスに乗りましたが…、
このときの日記です。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 8 - マンダレーからパガンへ。(1987年5月4日/4日め)

このとき、パガンからタウンジーまで乗ったトラックの写真を撮っていなかったのですが、こんな車でした。ピックアップトラックというそうです。バス停はいくつかあるのですが、それ以外でも、ルート上であれば、乗客は好きなところで乗り降りできるようでした。

この車、後部から見るとこんな感じです。荷台部分の両端に長イスがあるだけで、真ん中のスペースは空いています。(これは、ラングーンに戻ってから撮った写真です。たまたま、ピックアップトラックが写っていました。)


中央部分には、イスに座れなかった人たちが、
すし詰め状態で乗るようになっていました。笑
こんなのに乗って300キロ以上走ると、
もう全身埃だらけになります。😂


メイッティーラ在住のウー・タン・アイ(U Tun Aye)さんに出会ったのも、このトラックに乗ったときでした。この写真を見ると、荷台部分にパイプ椅子が取り付けられています。そして、両側の風を防ぐため、ビニールが張られています。今思うと、ピックアップトラックの中でも、ずいぶん上等な部類だったのだと思います。😄
ウーさんとの出会いを書いたときの日記です。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 9 - メイッティーラを通過してパガンに到着。そしてアーナンダ寺院へ。(1987年5月4日/4日め)

トラックは、山の奥深くへとどんどん入っていきました。どこまでも続く山々が、素晴らしい眺めです。小さな集落も見えます。

こんな山深いところにも、人の家があって、暮らしがあるんですね…。^^

赤く土が見えているのは、焼き畑のあとなのでしょうか。周囲に高い木がないのは、長年焼き畑農業を続けてきたからだと思われます。


そして、メイッティーラの近くを
通ったときです。
東へと走る私たちの進路が、
南北を走る線路と交錯しました。
線路の前でトラックが止まりました。
踏切なんてものはなく、
列車が来る気配もありません。
さらにけっこうな時間、
そこでずっと待っていると…、


列車です! 列車が走ってきました。これはたぶん、ラングーンからマンダレーへと北上する列車だと思います。

列車の中は満杯状態。乗りきれなかった人たちは屋根に乗っています。笑


列車は、私たちの目の前を、
ゆるゆると通り過ぎて行きました。
あのスピードなら、屋根の上の人たちが
振り落とされる心配もないのでしょう。^^


このあとも、途中の村々で、
乗客が乗ったり降りたり。
食事休憩やトイレ休憩をはさみながら、
トラックはタウンジーへと走り続けました。


途中で寄った村で買った、ライム味のミネラルウォーターのラベルです。この頃はペットボトルはなく、お水は瓶で売られていました。ラベルの印刷が素朴で楽しいです。^^ 下の方にビルマ語が書いてありますが、グーグルで翻訳したら、「アップル、スパークリング、レモン、ソーダ」だそうです。37年後、こんなふうに、ビルマ語が普通に読める時代が来るとは思いませんでした!笑

村のトイレです。もちろん、水洗トイレではありません。四方が網代で覆われていて、とっても素朴なトイレでした。^^


そんなこんなで、タウンジーに到着。
ここから別のトラックに乗り換えて、
ニャウンシュエへ。
一日中、トラックで走り続け、
ニャウンシュエに到着したのは、
午後の遅い時間でした。


【ニャウンシュエ(Nyaung Shwe)】
 
ビルマ東部のシャン州にあり、インレー湖観光の拠点となっている町です。インレー湖の北側に位置し、船着き場がある町として栄えています。徒歩や自転車で町を周る人も多い、小さな町です。町のいたるところにゲストハウスやホテル、レストラン、旅行サービスセンターがあり、バックパッカーに人気の町です。インレー湖へのボートトリップとインレー湖周辺のトレッキングが、観光の目玉となっています。


ホテルに荷物を置いて、早速、ニャウンシュエの町を歩き始めました。赤い花の向こうに、ゆったりと歩くお坊さんの姿が見えます。

人々が日常使う橋の上にも、仏塔がありました。^^

ヤダナマンアウン・パゴダに到着。


【ヤダナマンアウン・パゴダ(Yadana Man Aung Pagoda)】
ニャウンシュエで最古の仏塔寺院です。階段状になった塔が独特のフォルムを呈しており、このような形状のパゴダは、バガンにはありません。建物を囲う壁は白く、アーチ型の窓が設けられているのが特徴的。博物館が併設されており、その中にある、「老いの像」や「疾病の像」というリアルに作られた仏像が有名です。他には何世紀にもわたって集められた宝石や彫刻、漆器、ダンスドレスなどが展示されています。


この日は、なぜか門が閉ざされていて、中には入れませんでした。とりあえず、写真を一枚。

ちなみにこれは、現在のヤダナマンアウン・パゴダ。37年前とほぼ変わらない姿でした。^^(画像をお借りしました)


お寺の中には入れなかったけど、
このニャウンシュエに来た一番の目的は、
このお寺ではないので、
気を取り直してさらに歩きました。


ニャウンシュエに来た一番の目的。
それは、
「インレー湖で船に乗る」
ことでした。


その船の乗り場はどこなのか?
チケットはどこで買えるのか?
なにもわかっていません。😅
当時は、そんなことを教えてくれるような
ガイドブックは、ありませんでしたから。


情報はなにもなかったけど、
とりあえず、湖の近くまで行って、
その辺の人に聞きまくればなんとかなるだろう、
…と、このときは思っていました。


普通の民家が並ぶ通りを歩いていると、空き地で人々がチンロンをやっていました。ビルマに来て5日めでしたが、チンロンを間近で見るのは初めて。^^


【チンロン/ခြင်းလုံး】
主にミャンマーで行われている伝統的な遊戯またはスポーツです。5世紀から7世紀ごろ、現在のミャンマー地域に居住したピュー族がチンロンに似た遊戯を行っていたとされ、タイェーキッタヤーで発見された遺跡からは、銀製のチンロン球が出土しています。
現在は、庶民の娯楽として路上などで行われており、見世物としての個人ショーもあります。また、競技規則に則ったスポーツの試合としても行われています。
ビルマ語で、「チン」は籠、「ロン」は球体を意味しており、競技の名称となっているだけでなく、競技で使用されるボールも「チンロン」と呼ばれています。伝統的なチンロン球のサイズは、直径約13cm・円周約40cm。籐(とう)を幅3mm、長さ3mの紐状に裂き、6本または10本どりで球形に編んで作ります。中空で重量は約100gであり、トウ紐の間には五角形の穴が12ヶ所あります。


チンロン球です。直径約13cm。

このチンロン球は、当時、
ビルマのよろず屋さんで普通に売られていました。
お店でこれを見つけたときも、夫は、
「あっ オレ、これ買う!」
と言って、即買いしていました。


ほんとうに、ブロマイドとか、チンロン球とか、
絶対に使う予定のないものを、
衝動買いするんですよね…。😔
帰国してから使うわけでもないし、
家の中のどこかに押し込んでそのまま放置。
このときのチンロンも、本棚の上で、
30年くらい、ホコリをかぶっていましたね…。😔


その後も何度も海外に出かけているうちに、
夫の衝動買いのおかげで、MIYO家はしだいに、
ガラクタ博物館のようになっていきました…。
(終活の断捨離で、数年前にようやくほとんど処分しましたが。😅)


楽しそうにチンロンをやる人々。これが普通の、チンロンスタイルです。パンツの人もいますが、履いていたロンジーを上にたくし上げ、裾を股の間に通して腹部にはさんで、パンツのような形にする人がたくさんいました。その折り方が上手で、サマになっています。😄


さて、インレー湖の船着場まで、
のんきに歩いてきたのですが、
ここで衝撃的な事実を知ることになります。


「インレー湖で、乗れる船はない。」と…。


当時、インレー湖には、ごくわずかですが、
観光客用の遊覧船がありました。
でもその船のチケットは、
団体ツアーで押さえられていて、
個人旅行者が買える枠がありませんでした。


つまり、
「船着場に行って、チケットを買って、
 待っている船に乗り込み、
 時間になったら出発する。」
…みたいなシステムが、
当時はまだなかったのです。
(あったかもしれませんが、とにかく、
 外国人用にはありませんでした。)


唯一の方法は、船一隻を、
自分たちでチャーターすること。
ただし、乗客10人分の費用がかかります。
それは、私たちには法外な価格で、
とうていムリでした…。


ここまで来たのに。
インレー湖はすぐ近くにあるのに。
船に乗れないなんて…。


み「インレー湖で船に乗れないとしたら、
  ここまで来た意味があったの?」
夫「ない…。」


まさか船がないとは…。
夫も私も、予想外の事実を知り、意気消沈。
ボー然としながら、
あてもなく、通りを歩いていました。


ここで、また新たな人物が登場します。
この人もまた、ビルマの旅で、
忘れられない人になりました。


アウンおじいちゃんです。


この話の続きは、次回に。^^


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 21 - 糸操り人形劇「ヨウッテー・ポエー」(1987年5月5日/5日め)

1987年5月5日 ダマヤンジー寺院で。(ビルマ・パガン)


1987年5月5日(月)- 5日め


パガン寺院めぐりを終えたあと、
モンモンさんから、
「イラワジ川で舟に乗りたいか~?」
と訊かれ、
「乗りた~い!!」
と答えた私たち。


次に、
「人形劇を見たいか~?」
と訊かれ、即座に、
「見た~い!!」
と…。🤣


この「人形劇」とは、ビルマの伝統芸能である、
糸操り人形劇「ヨウッテー・ポエー」
のことです。
「ヨウッテー」は糸操り、
「ポエー」は祭りや行事を意味するそうです。


【ヨウッテー・ポエー】
ミャンマーの伝統芸能である、糸操り人形芝居です。15世紀に生まれ、18世紀のコンパウン王朝の時代に発展しました。コンバウン朝は、「芸能大臣」を設けて、各種芸能の発展に努めました。その結果、人形芝居も、洗練された芸能へと変身しました。演目は、敬虔な仏教国にふさわしく、釈迦の前世講である「ジャータカ」から多くを取っています。

複雑な何本もの糸を操って演じられる糸あやつり人形劇に登場するのは、28種類の人形たちで、王、王子、王女、鬼、虎、馬、象など、ユニークな人形が舞台に上がります。また、衣装や装飾も非常に細かく丁寧に作られており、観衆の目を引くポイントとなっています。劇では、指一本で人形の繊細な動きを表現しており、難易度が高く、操者の熟練の技が光ります。


当時、モノがなかったビルマでは、
この操り人形が主要なお土産物となっていて、
売っているのをよく見かけました。
(私たちは買いませんでしたが。🙄)


マンダレーのゼージョーマーケットにも、人形屋さんがありました。
そのときの日記です。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 3 - ゼージョーマーケットからシュエナンドー僧院へ(1987年5月3日/3日め)

こちらで、「ヨウッテー・ポエー」を見ることができます。

【 アジアの人形芝居コレクション 】VOL.3 ミャンマー 伝統糸あやつり ヨウッテー・ポエーAsian Puppetry Collection


モンモンさんが連れて行ってくれたのは、
イラワジ川からほど近い、一軒の民家でした。
看板もなにもないのですが、
中に入ると、さほど広くない部屋に、
15個くらいのイスが並べられていました。


お客さんは、もちろん、私たちだけ。笑
とりあえずイスに座ると、
前方に設えられた小さな舞台で、
人形劇が始まりました。


若い女性が、お仏壇で祈りを捧げているのでしょうか。

番傘をさした、桃太郎のような若者。

手にうちわを持って踊る女性。

花飾りを振りながら踊る女性も。

笑わせ役のような男性。

ゾージー(錬金術師)の踊りだそうです。

これは王妃でしょうか。

鬼です。タイの鬼とよく似ています。

最後は、華やかな衣装の王子と王女が登場。

ふたりで手に手を取って…、華麗に踊ります。


川のほとりの芝居小屋みたいなところだし、
観客は私たちふたりだけなので、
てきとうにお茶をにごして、
さらっと終わるのかな~と思っていたら、
さにあらず。
演目が次々と変わり、
人形劇は延々と続いたのでした…。


最後は、舞台の上のカーテンが開いて、人形遣いさんのお顔も拝見できるという、演出もありました。笑 なんと、おひとりで全部こなしておられました。すごい!

YouTube とかだと、こんな風に民族衣装を着ておられるのですが、裸でやっておられるというのも、いかにもあの頃らしくて、なんか笑えます。😄


…ということで、
パガンでの2日間が終わりました。
最後の最後まで、楽しかったなあ…。😄


(つづく)


(おまけのおはなし1)


夫がラングーンで買ったカードです。絵葉書くらいの大きさ。


ビルマのスターのブロマイドだそうです。
よろず屋さんの店先で売ってるのを見つけ、
「あっ オレ、これ買う!」
と言って、ほんとに買ってしまいました。
はしっこ、汚れてるんですけどね…。🙄
大事に日本まで持って帰って、
アルバムにまで、貼っていました。
ブロマイドでも、ロンジー着けてるんですね。^^


なぜ、コレを買った?
もしかして、女性が好みだったのか?🤣


(おまけのおはなし2)


毎日、ビルマの話ばかり書いていたので、
夫がなつかしがって、
当時のパスポートをだしてきました。


この旅行のために取得した、ビルマのビザです。


ビザを取得したのは、1987年4月22日。
 3か月以内に、ビルマに入国すること。
 ビルマに滞在できるのは7日間以内。
 陸路による入国は不可。
…などと、キビシイことが書いてあります。


ビルマに入国したのは、1987年5月2日でした。
そして出国したのは、5月9日。
たった7日間で、
「とにかく歩けるだけ歩く。」
と、旅を企画した、多動夫。
涙ぐましいまでの過酷なめちゃくちゃ旅でしたが、
とにかく楽しかった。
やはり、人生で一番楽しかった旅でした。^^

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 20 - ダマヤンジー寺院(1987年5月5日/5日め)

1987年5月5日 ダマヤンジー寺院の階段を、せっせと登りました。(ビルマ・パガン)


1987年5月5日(月)- 5日め


ようやく、パガンで訪れた、
最後の寺院のお話になります。
コレがですね…。
もう泣きました。
寺院の名前が、わからないのです。😅


これまでに掲載した寺院は、
たいてい、全体を撮った写真があるので、
それを手がかりにすれば、
名前を調べることができました。


ところが、最後に訪れた寺院は、
なぜか、全体の写真がありません。
寺院内部の写真だけしかないので、
そういう写真を基にグーグルで検索しても、
ヒットするのは、
インドネシアとかカンボジアの寺院ばかり。


困り果てたときに、ふと目についた、この写真。小さな名もないパゴダです。(いえ、調べればきっと、名前はあると思いますが。)


「これはなに?」
と夫に尋ねると、
「この寺院の上に登ったときに、
 下に見えたのを撮ったんだと思うよ。」
と…。


この小さなパゴダに、見覚えがあります。


これです。スラマニ寺院に向かっているときに、馬車の上から夫が撮った写真。左側のパゴダをご覧ください。上の写真のパゴダとそっくりではありませんか。笑


2枚の写真に写っているのは、
同じパゴダだと思われます。
そして、そのすぐ近くに写っているのは、
ダマヤンジー寺院!


これでようやくわかりました。
最後に訪れたのは、
ダマヤンジー寺院だったのです。😂


ちゃんとメモでも、
とっておけばよかったのですが、
あの頃は、次々と現れる寺院を、
受け止めるだけでせいいっぱいでした。
夫が作ったアルバムでも、
寺院名が付記されているのはほんのわずかで、
ほとんどは、寺院名が書いてありません。笑


MIYOの頭の中に残っていた記憶でも、
「寺院を見た。パゴダを見た。
 ほんとうにたくさん見た。」
って、まあそんな感じでしたね。😅
寺院の名前なんて、
ひとつも覚えていませんでした。


このブログを書くにあたって、
ひとつひとつのスポットの写真を頼りに、
「私たちは、いったいどこに行ったのか?」
をまず調べるという、
笑い話のような毎日でした。😅
その苦労も、これでようやく終わります。
(たぶん)


…ということで、今回は、
パガンで最後に訪れた寺院、
ダマヤンジー寺院の日記です。


旅行中はいつも、写真を撮りまくる夫ですが、
「どうしてこの寺院にかぎって、
 全体の写真を撮っていなかったのか?」
というと、たぶん、
「これまでにその前を何度も通って、
 そのたびに写真を撮っていたから。」
だと思います。


たしかに、ダマヤンジー寺院は、
これまでにも2回見ていて、
その都度、この日記にも登場しています。
ここでまとめておきます。


次の写真3枚は、以下の日記で掲載しました。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 11 - マヌーハ寺院、シュエサンドー・パゴダ、ダマヤンジー寺院(1987年5月4日/4日め)

シュエサンド-パゴダの上から見た、ダマヤンジー寺院です。

現在のダマヤンジー寺院です。37年間で木がずいぶん生い茂っていて、その間からニョキニョキと、たくさんのパゴダが顔を出しています。(画像をお借りしました)

この寺院は、未完成のままで残されています。(画像をお借りしました)


【ダマヤンジー寺院(Dhammayan Gyi Temple)】
基壇一辺の長さが約78メートル。ピラミッドのような均整のとれたフォルムが美しい、バガンの中で最大規模の寺院です。1170年、「もっとも変わった姿で、もっとも精密な細工を施した寺院を」と望んだ、パガン王朝第5代ナラトゥー王(Narathu)の命によって建設が始められました。しかしナラトゥー王は在位わずか4年目で何者かに暗殺されてしまい、工事は中断。その後、建造を再開する人物は現れず、寺院は今も未完のままで残っています。


次の写真2枚は、以下の日記で掲載しました。

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 18 - ドラッグストア、ティーローミィンロー寺院、タビニュ寺院、ダマヤンジー寺院、そしてスラマニ寺院①へ(1987年5月5日/5日め)

スラマニ寺院に行く途中で見た、ダマヤンジー寺院です。

当時、夫が買った絵葉書です。この頃は、門のまわりは草だらけで、正面玄関の下の方は、土で埋もれています。「未完成の寺院」として放置されていて、あまり整備されていなかったようです。


二度にわたってその姿を見ながら、

そのたびに素通りしていた、

ダマヤンジー寺院。

今ようやく、その中に入ります。笑


まず初めに目に入ったのは、

2体の仏像でした。


「ふたつ並んで、双子みたいだ。

 おもしろいから前に立って。」

と、夫は喜び、写真を撮りました。


モンモンさんといっしょに撮りました。^^

現在の同じ場所です。ここは、今では撮影スポットになっていて、写真を撮りたい人たちが列を作って順番を待っているところなのだそうです。


仏像は普通、1体だけで置かれていますが、

ここでは2体が並んでいます。

それが珍しくて、人気となっているようです。


けれど、2体並んでいるのには、

実は言い伝えがあります。

この寺院の建設を命じたナラトゥー王は、

自分が王位に就くために、

実の父と兄を毒殺してしまったのだとか。

即位後は、そのことで生涯苦しんだそうで、

「父と兄を供養するために、

 2体の仏像を並べた。」

…と言われています。


「自分の父と兄を殺した王」が亡くなった時、

そんな彼が作ろうとしていた寺院の建設を

引き継ごうとする人はいなかったようです。

それが、ダマヤンジー寺院が未完成のままで

放置されつづけた理由だそうです。


「因縁のある寺院」

「夜になったら幽霊が出る寺院」

として、現在でも、

地元の人々には恐れられているのだとか…。


そんなこととはつゆ知らず、夕暮れの寺院内を歩くMIYO。笑 ここから階段で、上に上がることができます。

一階部分の屋根の上のようなところに出ました。

さらに上層へ行こうとしていたとき、上の方から、地元の女の子がやってきました。

中学生くらいでしょうか。なぜか仲良くなってしまって、このあとは、彼女といっしょに寺院を歩きました。


外国の遺跡に行くと、

そこに地元の子どもたちがいるのは、

そう珍しいことではありません。

でもMIYOは、彼らに話しかけられるのが、

あまり好きではありません。

最後に必ず、

「ガイド料をちょうだい。」

と言われるからです。


たいした金額ではないのですが、

そういうことをあたりまえと思って、

子どもが育つというのは、どうなんだろう。

…と思うのです。

だから外国で、

子どもにお金をあげたことはありません。


ビルマを旅行中も、

あちこちで子どもたちに会いました。

この前日にも、ティーローミィンロー寺院で、

ふたりの男の子といっしょに、

寺院内を歩いています。


けれどこの国では、だれも、

お金をせがんだりはしませんでした。

もちろん、このときの女の子も。

ただ笑顔で、MIYOといっしょに、

階段を上がってくれました。


観光ずれしていないということなのか。

それとも、ビルマがそういう国なのか。

よくわからないけれど、

ビルマの人々とのかかわりは、いろんな面で、

これまでに歩いたどんな国とも、

違っていたように思います。


やっぱり、

「天国にいちばん近い国」

だったなあ…。


ふたりで元気に、階段を上がりました。🤣

最上層まで、あともう少し。どこに行っても階段で、ほんと、遺跡めぐりは体力勝負です。🤣

最上層です。パゴダが並んでいるのが見えます。

今、こうして写真を見返してみても、胸がしめつけられるような気がします。

「気持ちがいいね!^^」


居並ぶパゴダもすばらしかったけど、

それと同じくらい心に残っているのは、

女の子が見せてくれた笑顔でした。


下を見下ろすと、入ってきた門と1階の屋根にあたる部分が見えました。裏門の前は畑のようで、きちんと耕され、畝ができていました。850年以上前に造られた寺院遺跡の隣りが畑というのも、なんかのどかでいいなあ…。笑

MIYOは覚えていないのですが、「そうそう。オレたちが乗った馬車も、畑の隣りにとめたよな…。」と、夫も言っていました。たしかに、尖塔の向こうに見えているのは畑ですね。😄

これは反対側の門です。

地上まで降りてきたら、他の子どもたちもやってきたので、みんなでいっしょに記念撮影。タナッカーが似ているので、姉妹だったのかも。^^


こうして、パガンの寺院めぐりが終わりました。


本日訪れたところです。
 マニシトゥ・マーケット
 ティーローミィンロー寺院
 モンモンさんの家
 シュエズィーゴン・パゴダ
 チャンジッタ ウミン洞窟僧院
 ウパリテイン
 シュエナンインタウ僧院群

 漆器屋さん(場所不明)

 スラマニ寺院

 ダマヤンジー寺院


いまここ。😄


ここまで、10回にわたって、

パガン寺院めぐり日記を書いてきました。

2日間で訪れた寺院は、14個。

ひとつひとつの寺院に訪れては、

内部を歩き、最上層まで登って、と、

その運動量たるや、さぞかしだったと思います。

ほんと、遺跡めぐりは体力勝負です。😄


それにしても楽しかったなぁ…、

とのんきに思い出していたら、

今日になって、驚くべきことを知りました。

なんと、

現在のパガンには、上に登れるパゴダはない。

…のだそうです。


私たちが行った1987年には、

どこでも自由に入り、登ることができたのですが、

それが現在では、原則として禁止されているそうです。


2016年のミャンマー地震によって、

パゴダが損傷したこと。

観光客の増加に伴い、

転落事故が年々増加し続けてきたこと。

…などが原因のようです。


2016年に、地震で被災したときのパガン。舞い上がる粉塵で、パゴダがかすんだそうです。(画像をお借りしました)

つまり、こんなアホなことは、今ではもうできないわけです。たしかに、手すりとかもなくて、ちょっとコワいな、とは思いましたが。😅(1987年5月4日 シュエサンド-・パゴダ)


その代わりに、ということでしょうか。

現在は、
パガン・ビューイングタワー
なるものが建設されています。


パガン・ビューイングタワーです。(画像をお借りしました)


【パガン・ビューイングタワー】
パゴダや寺院が林立する広大な平原を見晴らすことができる、高さ約60mの展望台です。360度の視界が広がり、天候が良ければ、イラワジ川や遠くポッパ山まで見通せます。タワー内には土産物店や展望レストランも備わっています。(入場料が必要です。)


あのパガンに、展望タワーですか…。😮
なんだか、隔世の感があります。


さて。
マンダレーに続き、パガンでも、
怒涛のように駆け抜けた2日間でした。
パガンの日記は、次回が最終回になります。


当初から、
「せめてパガンまでの、
 5日分だけでも書いてみよう。」
と思って書き始めたので、
20回の連載で、ほぼ、目標は達成できました。
ここでビルマ日記を終えるか、
それともまだ、旅の続きを書いていくかは、
まだ決めかねています…。😅


(つづく)