もうひとつの、スピリチュアル体験 – ひまわり施療院 ①
1996年8月9日
一歳のお誕生日に、たくさんのプレゼントに囲まれて。(全盲難聴・のんたんと、双子の妹・あみちゃん 1歳)
一昨日のブログで、
「過去にも、スピリチュアル体験があった」
ということを書いたところ、
それについてのご質問をいただきました。
なので、過去、私が通っていたところで体験したことを、
ここに掲載したいと思います。
20年くらい前に、私がHPに掲載したものです。
長いですので、連載にします。
20年前、生まれて間もない長男(全盲)を抱いて、
無我夢中で、T先生のもとに通い続けたころの記録です。
長男はその後、耳も聞こえていないことがわかりました。
医師からも、「かなり難しい状態」と言われたのですが、
「だいじょうぶ。耳は治してあげる」
と言うT先生のことばが、
私たち夫婦にとっては、一縷の希望となりました。
今、音楽が大好きで、ウクレレの演奏を楽しむ長男。
その長男と過ごした日々の原点が、ここにあります。
(あくまで、私たち一家が体験したときの事例です。
効果を保証するものではありません。)
ふしぎな出会い - 1995年11月
のぞみの退院を目前に控えていたころ、私は、たまたま手に取った雑誌のある記事に眼を奪われた。そのころ、本を読む心のゆとりなどはほとんどなかったことを考えると、やはり、それもまた運命だったのかもしれない。
それは、ある気功師のことを紹介した記事だった。その女性は、これまでも末期のガン患者を何人も助けてきたのだそうだが、年明け早々から、市川市に施療院を開き、難病や障害を持った子どもたちのための治療を開始する予定だという。
私の目は、その記事に釘付けになった。もはや、これ以上医学でできることがないのだとしたら、もう、気功でもなんでもいい。できることはなんでも、のぞみにしてやりたかった。夫も、それには異存がないというので、私はすぐさまその気功師に手紙を書き、速達で投函した。
ただのまじない師と思ったら、そんなことに頼りはしなかっただろうと思う。だが、その記事は、私が長年購入していた有機野菜の宅配ネットワーク「らでぃっしゅぼーや」が発行していた機関誌に掲載されたものだった。市民運動として長年活動を続けてきたそのネットワークを信じる気持ちが、そのまま、その気功師に対する期待へと変わっていた。
手紙を出して一週間たっても、当然ながら、その気功師からの反応はなかった。施療院は一月にオープンするということだったから、まだ一ヶ月ほどあった。だが、私には、その一ヶ月を待つ余裕はなかった。のぞみは、年が明けたらすぐに目の手術を始めることになっていた。これでは間に合わない。電話番号を問い合わせたり住所を調べたり、あらゆる手立てをつかってその施療院へ直接行ってみようと思い立ったが、調べても調べてもわからなかった。私は、市川市の地図を見ながらため息をついた。
わかっていたのは、申し込みの手紙の送り先として、記事に記載されていた小金井市の住所だけだ。記事には電話番号すらなかったので、連絡の手だては手紙しかなかった。私は、あせる気持ちを懸命に文字に変え、再度、速達で送った。
「先生におすがりするしかないのです。何卒、何卒、よろしくお願い申し上げます。」と結んだその手紙は、多少、オーバー気味な内容になってしまったが、そのときの私は必死だった。当時の私たちにとって、行政などなんの助けにもならないとすでにわかっていたので、たしかに、もう私が頼れる先はここしかなかったのだろう。
不思議なことに、二通目の手紙を出したことで、私はなんだか気がすんでしまい、その施療院のことも、なんとなく忘れていた。もう、自分ができることはすべてやったのだ、という気持ちがあったのかもしれない。
電話が鳴ったのはそれから一週間後だった。受話器をとるなり、電話の主はこう言った。
「あ、田中ですけど。」
「は?」
「田中ですよ。お手紙くださったでしょ?」
私は、驚きのあまり、声もでなかった。それは、記事で紹介されていた施療者、田中喜美子先生ご自身だったのだ。会ったこともないというのに、まるでお隣りに住んでいるおばさんのように、彼女はきさくだった。
「網膜剥離はやったことがないので、治せるかどうかわからないけど、どうしてもと希望するならやります。私の自宅へ来てください。」
手術を控えていて、施療院のオープンの日まで待てないと手紙で懇願した私に、彼女は、特別に対応してくれたのだった。こうして、のぞみが退院してまもない12月中旬、のぞみへの施療が実現することとなった。
(つづく)