MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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骨折でも信州。8回めの須坂へ 18 - 田中本家博物館⑧ 陶磁器から漆器、そして提重へ(2024年10月17日/2日め)

2024年10月17日 蒔絵水亀吸物椀(京都 江戸時代)(長野県須坂市・田中本家博物館)


10月17日(水)- 2日め


田中本家博物館を見学しています。
たくさんの陶磁器から、
一部だけをご紹介しました。
本当は、まだまだあり、
時間がいくらあっても足りません。😅


並んでいるのは、たくさんの伊万里たち。


最後に、印象に残ったものをもうひとつ。


青井戸茶碗 銘 岩水灰かつぎ茶碗(江戸時代)
箱書きと共に。 


この抹茶碗は、2010年1月26日に、
テレ東の「開運 なんでも鑑定団」で
鑑定されたことがある品物です。


【青井戸茶碗 銘 岩水灰かつぎ茶碗】
1862年(文久2年)に、須坂藩の殿様からいただいた、拝領品の茶碗です。青井戸茶碗とよばれる種類で、現在残っているものは名品ばかりです。田中本家にある青井戸茶碗は、土蔵の整理をしていて、偶然見つかったものですが、残念なことに、茶碗の表面は焼けただれ、灰色になってしまっています。1870年(明治3年)の須坂騒動で、屋敷が焼き討ちにあい、その時の火災で、田中本家の母屋とともに焼けてしまったためです。
この茶碗には箱書きがついており、そこには、「もとは、石川丈山という武将が『岩水』と銘をつけた茶碗であり、須坂藩の殿様から田中本家へ、その功労を称して贈られた品物」と記されています。箱書きの最後には「絶えやらぬ 流の末ろ 知られける 今も田中に出る岩水」と歌が詠まれています。


原型は留めているが、
器全体に灰をかぶっている青井戸茶碗に、
どのような価値があるのか。
それを確認するため、
田中本家から鑑定団に依頼したそうです。


【中島誠之助氏の解説】
火に入って無残な姿になっていますが、間違いなく、青井戸の名碗。もし火に入っていなければ3500万円したでしょう。このままだったら、ただの焼け茶碗。それがどうして価値があるかというと、「田中家の中にあるから」なのです。蔵に伝わった数々の古文書に、その来歴が記されており、そしてこの箱があります。江戸初期の漢詩人である石川丈山がこれを所持していて、岩水と銘をつけたものであり、須坂の殿様から拝領して大事にしていたことが記されています。
青井戸茶碗の名碗で、歴史の難を逃れた名碗に、重要文化財の「柴田」があります。1583年(天正11年)、羽柴秀吉に攻められた柴田勝家は、「信長公から拝領した青井戸を火の中に失うのは惜しい」と、三人の姫に持たせて逃がします。その茶碗は、諸家の手を経て、現在は根津美術館で重要文化財となっています。
茶碗の持っている歴史の重みは同じですね。大事になすってください。



田中本家博物館では、
鑑定額をあえて伏せてありましたが、
「番組の開運データベースをご覧ください。」
というヒントが、インスタに書いてありました。


そこで、のこのこと、
番組のデータベース(2010年1月26日)を
探し、調べてみました。笑
すると中島氏は、
田中本家の自己評価額20万円に対して、
350万円と鑑定しておられました。😮


ひとつひとつのうつわは、
「古いから値打ちがある。」
というだけではなく、
「それぞれが背負っている
 歴史やストーリーと共に
 今も存在し続け、大切にされている。」

ということに、さらに価値があるのだな、
と教えられたような気持ちです。


青井戸茶碗 銘 柴田(朝鮮・朝鮮時代 16世紀/根津美術館)(画像をお借りしました)
1580年ごろ、織田信長から柴田勝家が拝領したため、「柴田」と呼ばれています。幕末には、大坂の千種屋平瀬家に入り、1903年(明治36年)に藤田家に移り、のち根津嘉一郎の有するところとなりました。


およそ450年前、死に際に、
柴田勝家が三人の娘に託した思いを
今も語り続けている、
青井戸茶碗。
根津美術館へ、見に行きたくなりました。^^


さて。
次は漆器です。
こちらもすごいです。


蒔絵水亀吸物椀(京都 江戸時代)


私のような素人が見ても、
目を見張るような美しさなのですが、
田中本家博物館では、
こんなふうに展示されています。


料理:鮟鱇(あんこう)の濃醤仕立
濃醤(こくしょう)とは、江戸時代に流行した料理のひとつで、薄塩の味噌を濃く溶いて材料を煮た、具材の多い汁物です。煮物に近いものだったようで、現在の「鯉こく」は、濃醤の名残と言われています。


この椀に、アンコウを入れちゃったんですね。
もう、楽しすぎます…。


蒔絵若松文吸物椀(江戸時代)
料理:鴨肉の吸物
江戸時代には、獣肉が食べられなかったので、肉というと主に鳥肉でした。江戸時代の鳥肉の格付けでは、第一位は鶏、次いで白鳥でした。しかし、鶴は庶民には縁遠く、一般には、鴨が好まれていました。

黒塗椀と丸盆(輪島 江戸時代)
料理:お汁粉、独活(うど)
田中本家が客人に用意する汁粉は、こしあんだったと伝えられています。小豆は煮ると腹が割れるため、「腹切り」を連想させるとして、武家には縁起が悪かったようです。そのため、武家をもてなすことが多かった田中本家では、こしあん汁粉が食されてきました。

漆器だけでも、こんなにずらりと展示してありました。写真左端の大平が気になります。

蒔絵芦雁文大平(輪島 1837年/天保8年)
夫が撮ったので、いつものように上部が切れているのが残念。😔

1837年(天保8年)に、輪島六兵衛に注文した品です。当時の注文書が残されており、「芦の生える水辺で戯れる雁の模様にすること」と、絵入りで指示してあります。


こんな注文書を、
200年も保管されているなんて。😮
そして現在になって、
そんな古文書のひとつひとつを、
蔵に保管されている品と照らし合わせる作業を、
地道に行われていることに、
頭がさがります…。


蒔絵丸に九枚笹文葡萄文重箱(京都 江戸時代)

堆錦楼閣山水図重箱(琉球 江戸時代 19世紀)

屈輪彫(ぐりぼり)重箱(中国・明時代)


【屈輪彫(ぐりぼり)】
器体に何層もの色漆を塗り重ね、「メガネ」形や「ハート」形などの文様を彫り表わす、彫漆技法の一種です。


そして最後は、MIYOが大好きな提重です。
重箱、取り皿、徳利がひとつに収まる、
携帯用のお弁当箱でした。


朱塗提重(輪島 江戸時代)


【提重(さげじゅう)】
漆器の弁当箱です。安土桃山時代に作られるようになったと言われ、鷹狩りや茶会、花見の宴などの野外行事の際に使われました。江戸時代になると、大名をはじめとした富裕な人々が、重箱や徳利、酒器、取り皿がセットになった「提重」を野遊びに持参するようになります。それに従い、「弁当箱」は、贅を尽くした豪華なもの=工芸品・美術品になっていきます。この「提重」を用いた“大名弁当”は、それを代表するものと言えます。


生まれて初めて「提重」を見たのは、
2021年3月。
やはり、この田中本家博物館でした。
ですが、今回展示されていた提重は、
3年前に見たのとは違うものです。


さすが、田中本家博物館。
所蔵している提重は、
ひとつだけではなかったのですね。
実は、ほかにもあるのかもしれません…。😄


提重については、これまでに都度掲載しており、
しつこくてスミマセンが、
これまでにネットで見たり、
印象に残ったりしたものを、
MIYOの覚書として、
ここでもう一度まとめさせていただきます。


①「黄石公張良金蒔絵提重箱(こうせきこうちょうりょうきんまきえさげじゅう)」。新宿歴史博物館で、平成24年に期間限定で展示されました。(画像をお借りしました)

②長野県・田中本家博物館で見た提重。当主のご好意で、全パーツを、手に取って拝見させていただきました。
初めて提重というものを知った時の日記です。
コロナでも雛旅。古(いにしえ)の雛を訪ねる、4泊5日の長野・岐阜・愛知 10 - 江戸時代の「提重(さげじゅう)」(2021年3月27日/2日め)

③愛知県・徳川美術館で見た、絢爛豪華な提重。福君のお嫁入道具でした。(画像をお借りしました)
このときの日記です。

④北海道・白老の、仙台藩白老元陣屋資料館で見た提重。武家らしくきっぱりとしたデザインに、愛らしい梅模様が垣間見える逸品でした。

コロナでもポロト湖。星野リゾート 界 ポロト スイートを無料で楽しむ 16 - 仙台藩白老元陣屋資料館②(2022年6月21日/5日め)

⑤群馬県・積善館で見た提重。歴史ある名旅館ならではの所蔵品で、草花の蒔絵が描かれていました。
コロナでも上州2。からっ風に吹かれて歩いた群馬 2泊3日の湯めぐり旅 22 - 積善館④ 本館・歴史資料館②と湯車(2023年1月17日/2日め)

⑥長野県の牛方宿に置かれていた提重。中のパーツがすべてなくなっていたけれど、かつては美しい漆器であっただろうと思われました。江戸時代、提重は、大名や豪商など富裕層しか持てなかったのですが、そんな提重が、山合いの牛方宿で、牛小屋の隣りの台所にひっそりと置かれていました。
新緑の長野へ。塩の道から群馬の秘湯へと歩いた4日間 8 - 牛方宿③ 上座敷、縁側、そして提重(2024年6月12日/1日め)


日本のあちこちで、提重を見つけるたびに、
胸がときめきます。
どんな人が使ったのだろう。
お花見をしながら、お弁当を広げたのかな。
…などと想像しながら。


提重というものの存在を知ったおかげで、
旅をする楽しさは、
また少し広がったような気がします。
提重をおしえてくださった、
田中本家博物館に、感謝です。^^


(つづく)

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