MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 17 - 漆器屋さんと、イラワジ川の夕陽(1987年5月5日/5日め)

1987年5月5日 漆器のお店に行きました。(ビルマ・パガン)


1987年5月5日(月)- 5日め


パガンの寺院めぐりを終えて、
次に、モンモンさんが連れて行ってくれたのは、
漆器を作っているお店でした。


モンモンさんの馬車で少し走ると、住宅地のエリアに入りました。

藁や竹でできた家が、整然と並んでいました。


この頃ビルマを歩いていて、印象に残ったのは、
道にゴミがまったく落ちていないことでした。
海外の道路ではゴミが多いのに、
ビルマの人は、掃除が好きなのかな…?
と思いました。


「ビルマの人は、
 道路にゴミを捨てないのですね。」
と、ラングーンで知り合ったフォーさんに、
夫が話したことがあります。
そのときのフォーさんの答えは、
驚くべきものでした。


「捨てるモノがないのです。」
と…。


当時、経済制裁を受けていたビルマは、
工業製品を輸入することができず。
慢性的なモノ不足に陥っていました。
何かを買いたくても、店に売ってないから、
手に入らない、という状況だったのです。


「紙も不足していますから、
 紙きれ一枚でも、捨てる人はいません。
 なんでも再生して使わないと。」
とフォーさんに言われ、愕然としました。


あの頃、日本では、なんでも使い捨てでした。
「リサイクル」「ごみの分別」「地球環境」
などという言葉が出てくるのは、
もっとずっとあとのことでした。
なので、
「捨てるモノがない。」
という言葉は、私たちの想像を超えていました。


第二次大戦中、日本でも、
様々な物資が不足していましたが。
当時のビルマも、同じような状況でした。


ですが、戦争していたわけではないので、
とりあえず食べるものはあったし、
人々からも、窮乏しているような印象は
受けませんでした。


モノはなかったけれど、
なんだかゆったりとした暮らしがあったし、
自宅に招いていただいても、
貧乏ですごく困っているというか、
そんなようすを見たこともありませんでした。


「モノはないけど、貧しいわけじゃない。」
という、ビルマの人々の生活のようすを、
このあと、旅を続けていく中で、
さらに教えられることになります。


さて、到着したようです。


「漆器の店に行く」
と言われて来たはずですが…。
どう見ても、お店じゃなくて、
普通の家にしか見えませんね。^^


…と思いながら中に入ると、ほんとに普通のおウチみたいです。そして玄関口では、ふたりの職人さんが、せっせと漆を塗っておられました。

その隣りがお店になっています。漆器がメインですが、糸操り人形も置いてあるので、「お土産物屋さん」ですね。

この当時、ビルマのお土産というと、漆器、操り人形、お茶…。まあ、そんなものしかなかったような気がします。

MIYOが持っているのは、漆塗のバングルと竪琴。

このときに買った、一輪挿しとバングルです。探してみたら、写真が残っていました。^^ 


これらは、ビルマの思い出として、
30年以上保管していましたが、
終活の断捨離を考えるようになり、
昨年、処分しました。😅


たったひとつ、この漆のお皿だけは、今も残しています。直径26センチ。

そのあとは、馬車の前で、地元の方とおしゃべり。「地球の歩き方」みたいな本を見せていますが、1987年に「ビルマ編」はなかったはず。


MIYOは、大学生のころに、在宅で、
「地球の歩き方」の原稿を書く仕事を
していました。
(その後、社内でも働いています。笑)
当時の「地球の歩き方」は、
「ヨーロッパ編」と「アメリカ編」
しかありませんでした。
44年も前の話です。🤣


大学を卒業してメーカーに就職し、
そのときに、この仕事から引退しました。
が、1986年頃だったか、
「南米編を発行することになったので、
 創刊号のブラジル編を書いてほしい。」
と、依頼をいただきました。
当時は、ブラジルに行った人が少なくて、
書く人が見つからなかったようです。
そのときだけは、お引き受けした記憶があります。


そんな時代だったので、
1987年に、「地球の歩き方・ビルマ」は、
たぶん、まだなかったと思います。


ビルマの本が日本にはほとんどなくて、
夫は英語の本を見ながら、
旅のスケジュールを作っていたので、
このときに持っていたのは、
「ロンリープラネット」とか、
そんな感じの本だったのかもしれません。
(…と書きましたが、夫によると、
 この時持っていたのはやはり、「地球の歩き方」だったそうです。笑)


さて、漆器屋さんでのんびりしすぎたので、
時間がなくなったようです。
このあとモンモンさんは、
懸命に馬車を走らせたのですが、
「間に合うかな…。」
と、私たちもはらはらしていました。


イラワジ川に到着。日没はまだです。よかった。^^


川のほとりは、水遊びをする、
地元の人々や牛車でにぎわっていました。


イラワジ川で舟に乗って、日没を見る。
…というのが、モンモンさんの計画でした。
なので、
「なんとか日没に間に合うように」
と、懸命に馬車を走らせてくれたのです。^^


イラワジ川に到着したあと、
モンモンさんが舟の交渉をしに行っている間、
私たちは、近くに見えた寺院で遊んでいました。


なにしろ、遺跡がごろごろしているパガンですから、川のほとりにも古い寺院がいくらでもあります。笑

「舟の準備ができた。」とモンモンさんが呼びに来てくれて、川に戻りました。

川には何艘かの船がつながれていましたが、私たち以外には乗客はいないようです。

漁船なのか観光船なのかわかりませんが、とりあえず、小舟に乗って出発しました。

川の向こう岸にも、樹々の間にパゴダのシルエットがみえます。^^

そして、沈む寸前の太陽が見えました。

「間に合ってよかったね!」

イラワジ川で、船の上から見た、パガンの日没です。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 16 - シュエズィーゴン・パゴダ②、チャンジッタ ウミン洞窟僧院、ウパリテイン、シュエナンインタウ僧院群(1987年5月5日/5日め)

1987年5月5日 チャンジッタ ウミン洞窟僧院で。(ビルマ・パガン)


1987年5月5日(月)- 5日め


シュエズィーゴン・パゴダに来ています。


木の質感が素朴で美しかった仏塔。

屋根の繊細な装飾もすばらしい。^^

これが、37年で、み~んなこうなりました。😮(画像をお借りしました)

これはこれで、素朴で味があって、私は好きでしたが。

この頃歩いていたのは、小さな見習い僧と地元の方々だけ。


パゴダの中には入れないので、
このあとは、境内にある、
繊細な木彫装飾やナッ神を祀る祠などを
見て歩きました。


釣鐘を運ぶ、ユーモラスな人形。当時は、手を伸ばせば触れられるところにありましたが…、

現在は、金網の中に入れられているようです。汚れをふき取って、色も塗り直されていますね。あら? ペンダントがない。よく見ると、襟かざりや帽子の色も変わっています。なんだか、「間違い探し」みたいになってきました。笑(画像をお借りしました)


当時のシュエズィーゴン・パゴダには、
観光客の姿もなく、
地元の人たちの祈りと共に、
ひっそりと存在しているような場所でした。
そこにはただ、穏やかな時間が流れていました。


この日の、ここまでの経路です。チリピサヤホテルを出発したあと、私たちの希望で、まずはマニシトゥ・マーケット(Mani Sithu Market)へ。そこから引き返して、ティーローミンロー寺院とシュエズィーゴン・パゴダを訪れました。

このあとは、シュエズィーゴン・パゴダからほど近いところにある、チャンシットタールウミン洞窟僧院(Kyan Sit Thar Umin Cave Manastry)へ。地上に見えている赤レンガの建物は、僧院の半分だけ。残りの半分は地下にあります。


ここがなんという名だったのか、
メモも残っていませんでした。
なので、まずはそこから調べ始めました。
上の写真を頼りに調べたところ、
「チャンシットタールウミン
 (Kyan Sit Thar Umin)」

という僧院であることはわかったのですが、
それ以上の情報がわからず、グーグルマップでも、
場所を確定できませんでした。


それもそのはず。
現地では、
「チャンジッタ ウミン(Kyanzittha Umin)」
という、別の名前で通っていました。


【チャンジッタ ウミン(Kyanzittha Umin)】
11世紀初頭に、崖の表面に建てられた洞窟僧院です。チャンジッタ王の父親によって建てられたと考えられています。低いレンガの建物で、半分が地下、半分が地上にあります。建設時は僧院として使用されたため、内部には、僧が住むためのいくつかの小さな部屋があります。僧院内の壁には、11~13世紀に描かれた古代のフレスコ画があります。13世紀ごろに描かれたものは、1287年にモンゴル人が街に侵入したときに描かれた可能性が最も高いそうです。


僧院の内部です。僧侶のための部屋に通じる通路や洞窟が続いています。このときは靴を履いて入ることができたのですが、現在は係員がいて、裸足にならないと入れてもらえないそうです。

11~13世紀に描かれた壁画が、今も残っています。この僧院の壁画には、黄色が多く使われているという特徴があります。


現在は、入口に係員がいて、
「靴を脱いで裸足になるように。
 写真撮影は禁止です。」
と言われるそうです。


けれど、私たちが訪れた当時は、
ただのレンガの建物が建っているだけで、
係の人とか、誰もいないし、
まさか1000年近くも前のものだとは、
全然知らず…。😅
今回、調べてみて、初めてわかりました。笑


この僧院に、一般のツアーで行くことは
ほとんどないそうです。
ネット上でも、関連資料がほとんど見つかりません。
にもかかわらず、こんな珍しいスポットを、
私たちが訪れることができたのは、
モンモンさんが連れて行ってくれたからでした。
2日間にわたって、彼と行動を共にできて、
ほんとうによかったと思います。


これにて、パガンの見学はほぼ終わりました。私たちを乗せた馬車は、ニャウンウーからオールドパガンへと続く道を走り抜けました。

馬車から見えた、ウパリテインです。現在は、電柱はきっと撤去されていると思います。笑

現在のウパリテインです。上の写真と反対側から撮っています。(以下4枚、画像をお借りしました)


【ウパリテイン(Upali Thein)】
ティーローミィンロー寺院の近くにあります。授戒式(戒名を授ける儀式)を行うためのお堂でした。このお堂の名は、ナンタウンミア(Nantaungmya)王とチャズワ(Kyazwa)王の治世中に存在していた有名な僧、ウパリの名にちなんでいます。
建物の基礎は、13世紀の中ごろのものと推定されています。屋根は、木造建築であるかのように見える繊細な造りで、2列の胸壁で飾られており、中央に小さな塔があります。


2列の胸壁で飾られている、屋根の装飾がすばらしい。

内部の壁や天井は、美しいフレスコ画で装飾されています。17世紀後半または18世紀初頭のものだそうです。

あああ~、これはぜひ、中に入ってみたかった…と、今さら言っても遅いのですが。笑


なにしろ、2200もの寺院や仏塔が残るパガン。
私たちが実際に訪れ、
その中に入ったり登ったりできたのは、
ごく一部でしかありません。
このウパリテインのように、
「なんだかよくわからないけど、
 一応、写真だけ撮っておこう。」
なんてのもありました。


通りすがりのなんでもないパゴダでも、
37年もあとになって、
名前を調べ、その歴史を調べていると、
「通り過ぎることができないような、
 すごい寺院だったのだ。」
と、気づいたりします。
ほんとうに、パガンは広い。
2日間かけても、
全然、時間がたりなかったなあ…
と、今は思います。😅


ついでに言うと、このブログに掲載している、
寺院やパゴダのほとんどは、
名前をすっかり忘れてしまっていて、
「あー、これなんだっけ?」
って状態でした。😅


そのひとつひとつを、写真を頼りに、
夫に尋ね、ネット上で確認しながら、
ブログを書いていったわけですが、
中には、
「探しても探しても、関連資料がでてこない。
 夫も全然覚えていない。」
などという、難解物件もありました。


最後に残ったこの写真。これがなんだったのか、よく覚えていないのです…。


馬車を止めて、
寺院の前で写真まで撮っているのに、
これがなんだったのか、覚えていません。
パガンの寺院の写真をかたっぱしから見て、
同じものを探し当てるのに、3日かかりました。


あきらめたころに、ようやく見つかった写真です。2018年のもので、上の写真の反対側から撮っています。現在は、美しく修復されています。(画像をお借りしました)


ここは、
「シュエナンインタウ僧院群
 (Shwe Nan Yin Taw Monastic Complex)」
という、
いくつもの僧院が集まっているところです。
夫が撮った写真は、
その中のひとつだったようです。
この上に上がると、景色がすばらしいのです。


こんな感じに見えるようです。(画像をお借りしました)


おそらく、私たちも上に上がり、
同じように、下界を見たのだと思います。
なんとなくそんな気がしますが、
よく覚えていません(情けない…)。


2019年、パガンは世界遺産に登録されたので、現在はこんなふうに、各寺院の前にパネルが建てられています。なので今では、「これはなんだったのか?」と、後から考え込むことはなさそうです。😂(画像をお借りしました)


このブログを書くにあたって、
いちばん困難を極めたのは、
「この寺院の名前はなんだったか?」
を突き止めることでした。(アホ)
そのときには聞いていたかもしれませんが、
いまではすっかり忘却の彼方(情けない)。


けれど、撮った写真を手がかりにして、
あきらめないで根気よく探し続ければ、
最後にはネット上で、
どうにか探し当てることができました。
名前だけでなく、今や、
その位置まで確認できてしまいます。
すごい世の中になったなあ…と思います。


昔だったら、
み「ねえ、これ、なんだっけ?」
夫「わからない。全然覚えてない。」
み「だよね…。」
ですんでいたはず。


忘却の彼方にあった、37年前の旅の記憶を、
インターネットが、
もういちどとりもどしてくれました。


さて。
2日間にわたったパガン寺院めぐりですが、
ようやくこれで終わります。


本日訪れたところです。
 マニシトゥ・マーケット
 ティーローミィンロー寺院
 モンモンさんの家
 シュエズィーゴン・パゴダ
 チャンジッタ ウミン洞窟僧院
 ウパリテイン
 シュエナンインタウ僧院集合体


いまここ。😄


すでに午後も遅い時間になっていましたが、
モンモンさんの馬車に乗って、
オールドパガンを出発。
次の場所へと向かいました。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 15 - モンモンさんの家と、シュエズィーゴン・パゴダ(1987年5月5日/5日め)

1987年5月5日 シュエズィーゴン・パゴダで。(ビルマ・パガン)


1987年5月5日(月)- 5日め


ティーローミィンロー寺院を出て、
モンモンさんが次に向かったのは、
思いがけない場所でした。


なんと、モンモンさんのご自宅です。堂々たる佇まいです。

4人の子どもたちが、わらわらと出てきました。モンモンさん、こんなに若いのに、4児の父です。

お祭りの時の帽子をかぶって見せてくれました。


この子どもたちも、今は40歳くらいですね。^^
どんな大人になっているかなあ…。


どうして突然ここに来たのか、というと、
私たちにも、よくわかりません。笑
ただ、あの頃のオールドパガンには、
売店などはいっさいなく、
ペットボトルなんかもない時代なので、
飲み物を持ち歩くことができず、
水分補給ができなかったのです。
そのため、モンモンさんの家でお茶でも、
と考えてくださったのかもしれません、


じゃあ、お昼ごはんはどうしたのか?
ということなのですが、
これがですね。
いくら考えても、思い出せないのです…。🤣


夫の旅のスタイルは、
「夜討ち朝駆け、ごはん抜き」ですから、
このパガンでも、ごはんそっちのけで、
とにかくあちこち歩き回ったのかも。
でも、パガンの遺跡を見て歩くのは、
ほんとうに楽しかったので、ごはん抜きでも、
MIYOも怒らなかったようです。😄


じゃあ、モンモンさんのごはんはどうしたのか?
という、新たな疑問も出てくるのですが、
全然、記憶にありません。(スミマセン)
(私たちがパゴダの中を歩き回ってる間に、
 お弁当とかを食べていたのかもしれませんが。)


なにはともあれ、
モンモンさんの家でお茶をいただき、
少し休憩しました。
あの若さで、馬車ドライバーとして働き、
家族を養い、
立派な一戸建てに住んでいることに、
ただただ、感心するばかりでした。


さて。
モンモンさんのお宅でひと休みしたあと、
次に向かったのは、
シュエズィーゴン・パゴダでした。


ここで馬車を降りて、パゴダまで歩きました。中央に小さく写っているのが、私たちが乗ってきた馬車です。


【シュエズィーゴン・パゴダ(Shwezigon Pagoda/ရွှေစည်းခုံဘုရား)】
アーナンダ寺院と並んで、パガンを代表するスポットで、パガン近郊のニャウンウーにあります。パガン王朝を代表する宗教建築物です。11世紀に、タトォン国を征服し、バガン王朝を築いた初代国王アノーヤターと、3代目の国王チャンスィッターによって建立されたもので、後に建立されたビルマ式パゴダ(仏塔)の原形となりました。「シュエ」(ရွှေ)はビルマ語で「金」、ズィーゴンは「砂の河岸」、もしくはパーリ語で「祝福された土地」を意味します。絢爛豪華なパゴダは、3層の方形基壇と、その上にそびえる円筒型の仏塔で構成されていますが、全体が金箔で覆われています。高さは40m。日差しを受けて、神々しく輝く姿は、圧倒的な美しさです。
建設に着手したのは初代アノーヤター王でしたが、規模が大きすぎたためか、在位中は完成に至らず、息子のチャンスィッター王の時代に、ようやく完成しました。内部は見学できませんが、境内には、台座や境内のお堂にはジャータカ物語のレリーフや装飾があり、繊細な木彫装飾やナッ神を祀る祠など、見どころ満載です。


中央に見えている巨大な像は、ビルマの神話上の動物、チンネ(羽根のあるライオン)です。

当時夫が買った絵葉書。写真ではなく、「絵」です。

長々と通路を歩いて、ようやくパゴダが大きく見えてきました。

パゴダの前まで来ると、今度は大きすぎて、写真におさまりません。夫は分割して撮っていました。笑(下の2枚です。)

上の祠堂の中には、神像が並んでいます。

上の、分割して撮った2枚をつなぎ合わせるとこうなります。

現在の同じ場所です。😮(画像をお借りしました)

37年前。隔世の感があります。

現在のシュエズィーゴン・パゴダです。(画像をお借りしました)

パゴダの周囲にある仏塔たちも…、

現在はすべて金です。😄(画像をお借りしました)

よくぞここまでやってくれました。😅(画像をお借りしました)

お堂の壁や柱に施されていた、細かい装飾。ここに描かれているのは、ジャータカ物語。


【ジャータカ物語】
ジャータカとは、釈尊が前世に菩薩として修行していたとき、生きとし生けるものを教え導いたエピソードを集めた物語です。親しみやすい物語形式の中で、ブッダの教えが説かれています。歴史的には、「イソップ物語」や「アラビアン・ナイト」にも影響を与え、日本にも「本生話」「本生譚」としてその一部が伝えられました。仏教の教えを親しみやすく説いたジャータカは、テーラワーダ仏教の諸国で広く語り継がれています。


この装飾は、現在も変わりなく残されています。(以下2枚、画像をお借りしました)

お堂の中で、小さな赤ちゃんを抱いた女性と。カワイイ。^^


パガン最大の見どころと言ってもいい、
シュエズィーゴン・パゴダですが、
このときの写真をいくら見ても、
私たち以外に、観光客が見つかりません。
ほんとうに、私たちだけだったんだなあ…。😮
前日は一日じゅう、「パガン貸し切り」でしたが、
ここでもやはり、同じでした。


お参りに来ていた地元の女性に、
生まれたばかりの赤ちゃんを見せてもらったのを、
なつかしく思い出します。


観光客が誰もいない、ひっそりとした境内で、
私も夫も立ちつくし、ただ黙々と、
シュエズィーゴン・パゴダを眺めていました。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 14 - ティーローミィンロー寺院(1987年5月5日/5日め)

1987年5月5日 ティーローミィンロー寺院で。ビルマでは、すべての寺院内で、靴を脱がなければなりません。この頃は大丈夫でしたが、現在は靴下もNGだそうです。(ビルマ・パガン)


1987年5月5日(月)- 5日め


ティーローミィンロー寺院に来ています。


早速、上層に上がりました。

外壁の装飾が、今も残っています。

外壁の装飾は、1215年の建立時に施されたものです。

MIYOの後ろに居並ぶパゴダたち。はるか地平線のあたりで、けし粒のように小さく見えるのも、すべてパゴダです。

いつのまにかモンモンさんもやってきて、テラスでくつろいでいました。^^

この寺院の上で、ふたりの少年に出会いました。

Mg Tan paw (タンポー)くんとMg Aung nig(アウンニー)くん。アウンニーくんは髪がないので、たぶん、得度を終えたばかりだったのでしょう。

アウンニーくん、シャンバッグから小さな石の置き物を取り出しました。これを売っているのだそうです。ちなみにシャンバッグは、ビルマの人たちが普通に使っている布のバッグです。

4人でおしゃべりしながら、記念写真。^^

ここから、寺院群を見渡すことができます。

イラワジ川と…、

川のほとりに並ぶ、無数のパゴダたち。

テラスでしばし佇んだあと…、

シカラに向かって、みんなで、レンガの階段を上がりました。

最上層に到着。慣れてるふたりは平気で腰かけてるけど、実はすごいところに座っています。😄

恐る恐る、私たちも。😅

アウンニーくんが売っていたのは、この置き物ひとつだけ。買わなくてゴメンネ。😅 日本の絵葉書といっしょに見せてくれました。

絵葉書には、こんな感じの赤鬼の写真がありました。「石の置き物の顔と似てるでしょ。」と言いたかったようです。😄

アウンニーくんの後ろに見えていたイラワジ川と、川沿いの寺院群。

夫、シカラの周囲を左方向に歩きながら、周囲の景色を撮りまくっていました。笑

おお、シュエサンドー寺院、アーナンダ寺院、タビニュ寺院、タラバー門が並んでいます。^^

2200ものパゴダたち。それを考えると、気が遠くなりそうです。


どっちの方向を向いても、
見えるのは、寺院とパゴダばかりでした。


広大なオールドパガン。
このすべてが、人々の祈りの場でした。


(つづく)


(おまけのお話)


このときに撮った写真を、あとで焼き増しして、
タンポーくんとアウンニーくんに送りました。
「写真を送りたいから、住所を書いてね。」
とお願いして、書いてもらったのですが、
そのメモを見てびっくり。


Near Cooperative Hotel 
Koelone quarter
Pagan


これだけだったんです。🤣🤣
「**区の**ホテルの近く」
っていうのが、住所のすべてですよ。😅
まあたしかに、住民も少ないから、
これでわかるのかもしれません。


「番地もなくて大丈夫?」
と半信半疑でしたが、
この通りに書いて送りました。
その手紙は戻ってこなかったので、
たぶん、写真はふたりに届いたのだと思います。
のどかだった、パガンの思い出。😄


次回は、モンモンさんのご自宅にお邪魔します。^^

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 13 - マニシトゥ・マーケットとティーローミィンロー寺院(1987年5月5日/5日め)

1987年5月5日 マニシトゥ・マーケットで。(ビルマ・パガン)


1987年5月5日(月)- 5日め


旅の5日め。
ビルマに着いてから4日めになりました。


朝食は、ホテルのレストランで。
パン、コーヒーとゆで卵みたいな、
簡単な朝食だったような気がします。
そして、ホテルまで迎えに来てくれた、
モンモンさんの馬車に乗って、
この日も元気に出発しました。


この日、まず出かけたのは、市場です。
私も夫も、市場を歩くのが好きなので、
モンモンさんに、
「地元の人が利用する、
 市場に連れて行ってください。」
とお願いしました。


このときは、
「とにかく市場へ」
とばかり考えていて、
市場の名前も知らなかったのですが、
グーグルマップで確認したところ、
ニャウンウー(Nyaung-U)
というところにある、
マニシトゥ・マーケット(Mani Sithu Market)
を訪れていたようです。
このあたりでは、最大の市場です。


マーケットの屋内エリア。と言っても木造で、木組みと屋根があるだけです。場所代が高いのか、こちらに出店しているお店はさほど多くありませんでした。

ザルに売り物を入れて並べています。天秤棒で重さを測って売っていました。

むしろにぎやかなのは、屋外エリア。路上に野菜を並べています。

こちらの女性は、シャン族の方のようです。

こちらはお魚屋さん。

お供え用の花を売るお店。

それぞれが、自分の前に売り物を置いて、一列にずらりと並んでいました。

ひとりが売っているのは、1品か、せいぜい2品。小さな商いです。

夫が、「南沙織に似ている。😍」と言って大喜びしていたので(アホ)、撮らせていただきました。


この写真は37年前のものですが、
最近、同じ市場を訪れた方の写真を
ネットで見てみると、この頃と、
あまり変わっていないような気がします。^^


現在でもパガンでは、
コンビニ、スーパーマーケットよりも
市場の方が多いようです。
パガンの一般的な家庭には冷蔵庫がないので、
人々は、日持ちのしない食材を買い求めに、
ほぼ毎日、市場に来るそうです。
市場がまさに、市民の台所になっている、
という感じで、それは今も同じなのでしょう。


売っているものは少なかったけど、お土産物屋さんもありました。みなさん、お顔がタナッカーで真っ白です。^^

ロンジー用の布、漆器、楽器、糸操り人形を売るお店で。置いてあったギターを弾き始める夫。(←なにやってんだか。)


市場をたくさん歩いて楽しんだ後、
ようやく、本日の寺院めぐりです。


2200もの寺院やパゴダがひしめくパガン。こんな、小さくて名前もわからないようなパゴダもごろごろしています。^^


まず最初に訪れたのは、
ティーローミィンロー寺院でした。


ティーローミィンロー寺院に向かって進む馬車の上から撮りました。お馬さんのタテガミが写っていますね。😄


【ティーローミィンロー寺院(Htilominlo Temple)】
1215年、ナンダウンミャー王が、自身の即位を記念して建てた大寺院です。「ティーローミィンロー」とは、ナンダウンミャー王の別名で、「傘と王に好まれた」という意味です。前王が後継者を選ぶ際、傘が倒れた方向に座る者を選んだという説話があり、それが寺院の名の由来とされています。高さ50m。3層の構造を持つ、荘厳で美しい建物は、パガン王朝の円熟期を象徴するもので、堂内の1階、2階それぞれに、4体の仏像が安置されています。


「傘が倒れたところに座っている人」
を次期王に決めたとは…。
冗談としか思えませんね。
鉛筆転がして、「どれにしようかな~。」
みたいな…。
この王様、大丈夫だったのでしょうか。😅


ということで、このティーローミィンロー寺院なのですが…。現在は、この姿を見ることはできません。

だってこれが現在のティーローミィンロー寺院ですから。😅 全くの別人になっていました。(画像をお借りしました)

比較しやすいように、並べてみました。変われば変わるものですねぇ…。😮


すっかり美しくなってしまって…。😂
いやほんと、驚きました。
37年で、こんなに修復されるとは…。
門の周囲に写っている緑が、
37年分成長しているのも、笑えます。😄


ティーローミィンロー寺院は、
1975年の地震で、大きく破損したそうです。
それを、よくぞここまで修復した、
というべきかもしれません。
ビルマのみなさん、がんばったんですね。^^


…ということで、
高さ50mの、ティーローミィンロー寺院。


尖塔がなくなっていますが、巨大なシカラです。


次回は、ティーローミィンロー寺院の
最上層まで登り、
パガンの寺院群を眺めます。


(つづく)