コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 8 - 旧商家丸一本間家③(茶の間、仏間、奥の間)/ 本間キミさん(2022年6月19日/3日め)
(2022/08/03 17:00記)
2022年6月19日 旧商家丸一本間家で。(北海道増毛郡増毛町)
6月19日(日)
旧商家丸一本間家に来ています。
次は、茶の間に行ってみます。
廊下に面して、奥帳場と茶の間が並んでいます。
廊下の右側、手前に見えるのが奥帳場で、茶の間はその隣りにあります。
茶の間です。廊下側に柵があり、部屋の中には入ることができません。が、夫が反対側の土間に降りて、そこから撮りました。笑
【茶の間】
茶の間には、大きな神棚があります。新潟の宮大工によるものです。神棚が大きかったのは、海難で船を失うことも多かった泰蔵の信仰心の表れかもしれません。
障子のすりガラスは、明治期からのものです。茶の間と奥帳場の襖を取り払うと、広い空間となり、宴会などの際に使用されていたようです。
これは、廊下側から撮った写真です。柵があり、中には入れないようになっていました。奥の土間からの方がよく見えるのではないかと、夫が土間の方にまで行ってしまいました。笑
土間から撮った茶の間です。奥の庭まで、きれいに写りました。この部屋でもうひとつ注目すべきなのは、「駅~STATION~」の撮影で使われた、ということです。
映画の中のシーンです。長火鉢、障子、襖が、すべて同じものです。^^
左上には、巨大な神棚があります。
神棚の下の襖に描かれている絵は、昭和初期の日本画家、仙田菱畝(せんだりょうほ)によるものです。新潟県出身で、佐渡出身の本間家とは交流が深かったと伝えられています。本間家では彼の作品を多く所蔵しており、茶の間にある襖絵や客間に設置してある屏風などが彼の手によるものです。(画像をお借りしました)
次は、この廊下を引き返し…、
今度は左手に伸びる廊下を進みました。
廊下はコの字型になっていて、そのどこからでも、中庭を眺めることができるようになっていました。
ひとつめの部屋である、仏間に入ります。
仏間です。
左から、泰蔵の長男泰輔の妻キミ、泰輔、初代の本間泰蔵、その妻チエです。
【本間キミ】
泰蔵の跡を継いだ泰輔の妻キミは、松前藩の家老を務めた下国家の次女でした。婚礼の際には、丸一本間合名会社の所有する船が函館まで出迎えに参上し、その披露宴は4日にわたって行われるほど豪華なものでした。
泰輔・キミ夫婦は子供に恵まれず、甥の泰次を養子にもらいます。その後、本間泰蔵は、本間家の業務をすべて長男泰輔に託して隠居し、昭和2年に77歳で亡くなりました。ところがその翌年、後を継いだ泰輔も43歳で急死してしまいます。
泰輔の死後、妻キミは、5歳だった泰次を育てながら、気丈にも、本間家の暖簾をひとりで背負います。昭和の恐慌から戦中・戦後の動乱の中、本間家を守り通し、成長した泰次に後事を託しました。
私が、本間家でいちばんすごいと思うのは、
この本間キミさんです。
実は、ひとりめの養子だった本間一夫は、
5歳の時に、脳膜炎で失明しています。
一夫を連れて病院通いを続けるなど、
苦労も多かったことと思います。
全盲の一夫を愛情深く育てながら、
ふたりめの養子を迎えたところで、
夫泰輔が亡くなってしまいました。
キミの悲しみは深かったと思います。
けれどさすが、武家の娘。
すべてをひとりで背負い、ただ生きた。
そして、本間家を守り通した…。
その気丈さが、胸を打ちました。
現在の本間家の人々も、
「今があるのは、キミのおかげ」
と、語っているそうです。
本間泰輔・キミの婚礼写真です。(画像をお借りしました)
凛とした顔立ちの、本間キミさん。
激動の時代を、きっぱりと、
そして鮮やかに生き抜いた人でした。
仏間の隣りの、奥の間に行きました。
奥の間です。襖いっぱいに、漢詩が書かれていました。
【奥の間】
初代の本間泰蔵が晩年隠居部屋として使用した部屋です。泰蔵の死後は、長男泰輔の妻キミが住んでいました。 襖に描かれている漢詩は、明治の三筆として名高い書家、巌谷一六(いわやいちろく)によるものです。 丸一本間家合名会社が創立し、本間家の建築整備が完了した明治35年の夏に招かれ、完成の祝典に合わせて 揮毫しました。
漢詩は、向かって右から4枚が仲長統による「楽志論」、左側の2枚が作者不明で 、左壁面の4枚は『唐宋八家文』の蘇軾による「後赤壁賦」からの引用 です。
部屋の左半分だけを見ると、男性の部屋のように見えますが…、
右側に目をやると、女性の部屋であったことがわかります。
この部屋で、キミさんは何を考え、
日々を暮らしていたのでしょうか。
キミさんが使っていた鏡台を眺めながら、
そのきっぱりとした生きざまに、
思いをはせました。
(つづく)