MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 95 - ミンマン帝陵⑤ 崇恩殿、ホアン・チャク・モン、中道橋から明楼へ。(2023年6月20日/7日め)

2023年6月20日 ミンマン帝陵・ホアン・チャク・モンで。


6月20日(月)


ミンマン帝陵で、ここまでに、
 大紅門
 碑亭
 顕徳門
 崇恩殿
…と歩いてきました。


崇恩殿です。表側には美しい拝殿がありますが…、

その裏側はこうなっています。ここはおそらく、従者たちが控える場だったのでしょう。

裏側から見た崇恩殿。瓦の色からして、表側とは違いますね。^^

崇恩殿を出て、さらに先へと歩きました。

前方に門が現れました。

ホアン・チャク・モン(Hoằng Trạch Môn)です。

門の先にあるのが、明楼です。

門をくぐると、目の前に別世界が広がっていました。橋を渡った先に、明楼があります。


手前にあるのは、池のように見えますが、
これは澄明湖です。
ここには3本の橋がかかっており、
その真ん中の橋を
中道橋(Cầu Trung Đạo)
と言います。


【中道橋(Cầu Trung Đạo)】
ベトナム語のチュンダオとは、文字通り、「中道」を意味します。王宮内でも、午門のすぐ先に「中道橋」があるのですが、この橋に「中道橋」と名づけたのは、初代皇帝であるザーロン帝でした。
「中道」と言う言葉には、「国の統治は、極端な圧政や不当な抑圧政策ではなく、儒教の精神に基づいて行われなければならない。」ことを、皇帝に思い出させる意味が込められています。


王宮の中にある中道橋です。午門のすぐそばに造られた池(太掖池)にかけられています。この橋はかつて、グエン朝の皇帝や中国の官僚たちが太和殿に入るために毎日通った道でした。(画像をお借りしました)

王宮・中道橋の日記はこちらです。
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 63 - 王宮④ 太掖池、中道橋、太和殿、そして右廡・左廡(2023年6月19日/6日め)


初代ザーロン帝への敬意をこめて、
この、王宮の中にある中道橋を、
2代ミンマン帝陵でも、
再現したものと思われます。


それでは、中道橋を渡って、明楼に行ってみます。

一日でいちばん暑い時間でしたが、MIYO、懸命に歩いてます。笑

橋の上から撮った明楼。

そして両側には、他の2本の橋があります。これは左側の橋です。

多動夫、すなおに中道橋を渡らず、左側の橋のその先まで行って、この写真を撮ったようです。😄

おまけに、カモくんたちまで撮ってました。🤣


多動夫の姿が見えなくなったので、
(↑よくあることです。)
MIYOはひとりで、
さっさと橋を渡ってしまったのですが、
そうですか。
橋の向こう側まで歩いていましたか。
どうりで、いくら待っても来なかったはずです。
やはり、多動ですね…。🤣🤣


さて、明楼に到着です。


待ちきれないMIYOは、先に明楼に入ります。😄


いまここ。😄


(つづく)

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 94 - ミンマン帝陵④ 崇恩殿(2023年6月20日/7日め)

2023年6月20日 ミンマン帝陵・顕徳門から崇恩殿を臨みます。


6月20日(月)


ミンマン帝陵に来ています。
 大紅門
 碑亭
 顕徳門
と歩き、崇恩殿に着きました。


崇恩殿です。


【崇恩殿】
ミンマン帝陵における、寝殿(礼拝堂)です。殿内には、ミンマン帝と皇后の位牌が祀られています。



おや、どこかに似ている…?
と思って、過去のブログを探してみました。


フエ王宮の中にあった、太廟です。
*1802年に建てられた廟です。フエ王宮における最大の木造建築物で、グエン王朝のルーツ(先祖)である広南国(1558年−1777年)の歴代皇帝を祀っています。

このときの日記です。
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 80 - 王宮㉑ 肇廟、太廟、門樓、そして午門へ(2023年6月19日/6日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


ミンマン帝陵:1843年に完成
太廟:1802年に完成
…ということで、年代的にも近いし、
どちらも廟ですから、
同じような感じになるのかもしれませんね。^^


それでは、崇恩殿の細部を、もう少し近くで見てみましょう。

まずは、屋根の中央部です。

左側

右側

龍のヒゲまで見えますね。^^

それでは、右端の入り口から中に入ります。

崇恩殿の内部です。

ここの扁額も、朱に鮮やかな金字で書かれています。

入ってすぐの部分。

さらに中央部には、拝殿があります。

そして左端の部分

天井部分の装飾も、落ち着いた色合いで、すばらしいですね。

崇恩殿の中から見た、顕徳門です。


次回は、明楼を歩きます。


いまここ。😄


(つづく)

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 93 - ミンマン帝陵③ 顕徳門、タ・トゥン・トゥとフー・トゥン・トゥ(2023年6月20日/7日め)

2023年6月20日 ミンマン帝陵・碑亭で。


6月20日(月)


ミンマン帝陵に来ています。


次のスポットである顕徳門は、碑亭の反対側なのですが、あまりにも遠いところにありました。床面は3つのステージに分けられており、これを段台状テラスと言います。

「疲れを知らない子どものように~」って歌がありましたね。😂


【ミンマン帝陵】
第2代皇帝ミンマン帝(明命帝/Minh Mạng・在位1820〜1841)の陵墓で、考陵と称されます。考陵は、1840年から3年かけて建設されました。完成前の1841年に、ミンマン帝は病が急変して亡くなったのですが、次代皇帝となったティエウチー帝が引き継ぎ、1843年に完成させました。ミンマン帝は、先代である初代ザーロン帝(嘉隆帝/Gia Long)と異なり、西洋文化を廃し、儒教的思想を重視しました。そのため、陵は中国の明や清の陵制を参考にしています。
陵は、フエ市街から15km離れた小高いカムケー(錦鶏)山にあります。周囲1750mの城壁に囲まれた陵内には、700mもの真っすぐな参道が延びています。その参道の上に、拝庭、碑亭、寝殿、陵墓など主要な建造物が配置されており、グエン王朝の最盛期を感じさせる威風堂々とした構成になっています。また顕徳門、崇恩殿、明楼には、約600点の詩文が美しく彫刻されており、オリジナリティーのある建築物となっています。
考陵は、川や池に囲まれながら、「拝庭」「碑亭」「段台状テラス」「寝殿(礼拝殿)」「石棺」という建物を配置しています。陵と優雅な大庭園がひとつに融合しており、皇帝の荘厳さを体現しているといえます。フエに残る帝陵の中でも最もととのった構成であり、「フエ屈指の美しさ」と言われています。


はあ、そうですか…。
「規模が大きい」というのが、
ミンマン帝陵の特徴なんですね。
ついさっき訪れたカイディン帝陵は、
碑亭と啓成殿だけだったので、
ここもそんなものかと思い込んでいました。😅


しょうがないので歩きました。炎天下、遮るものがなにもありません…。

拝庭は3つのステージに分けられており、それぞれ、3段の階段を上がることで、高さが少しずつ高くなっています。これは、建築の巨大さによる圧倒感を軽減するためだったそうです。

ここで振り返ると、碑亭がこんな風に見えました。

3つのステージを歩き終えて、ようやく、顕徳門の域内に入ります。

顕徳門です。


【顕徳門】
寝殿の前門です。入り口が3つあるのですが、真ん中は皇帝専用として閉じられています。


ようやくたどり着きましたが、
顕徳門は、その名のとおり「門」なので、
通り抜けるだけです。😄


左:顕徳門の内側から見た碑亭。
右:顕徳門の反対側です。

顕徳門を出ると、目の前にあるのが崇恩殿です。


このまま崇恩殿に行きたいところなのですが、
その手前、顕徳門を出てすぐのところに、
左右で対になったふたつの建物
 タ・トゥン・トゥ
 フー・トゥン・トゥ
があるので、まずはそこに寄って行きます。
このふたつは、ミンマン帝のもとで、
神々を崇拝する場所となっていました。
ふたつを総称して、
タイ フォイ ディエンと呼びます。


右手に見える、タ・トゥン・トゥ。

そして左手に見える、フー・トゥン・トゥ。オリジナルは、1843年に建設されました。1997年に、トヨタ基金の支援を受けて再建されたそうです。

整然と積み上げられた瓦。

普通の瓦と違いますね…。

…と思っていたら、見本が置いてありました。なんと、竹を組み合わせて造った瓦でした。

フー・トゥン・トゥの中に入ってみました。

ガラスに入れられて、たくさんの瓦が展示されていました。

それでは、いよいよ、崇恩殿(寝殿)に行きます。ミンマン帝陵の主軸とも言える場所です。

いまここ。😄


(つづく)

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 92 - ミンマン帝陵② 大紅門、拝庭の石像と碑亭(2023年6月20日/7日め)

2023年6月20日 ミンマン帝陵・碑亭で。


6月20日(月)


ミンマン帝陵に来ています。


入場ゲートでチケットを見せた後、さらに歩きます。まずは、広い湖にかかる石の橋を渡りました。橋の向こうに、なにか見えてきました。

拝庭です。かなり広いです。その左側に見えているのが、大紅門です。大紅門は、ミンマン帝陵の正門なのですが、ミンマン帝の遺体を運び込んだ時に一度だけ開かれたそうで、以後は閉ざされています。

その大紅門の手前には、たくさんの石像が並んでいます。

拝庭の両側に居並ぶ、文官・武官の石像たち。

これらの石像は、ミンマン皇帝の霊魂を守り、皇帝の死後に必要な生活のために作られました。

象や馬の石像もあります。

その石像たちのさらに奥に見えているのが、碑亭です。


【碑亭】
第2代ミンマン帝の功績が書かれた碑石(聖徳神功碑)が置かれています。碑文は、第3代ティエウチー帝(在位1841~1847)によるものです。


獅子の像だけは、なぜかガラスケースに入っていました。

なにも知らず、写真を撮っているMIYO。この碑亭の後ろには延々と帝陵が続いていることに、まだ気づいていません。😅

このときにMIYOが撮った写真です。

それでは、碑亭の中に入ります。

碑亭の中には、第2代ミンマン帝の功績が書かれた碑石(聖徳神功碑)があります。

碑石の向こう側に行こうとして、初めて気がつきました。

次に続く顕徳門が、あんなにも遠くにあることに…。帝陵があまりにも広いことにようやく気がつき、たじろぎました。

いまここ。😄


(つづく)

4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 91 - カイディン帝陵⑤ カイディン帝が残したもの。そして、ミンマン帝陵① 左紅門 へ(2023年6月20日/7日め)

2023年6月20日 カイディン帝陵・牌坊で。


6月20日(月)


カイディン帝陵に来ています。


美しいモザイクで覆われていた、礼拝堂と墓所を見学しました。

礼拝堂の左右それぞれには、一室ずつのホールが設けられています。ここは、墓の管理者のための部屋でした。

現在は展示スペースになっており、カイディン帝の写真が多数展示されていました。典礼衣装から軍服まであり、様々なシーンで写真を残していたようです。

母親(皇太后)が住む延寿宮 (Dien Tho Residence) を訪れるカイディン帝。
延寿宮の日記はこちらです。
4年ぶりのベトナム。北部から中部へと歩いた18日間 68 - 王宮⑨ 奉先殿、延寿宮、塀風門(ヒンプン)(2023年6月19日/6日め)

馬車で、王宮の中道橋を行くカイディン帝。

トゥドゥック帝陵を訪れたカイディン帝。


【フランスかぶれだったカイディン帝】
10代タインタイ帝、11代ズイタン帝と、フランスに反旗を翻した皇帝が続き、「今度こそ、フランスの意のままになる皇帝を」とフランスが見込んだのが、12代カイディン帝(啓定帝)でした。彼は、フランスの監督下で多くの法令を制定しています。が、その法令によって、フランスに異議のある多くのベトナム人
がフランス植民地当局に逮捕・投獄されることとなりました。カイディン帝とは、まさに、フランスの意向そのものであったと言えます。
フランスはさらに、科挙を廃止して、反仏勢力となりやすい知識人の影響力を弱めました。また、公文書の表記方法も漢文からクオック・グー(現代ベトナム語)に改めました。クオック・グーは、もともと、フランス人宣教師が布教のために考案したもので、フランス語の発音と文字のルールを基にしています。が、フランス植民地時代になると、フランス語の公用語化を押し進めるための補助的な道具として利用されていきました。
1922年、カイディン帝は、マルセイユ殖民博覧会に出席するためフランスを訪問しました。その際に見た大型建造物に多大な影響を受け、王宮内の建中殿を増改築する時にバロック様式にさせるなど、その姿勢は親仏的傾向が非常に強いものでした。

フランスかぶれで浪費家だったカイディン帝は、国民から多くの批判を受けました。しかしそれ故に、その陵墓は豪華絢爛で独特の外観を呈しており、皮肉にも、現在フエに残るいくつかの帝陵の中では、カイディン帝陵が一番人気なのだそうです。今では、フランス人を始め多くの外国人が訪れる、重要な観光スポットとなっています。


カイディン帝の指示で、バロック様式に改築された建中殿。


啓成殿を出て、出口へと階段を降りました。


碑亭と華表柱。ベトナム様式とフランス風バロック様式が融合した、独特の外観です。

そして兵馬俑を思わせる石像たちは、中国の影響を色濃く残しています。

石像たちに見送られて、門を出ました。

門の外では、ドライバーのチャンさんが待っていてくれました。^^

チャンさんの運転で、次はミンマン帝陵に向かいました。

午前10時、ミンマン帝陵に到着。まずはチケット売り場で入場券を買います。

前日、王宮と各スポットを合わせたセット券を買ったのですが、手持ちの現金が足りなくて、一か所分だけ、セット券を購入できませんでした。😅 ミンマン帝陵の入場料は、ひとり150000ドン(ふたり分で300000ドン)。150000ドン(約750円)あれば、食堂のごはんが2回は食べられます。ベトナムの物価で考えるとかなり高いです。

つづいて、広い野原を歩きました。石橋を渡った先に大紅門が見えているのですが、ここから中に入ることはできません。大紅門は、ミンマン帝の遺体を運び込んだ時に一度だけ開かれたそうで、以後は閉ざされています。

大紅門の手前にある、左紅門(タホンモン/Tả Hồng Môn)です。ミンマン帝陵には3つの門(正門の大紅門、東側の左紅門、西側の右紅門)があり、現在は、左紅門と右紅門が観光客用の入口になっています。

中央に、「左紅門」という文字が見えます。

ちなみに、こちらが右紅門です。外観は全く同じで、「左紅門」の文字が「右紅門」に変わっただけのようです。(画像をお借りしました)

左紅門をくぐって、ようやく入場ゲートに到着。ここで入場券のQRコードを読み取り、中に入ります。

この時点で、私たちはなんにも知らなかったのですが、実はミンマン帝陵というのは、こーんなに広かったのです。


しかも、私たちはまだ、
ようやく左紅門に着いたばかり。😅


ここからまたまた、
難行苦行が始まりそうです。
ほんと、遺蹟めぐりは体力勝負ですよ…。😂


(つづく)