MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
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をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
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小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
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骨折でも信州。8回めの須坂へ 11 - 田中本家博物館① 亀田鵬斎と萩 高蒔絵重箱(2024年10月17日/2日め)

2024年10月17日 田中本家博物館で。長野県須坂市)


10月17日(水)- 2日め


ホテルを出発して、
美しい山々を眺めながら、
夫の運転で走ること、約1時間半。


須坂市に到着しました。

朝11時。田中本家博物館に到着しました。


今回で8回めになります。
前回来たのは、4か月前でした。
そのときの日記です。
新緑の長野へ。塩の道から群馬の秘湯へと歩いた4日間 16 - 絶景を楽しみながら、田中本家博物館へ(2024年6月14日/3日め)

4年前、初めて田中本家博物館を訪れたときの日記です。
コロナでも雛旅。古(いにしえ)の雛を訪ねる、4泊5日の長野・岐阜・愛知 9 - 安曇野市の絶景と、田中本家博物館(2021年3月27日/2日め)


今回は、

「秋の江戸料理 再現食事会」

に参加するためにやってきました。


送っていただいた案内状です。


江戸時代から続く豪商・田中本家では、

当時、お屋敷で接待した際に供された

料理の記録が、田中本家に伝わる、

萬賄方控帳(よろずまかないかたひかえちょう)

諸客賄い方控帳(しょかくまかないかたひかえちょう)

に、全て残されています。

料理を記録したのは、

お客様に同じお料理をお出ししないための

心配りからだったそうです。


この諸客賄い方控帳を読み解き、

当時の料理を再現していただく、

というのが、「再現食事会」の趣向です。


今回の食事会では、

1848年(嘉永元年)10月に供した、

上田藩奉行 大平多喜治様ご接待料理

を再現していただきます。


1848年(嘉永元年)5月に、

上田藩主  松平忠優公が幕府老中に就任した際、

田中本家がお祝いをしました。

それに対して、返礼として、同年10月に、

上田藩奉行 大平多喜治が、

田中本家を訪問しています。

その折りに、大平奉行にお出しした料理が、

再現されるそうです。


「萬賄方控帳」の献立には、

 鮪刺身、孟宗竹、鴨、鯛切身餡掛、

 菊寒天寄、婦久羅計煮浸、松茸…

などが記されていたそうです。


これらの料理を再現するのは、

創業明治15年。140年以上にわたって

須坂に歴史を刻んできた老舗割烹、能登忠。

器には、田中本家に伝わる陶磁器や漆器から、

秋らしいものを選んでいただけるそうです。


お料理も楽しみですが、

歴史ある器を拝見できるのも楽しみです。^^


門を入り、庭を歩いたその先に…、

主屋があります。ここにはかつて、田中本家の第11代当主が住んでおられました。

玄関を入ってすぐの間で、まずは参加費を支払います。

そして奥の部屋へ。

この部屋は、二面がお庭に面しています。障子をすべて開けると、お庭のすばらしい眺めを堪能できます。

天井の照明です。もう何度も来ていたのに、照明に目をとめたのは今回が初めてです。なにか見覚えがある…と気になりました。つい先日訪れた、旧磯野家住宅(銅御殿)で、似たのを見たような気がします。

帰宅後写真を調べてみたら、やはりそうでした。^^ 銅御殿の3階にあった照明です。

このときの日記です。

秋のおでかけ - 旧磯野家住宅/銅御殿(あかがねごてん)① 表門(2024年10月11日)
秋のおでかけ - 旧磯野家住宅/銅御殿(あかがねごてん)② 車寄せ玄関と内玄関(2024年10月11日)
秋のおでかけ - 旧磯野家住宅/銅御殿(あかがねごてん)③ 書院棟と応接棟2階(2024年10月11日)
秋のおでかけ - 旧磯野家住宅/銅御殿(あかがねごてん)④ 応接棟3階(2024年10月11日)


さまざまなものを見れば見るほど、

今まで何気なく見過ごしてきたものにも

気づくようになるみたいで、

旅はさらに楽しくなります。^^


そして床の間。

お軸やお道具を拝見するのも楽しみです。


今回は一番乗りだったので、

他の方々がいらっしゃる前に、

じっくりと拝見し、写真を撮りました。^^


今回のお軸は、江戸末期の文人、亀田鵬斎です。

上の書とは、諸隊が異なっています。「鵬斎は越後がえりで字がくねり」という川柳が残されているそうです。


亀田鵬斎(かめだほうさい)

江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。鵬斎は豪放磊落な性質で、その学問は見識が高く、彼の私塾(乾々堂→育英堂→楽群堂)には、多くの旗本や御家人の子弟などが入門しました。彼の学問は折衷学派に属し、「すべての規範は己の中にあり、己を唯一の基準として善悪を判断せよ」とするものでした。従って、社会的な権威をすべて否定的に捉えていました。

松平定信が老中となり、寛政の改革が始まると、朱子学以外の学問が排斥されました。鵬斎も「異学」とされてしまい、千人以上いたといわれる門下生のほとんどを失いました。そのため、酒に溺れ貧困に窮しましたが、庶民からは「金杉の酔先生」と親しまれました。その後塾を閉じ、50歳頃より各地を旅し、多くの文人や粋人らと交流するようになりました。

1808年(文化5年)、妻が亡くなった悲しみを紛らわすためか、翌年日光を訪れました。そのまま信州から越後、さらに佐渡を旅しました。この間、出雲崎にて良寛和尚と運命的な出会いがありました。3年にわたる旅費の多くは、越後商人がスポンサーとして賄ったそうです。60歳で江戸に戻ると、その書は大いに人気を博しました。人々は競って揮毫を求め、一日の潤筆料が5両を超えたそうです。

鵬斎の書は、現代欧米収集家から「フライング・ダンス」と形容されています。その言葉のとおり、空中に飛翔し飛び回るような独特な書法で知られています。「鵬斎は越後がえりで字がくねり」という川柳が残されていますが、その鵬斎が最も影響を受けたのが、旅で出会った良寛でした。

1819年(文政2年)、私財を投じ、高輪の泉岳寺に、赤穂浪士の「赤穂四十七義士碑」を建てたことでも知られています。


海外で「フライング・ダンス」と称された、鵬斎の書。鵬斎は、佐渡へと旅する途中で、田中本家に滞在したそうで、そのときにこの軸を描いたそうです。その後、柏崎で良寛和尚と会うことになります。

毎回楽しみなお道具。今回は、萩 高蒔絵の重箱。

葵と桔梗の絵が、切金(きりがね)細工で描かれています。金銀盛り上げの見事な塗りです。切金細工とは、金銀の箔を種々の形に切って、模様の部分に貼る技法で、流水で洗ったあとにさらに漆を塗るという、手間のかかるものでした。

そして、愛らしいウズラの香合。


ほどなく、第12代当主・田中宏和氏が

入ってこられました。


(つづく)

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