秋のおでかけ - 旧磯野家住宅/銅御殿(あかがねごてん)④ 応接棟3階(2024年10月11日)
2024年10月11日 旧磯野家住宅/銅御殿(あかがねごてん)・車寄せ玄関で。(東京都文京区)
10月11日(金)
文京区にある国指定重要文化財、
旧磯野家住宅/銅御殿(あかがねごてん)
に来ています。
ここまでに、
表門
車寄せ玄関
書院棟
応接棟2階
を見せていただきました。
次は、中央が丸みを帯びた階段を上がって、
応接棟の最上階である3階に行きました。
3階は、四方向に窓が設けられており、
「物見の間」と呼ばれていた、
開放的で贅沢な空間でした。
四方向に窓が設けられた、応接棟3階の部屋。(画像をお借りしました)
窓の外には、銅板葺きの屋根が見えました。さらにその向こうには、日差しを受けて輝く、緑の庭園が広がっていました。
かつては、この窓から富士山も見えたので、
「富士見の間」とも呼ばれていたそうです。
さらに、反対側の窓からは赤城山も見えたそうで、
まさに、銅御殿の応接棟として、
賓客をお泊めするのにふさわしい部屋でした。
3階の和室に設けられた床の間は、茶道・表千家の茶室「残月亭」(京都)の書院をモデルにしてつくられた空間で、モダンで独創性のある空間になっています。左側にある明かり取りの窓は、緻密にデザインされた丸窓です。(画像をお借りしました)
同じ場所なので、こっそり掲載しましたが、怒られるかな…。😓
見学者全員が絵葉書セットをいただいたのですが、その中に、この丸窓の写真がありました。
この窓も、江戸時代の書物である「奪天工(だってんこう)」に掲載されている図案を基に考案されているそうです。
3階の和室上部の欄間。木を立体的に組み上げてあり、空間に彩りを添えています。(画像をお借りしました)
邸宅の所有者が大谷家になってから、
3階は、大谷家の書斎として
使われるようになりました。
その当時に使用されていた、大谷利勝(大谷哲平の長男)の机が、現在も残されています。
椅子の背後の壁だけが崩れています。
これは、2011年の東日本大震災で
剝がれ落ちてしまったものだそうです。
大正期の建物であるにも関わらず、
東日本大震災に遭っても、
被害を受けたのはこの壁の部分だけだった、
ということに、逆に驚かされます。
施主であった磯野敬は、建築に際して、
「とにかく頑丈な家を。
そのためには、
費用がいくらかかってもかまわない。」
と言ったそうです。
1912年に完成してから112年。
幾多の災害を耐え抜きながら、
現在も堂々とした佇まいを保ち続けている、
その堅牢性には、驚くばかりでした。
スミマセン…。😓
見学を終え、再び、車寄せ玄関の前に戻ってきました。
車寄せ玄関のさらに左側には、台所棟がありました。中は見学できなかったのですが、台所を中心に、洋室、和室、浴室などで構成されているそうです。
万が一、大災害で損傷した場合は、
台所棟のみを、邸から切り離せるように
造られているそうです。
台所棟を犠牲にしてでも、
書院棟と応接棟は最後まで守る、
という構想が、建設時からあったわけで、
まさに、「次代に残る堅牢な家」を
意図していたことがうかがえます。
あらためて、車寄せ玄関の屋根を見上げました。放射状に並んだ垂木の美しいこと。^^
そして、緑青に覆われた、銅御殿(あかがねごてん)。中央に見えているのは、応接棟の2階・3階部分です。
庭を歩くと、そこかしこで、銅板が張られた外壁を見ることができます。
晩秋には、この緑の外壁と紅葉が、見事な対比を見せることでしょう。^^
この邸宅が完成してから約50年後の
1961年のことです。
施工にあたった北見米造が、自身の晩年期に、
再びここを訪れました。
関東大震災や戦災にも耐え抜いた
旧磯野家住宅の姿を見て、
「この家は、およそ50年後には
国の重要文化財になると信じている。」
と話したそうです。
その言葉どおり、旧磯野家住宅は、
2005年に国の重要文化財に指定されました。
以後、公益財団法人・大谷美術館が
維持・保存にあたり、現在に至っています。
充実の1時間でした。
説明してくださった方々にお礼を申し上げて、
銅御殿(あかがねごてん)を後にしました。
「秋のおでかけ」は、
このあと、ランチ編へと続きます。
(つづく)