骨折でも信州。8回めの須坂へ 12 - 田中本家博物館② 萩 高蒔絵重箱とウズラの香合、そして食事会へ。(2024年10月17日/2日め)
2024年10月17日 「江戸時代料理 再現食事会」で。(長野県須坂市)
10月17日(水)- 2日め
田中本家博物館に来ています。
お庭に面した部屋で待っていると、
ご当主が入ってこられました。
田中本家 第12代当主・田中宏和氏です。(現在のご当主は第13代田中和仁氏です。)
お茶をいただきながら、
ご当主のお話を伺いました。
馬の茶碗は、九谷で焼いたものだそうです。
床の間に置いてあった、萩 高蒔絵重箱について、解説していただいた後、
重箱のパーツのひとつひとつを、回覧していただきました。蓋の、見事な塗りに圧倒されます。写真ではわかりにくいのですが、切金(きりがね)細工で描かれた葵と桔梗は、金、銀の部分が少し盛り上がっています。
ここからが、この「再現食事会」のすごいところ。まずは手袋が配られます。そして、重箱のひとつひとつを、手に取って拝見させていただけるのです。
ため息がでる美しさ。
重箱の内側です。大切に使い込まれていたことがうかがえます。
よく見ると、箱の裏側に葵の紋がついています。
上蓋の裏側にも、葵の紋がついていました。これは田中本家の紋ではないのですが、似た紋を調べてみたら、「二つ蔓葵の丸」というのがありました。当時、使用制限のあった葵紋が、どうしてこの重箱についていたのかは、不明だそうです。二つ蔓葵の丸は、徳川家や松平家で使われているそうなので、この重箱は、上田藩松平家とかかわりがあるのかもしれません。
【二つ蔓葵の丸(ふたつつるあおいのまる)】
葵紋は徳川氏の家紋として有名です。もともとは、京都の賀茂別雷神社、賀茂御祖神社の神紋ですが、江戸時代は葵紋の使用が制限されていました。また、徳川家康が天皇家から菊紋や桐紋の下賜を断って葵紋を使用し続けたことから、葵の紋はより格を上げることとなりました。
最後に、うずらの香合まで拝見させていただきました。
両手でいただくようにして拝見しました。床の間に置いてあったのを眺めただけではわからなかった、質感。^^
羽根の部分が取り外せるようになっていました。これが、「香合の蓋」になっていて、穿たれた穴から、香が出て行く仕掛けです。この穴は、普通に飾ってあると、ほとんどわからないようになっていました。
ご当主から、お軸やお道具について、
お話を伺ったあとは、
障子を開けて、お庭を拝見しました。
これは秋の庭。
このほか、邸内には春の庭と夏の庭があります。
お茶をいただいたあとは、お食事会の会場に移動します。お食事は、長い廊下の奥にある、広間でいただきます。
私たちの席は、床の間に向かって前列左側でした。
再現食事会は予約制で、
今回の参加者は13名でした。
コロナ禍に訪れた時、
参加者は、私たちを含めてわずか3名。
それを思うと、よくぞここまで、
参加者が増えてくれた、という気持ちです。
床の間のお軸は、矢沢 弦月。
秋の情感があふれる、暖かい画風です。
【矢沢 弦月(やざわ げんげつ)/1886-1952】
日本画家。長野県生まれ。上京し、久保田米僊(1852-1906)、次いで寺崎広業(1866-1919)に師事しました。間もなく、師広業の教える東京美術学校で学び、1911年(明治44年)に卒業。1913年(大正2年)、第7回文展で褒章となり、世間に知られるようになりました。1919年(大正8年)、第1回帝展出品の「朝陽」が特選となり、同年東京女子高等師範学校の講師となりました。1929年(昭和4年)、在外研究員として欧米に留学。帰朝後は、晩年にいたるまで官展に出品をつづけ、その間東京美術学校講師、日本美術学校教授等を歴任するとともに、朝鮮美術展、台湾美術展の審査員を行ないました。
床の間の反対側にあったお軸です。
落款と名前を見ると、青木大乗の作のようです。
【青木大乗(あおき だいじょう)/1891~1979】
明治ー昭和の日本画家。大阪生まれ。本名清一郎。関西美術院で洋画を、また京都絵専で日本画を学び、新燈社洋画研究所を開設しました。が、のちにこれを解散し日本画に転向。結城素明、川崎小虎らと大日本美術院を結成。戦後、これを解散してからは、無所属作家として個展を中心に活動しました。
さて、テーブルセッティングです。
薄紙を取ると、塗りの盃には、お酒が注がれていました。盃は輪島塗で、皆朱引き盃です。
まずは、全員で乾杯。^^
次回は、この日にいただいた、
再現料理をを掲載いたします。
(つづく)