MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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ベトナム家族旅行:
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埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 35 - ストランドホテルの晩ごはんと軍票。そしてフォーさん、チーレィさんの思い出。(1987年5月8日-10日/8日め-10日め)

1987年5月2日 ラングーン駅で。(ビルマ・ラングーン)


最終話になります。
長い連載におつきあいくださり、どうもありがとうございました。


1987年5月8日(火)- 8日め


フォーさんといっしょに、
ラングーンのダウンタウンを歩いています。
旧最高裁判所のから、通りをさらに直進して、
ようやく、めざすストランドホテルに着きました。


現在のストランドホテルです。(画像をお借りしました)


【ストランドホテル(Strand Hotel)】
1901年に開業した、ビクトリア様式の名門ホテルです。シンガポールのラッフルズやペナン島のE&Oと同じく、サーキーズ(Sarkies)兄弟によって建てられ、サマセット・モームなど、多くの著名人に愛されてきました。正面に円柱が並ぶビクトリア様式の華麗な建築美はそのままに、内部は改装を重ね、高級ホテルとなりました。
第二次世界大戦中の1941年には、日本軍がホテルを接収し、ホテル内の一部を馬小屋として利用した時期もあったそうです。また、開業以来、ビルマ人はホテルを利用することができない時期が続きましたが、1945年以降になって、ようやく、ビルマ人が宿泊できるようになりました。
1993年の全面改装後は、全室スイートの最高級ブティックホテルとなりました。2017年にプールが増設されたあとも、その外観は保たれており、内部でも、チークと大理石の床、マホガニーの家具、天蓋付きのベッド、年代物のバスルームなどに歴史が偲ばれ、ヤンゴンを代表するホテルとなっています。(ヤンゴン市遺産リストに登録されました。)


「夕方6時に、ストランドホテルの
 ロビーで会いましょう。」
と、Sさん、Kさんと約束していました。


この日のお昼に、
Sさん、Kさんとランチをご一緒したとき、
「ストランドホテルって、知ってるよね?
 ビルマ最後の夜だし、
 あの有名なホテルに、
 泊まるのはちょっとムリだけど、
 せめてごはんくらい食べて、
 高級ホテルを見学するっていうのはどう?」
と提案したのは、もちろんMIYO。(アホ)


あのころは、みんな20代。
貧乏旅行ばかりしていたので、
ラングーンの最高級ホテルに泊まるなんて、
だれも想像もしていません。


「でも、ごはんくらいなら…。」
「雰囲気くらいは…。」
「建物も見てみたいし…。」


など、それぞれの思惑が一致し、
話は即決。
それぞれが、午後を好きなように過ごし、
夕方6時に、ストランドホテルで
再び集まろう、ということになりました。


この時、私と夫の頭の中には、
「会えるかどうかわからないけど、
 もしもこのあとで会えたら、
 夕食はフォーさんもいっしょに。
 今度は私たちがごちそうしなくては。」
という思いがありました。


なので、このあとシュエダゴン・パゴダで、
無事、フォーさんに会えたときに、
「今日は、夕食をご一緒してください。」
と、お願いしてありました。


ホテルの中に入ると、ちょうど、結婚披露宴が催されているところでした。ビルマ族の盛装をまとった、新郎新婦です。

参列している女性の衣装もすてきでした。


私たちが泊まることもできない高級ホテル。
そこで、豪華な結婚式を挙げられる人って、
どれくらいお金持ちなんだろう…。
なんて思いましたね。笑


こちらは、ビルマに到着した日に、たまたま見かけた結婚式。ビルマに住む華僑の結婚式のようでした。

ストランドホテルのレストランで。左から、Sさん、Kさん、夫、フォーさん。

いったいなにを食べたのか、まったく覚えていないのですが…。

テーブルの上をよく見ると、どうも西洋料理だったみたいです。😅

ちなみに現在は、ストランドホテルでディナーをいただくとこうなります。🤣🤣

カフェでは、英国式のハイティーが人気で、連日、欧米人でいっぱいだそうです。


私たちが食事したのは、
どちらのお店だったのでしょうね…。🙄
(どうでもいい情報ですが。笑)


5人での食事を終えたあと、
フォーさんは帰って行きました。
帰り際、フォーさんから、ビルマのお土産を
たくさんいただいてしまい、
またまた恐縮してしまいました…。


旅行中、私たちが買ったお土産は、
会社でばらまくための、
小さなお茶のパックくらいだったので、
フォーさんからいただいたお土産が、
いちばんりっぱなビルマ土産だったかも、です。


私たちが買ったお茶の包み紙です。ティーバッグ10個分くらいのお茶の葉が入っていて、1個3円くらいだったかと。(←そんな安いのをばらまいたのか?😅)


夫は、なんでもアルバムに貼っていたので、
ブログを書くのには助かりました。
その夫ですが、
「ビルマのスターのブロマイド」だの、
「チンロンの球」だの、
日本に持ち帰っても絶対に使わないモノを、
なぜか買ってしまうという病気なのは、
以前にも書きました。
ブロマイドを買った話。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 21 - 糸操り人形劇「ヨウッテー・ポエー」(1987年5月5日/5日め)
チンロン球を買った話。

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 22 - タウンジーを経てニャウンシュエへ。チンロンを見る。(1987年5月6日/6日め)


夫が買った、スターのブロマイドとチンロン球です。


でも、夫が買ったもののなかで、

いちばん笑えたものはこれだった、

と思うものがあり、最後に、

それについて書いておきたいと思います。


これがなんであるか、おわかりでしょうか…。


これは、第二次大戦中に、

日本政府がビルマで発行した紙幣で、

上から、

 10セント、1ルピー、5ルピー、10ルピー

です。

それぞれに、JAPANESE GOVERNMENT と、

印刷されています。


戦時中、日本軍は、現地で物資を調達し、

この「軍票」と呼ばれる紙幣で

代金を支払いました。

ですが、日本が敗戦すると同時に、

この紙幣は紙くずになってしまいます。

そのため、ビルマで、

物資の代金を軍票で受け取っていた人々は、

大きな被害を受けました。


ビルマを旅行中、夫と歩いていて、

なにげなく通り過ぎたお土産物屋さんで、

この「軍票」を置いてあるのを、

夫が見つけてしまいました。


代金として受け取ったつもりの軍票が

日本の敗戦時に紙くずになってしまい、

そのまま、捨てられることなく、

ビルマに残されていたようです。

その軍票が、流れ流れて、

お土産物屋さんで売られている、

…ということなのでしょうか。


「あっ オレ、これ買う!」

と、夫はいつものセリフを言いました。

「日本がばらまいて迷惑をかけたんだから、

 日本人として、

 これを見たからには買わなくちゃ。」

と…。


夫の気持ちはわかるけど、

お店には軍票が束で置いてあったし、

「あなたがここで、

 その中の何枚かを買ったところで、

 なにも解決しないよ。」

と、MIYOは思いました。


でもまあ、大した金額ではないし。

当時の夫は、とにかく、

「ビルマでしか買えないようなものは、

 なんでも買いたい。」

みたいなところがあったので、

ビルマの人々へのお詫び半分、

ビルマのコレクションを増やしたい気持ち半分、

…だったと思います。


帰国後、夫は、その軍票をアルバムに貼り、

今日に至るまで、大事に保管しています。

でもこの話には、後日談があります。


大戦中、日本軍はたしかに、

大量の軍票をビルマで発行し、使用しました。

そしてビルマから敗走するとき、

ばらまいた軍票を全部放置したのですが、

その軍票を作るための版下もまた、

そのまま、ビルマに残してきたそうです。

(もう必要ないですからね…。🙄)


おわかりでしょうか。

現在、ビルマのお土産物屋で売られている軍票は、

その、日本軍が残していった版下を使って、

ビルマ人がせっせと印刷したものなのです。😮


み「あなたはいったい、なにを買ったの?

  日本軍がばらまいた、軍票?

  それとも、

  ビルマ人が作った、子ども銀行券?💢」

夫「まんまとだまされたよなあ!

  あっはっは。」


…全然、反省の色はありません。😔


ストランドホテルで、知り合った女性と。ハワイから来たそうです。これが、この日の最後の写真になりました。


1987年5月9日(水)- 9日め


ビルマ最後の日です。

この日の朝のフライトでバンコクに戻り、

私たちのビルマ旅は終わりました。


ラングーン空港で。


このあと、バンコクで一泊し、

翌10日に日本に帰国するのですが、

私も夫も、

完全に抜け殻のようになっていたようで、

このあとの写真が、一枚もありません。

なので、旅日記としてはここで終わりますが、

その後のお話を、書いておきたいと思います。


この一年後、私たちは、

チーレィさんというビルマ人留学生から、

手紙を受け取ります。

「ビルマの日本語学校で、

 フォーさんと同級生でした。

 フォーさんからおふたりを紹介されました。」

と。

ほどなく、銀座で待ち合わせ、

いっしょに食事をしました。


チーレィさんは、留学生として来日しており、

新聞配達をしながら、勉強を続けました。

在学中に、中国人の同級生と結婚したあと、

東海大学を卒業しました。

日本では就職することなく、卒業と同時に、

グリーンカードを取得して、渡米。

未知の国に行き、仕事し、会社を経営して、

家族(妻と二人の子どもたち)を支えた彼は、

ビルマと中国から両親を呼び寄せ、

みんないっしょに、アメリカで暮らしました。

本当にりっぱだったと思います。


アメリカから日本に一時帰国したときのチーレィさんと。日本に来たときは必ず連絡してくれ、いっしょにごはんを食べました。チーレィさんとのご縁は、30年以上続きました。

このときの日記です。

ビルマの竪琴を、あなたと。~高田馬場 「ミンガラバー」で、ビルマ料理~(2018年4月15日)


「今、ガンで入院しています。」

というメールをもらったのは、2019年。

「私も、3年前に手術したばかりです。

 いっしょに生き延びましょう。」

と返信したのが、最後になりました。


そんなチーレィさんと私たちを結びつけてくれたのが、ラングーンで会った、フォーさんでした。


フォーさんは、

「いつか日本に行きたい。」

と願っていたのですが、かなわず、

その後、マレーシアに働きに行きます。

何年も一生懸命働いてお金を貯めたのですが、

詐欺に遭い、全てを失ったそうです。


2017年3月、チーレィさんはビルマに里帰りしました。そのときに、フォーさんと会ったそうです。いっしょに撮った写真をメールで送ってくれました。


メールには、

「誰だかわかる?」

と書いてありましたが、

ええ、もちろんわかりましたよ。^^


マレーシアですべてを失ったフォーさんは、

帰国し、お坊さんになったのだそうです。

いろんなものを越えて来たフォーさんの、

現在の穏やかな表情を見ていると、

37年前、いっしょに歩いた日のことが、

まるで夢のように思えてきます。


私たちとフォーさんを再びつないでくれた、

チーレィさんも、大切な友人でしたが、

今では帰らぬ人となりました。


私たちはこうして、いろんな人や物を

失くしながら、その痛みを抱えながら、

それでも、今を生きていくのだと思います。


私と夫は、そもそもどうしてビルマに行ったのか。

それは、1987年のはじめに、

馬来由貴さんの「みんがらばぁビルマ」を

読んだことがきっかけでした。

冒頭の、

「ビルマに行ってきました。

 あれから、いくら時間がたっても

 しみじとした何かが消えません。」

という文章に、今は深くうなずくばかりです。


私たちも、なのです。

37年もたったのに、今でも、

「しみじみとした何か」が、

胸の中にずっと残っているのです。

ビルマは本当に、そんな力がある国でした。


すばらしい国だった、ビルマ。

でも、いちばん忘れられないのは、

旅の途中で会った、たくさんの人々。


ラングーンからマンダレーへ。

パガンからニャウンシュエへ。

得度のお祝いにも闖入し…、

誰もが笑顔だった、あの日。

家にも招いていただきました。

ビルマはほんとうに、子どもが多かったなあ…。

家の前を通りがかっただけで、ごはんを食べさせてもらいました。笑

やさしかった、アウンおじいちゃん。


37年前、

こんなにものびやかな国があったことを、

これからも忘れられないと思います。


長い長いお話におつきあいくださり、ありがとうございました。


そういえば、

「このマンダレー駅、

 歴史のある、いい建物だったのに、

 全部取り壊されたんだよね。」

と、夫はいつも残念がっていました。


現在のマンダレー駅です。(画像をお借りしました)


でも先日、夫が言いました。

「駅舎が全部なくなったと思ってたけど、

 オレたちの後ろに写っていた、

 ロータリー部分だけは、

 現在の写真にも残ってるのがわかった。」

と…。


37年前の、1987年5月3日。

私たちは、このロータリーの前に、

立ってたんですね。

バックパックを背負って。


ってことは、道路のど真ん中に立ってたようです。

まあ、当時は自動車なんてほとんどなかったから、

轢かれる心配はありませんでしたが。笑


連載35回。

一日もお休みすることなく、

風邪をひいて、38度の熱が続いているときも、

実は書き続けていました。

書いているあいだはずっと、

もういちどビルマを旅しているような気がして、

たいへんだったけど、とても楽しい日々でした。


ありがとう、ビルマ。


(おわり)

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