MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
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埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 34 - ヤンゴン市庁舎、AYA銀行、エマニュエル・バプテスト教会、旧最高裁判所とラングーン駅(1987年5月8日/8日め)

1987年5月8日 AYA銀行の前で、フォーさんと。(ビルマ・ラングーン)


1987年5月8日(火)- 8日め


スーレーパゴダを後にし、
ストランドホテルへと、再び歩き始めました。


スーレーパゴダはダウンタウンの中心で、ロータリーになっており、そこから東西南北に道路が延びています。

そのロータリーで撮ったと思われる、一枚。


ビルマらしくない建物が、
ロータリーを囲むように並んでいます。
実はこのあたりは、
イギリス植民地時代に建てられた建築物が
数多く残っているエリアでした。
でもこの当時、
MIYOはそういうことに無頓着だったので、
あまりわからずに歩いています。😅


夫は、ヒンドゥー寺院だのパダウン族だのと、
興味の幅が広く、(←広すぎ)
関連する本などをやたらと読んでいます。
そしてなぜか、
「世界の文化」だの「民俗学」みたいなのは、
いちいち覚えています。
(MIYO家の「燃えないゴミの日」は、
 30年かけても覚えられないのに。🙄)


なので、このときもすぐに気がついて、
上の写真を撮っていました。
今さらですが、ブログを書くにあたって、
中央の美しい建物がなんであるか、
調べようとしたのですが、
これがなかなか見つからず、苦労しました。


これがロータリーにあったことすら
覚えていなかったので、
「ここはいったいどこだろう?」から始まり、
ラングーンの写真を半日かけて調べまくって、
ようやく発見。^^


「AYA銀行」でした。
2010年にミャンマー政府から認可された、
開発銀行だそうです。


現在の同じ建物。白く塗り変えられています。なかなか見つけられなかったのはこのためでした。😅(AYA Bankのサイトから画像をお借りしました)

真ん中の建物がAYA銀行であると判明したので、その両端もわかるはず。と、調べてみました。

上の写真の左端に少しだけ見えている尖塔を手がかりに探したところ、ヤンゴン市庁舎と判明。下の写真は現在の市庁舎です。尖塔の形がそっくりです。(画像をお借りしました)


【ヤンゴン市庁舎】
1936年に建てられました。ミャンマー最大の都市であるヤンゴンの市庁舎であり、市の行政機関であるヤンゴン市開発委員会の本拠地です。この建物の特徴は階段状の屋根で、pyatthatと呼ばれる伝統的な様式です。ヤンゴン中央鉄道駅も設計したビルマの建築家、ウーティン(U Tin)によって設計されたもので、ビルマのシンクロティック建築の好例と見なされています。


そしてAYA銀行の右にあるのは教会のようです。

現在のAYA銀行とエマニュエル・バプテスト教会。教会は、屋根に十字架が取り付けられてある以外は、ほとんど変わっていません。(画像をお借りしました)


【エマニュエル・バプテスト教会】
1885年、アメリカの宣教師によって建てられました。第二次世界大戦で破壊されましたが、1952年に再建されました。


ここまでわかると、地図上で、自分たちがどんなふうに歩いていたかが、はっきりと見えてきます。^^


37年前の写真に写っている建物を調べて、
地理も良くわかっていなかった自分たちが
当時歩いた道筋を、
写真を頼りにたどってみるというのは、
なにかとても楽しく、
わくわくするような作業でした。^^


次に、このAYA銀行と教会の間の道を入り、
交差点を右に曲がって、
さらに歩いたようです。


すると、道路の右手に、塔のようなものが見えてくるんですよね…。写真中央の赤いドームも気になります。

まず、上の写真の右に見えているのが、独立記念碑。マハバンドゥーラ公園の中にあります。これは現在の写真です。(画像をお借りしました)


【マハバンドゥーラ公園(Maha Bandula Garden)と独立記念碑】
公園の名は、第一次英緬戦争でイギリスと戦ったMaha Bandula将校に由来しています。この公園の中央に聳え立つのが、「独立記念碑(Independence Monument)」です。もともとこの場所には、英ビクトリア女王の彫像が置かれていました。が、それに代わるものとして、1948年のビルマ独立を記念して、この塔が建てられました。


そして、上の写真中央に見えていた、
「赤いドームのようなもの」は、
歩みを進めるごとに近づいてきました。


旧最高裁判所でした。

現在の、旧最高裁判所です。(画像をお借りしました)


【旧最高裁判所】
1911年に完成しました。ヤンゴンのコロニアル建築の中でも屈指の美しさを誇る、元最高裁判所です。イギリス人建築家による設計で、複雑でデザイン性に富んだクイーン・アン様式で建てられています。赤とクリーム色のクラシックな外装が美しい正面中央には時計塔がそびえ、両脇の台座には大英帝国のシンボルである獅子像が据えられています。
2006年のネーピドー遷都により、最高裁判所も新首都に移転しました。現在は、ヤンゴン地方裁判所として利用されています。


ここまで、スーレーパゴダからわずか550mの距離なのですが、夫がいちいち立ち止まって見入っているので、めざすストランドホテルにはなかなか行き着けないのでした。


このときのMIYOは、
ストランドホテルに行くことしか、
頭にありませんでした。
だから、同じものを見ていたのに、
大して気にもとめずに、歩いています。
自分に「受けとめる力」がなかったのだ、
と、今は思います。
「貴重な建築物を見る機会だったのに、
 惜しいことしたな。」
…と、今でこそ思いますが、
まあ、若い頃っていうのはこんなものですね。😓


ここで、今歩いているエリアについて、
最後にもう少し書いておきたいと思います。


ラングーンはかつて、
「東方のガーデンシティ」
と呼ばれたところでした。
そしてその中心だったのが、このエリアでした。


【東方のガーデンシティ】
イギリス統治下の19世紀中頃、ラングーンは、英国領ビルマの政治・商業の中心地として整備・開発されました。街には病院や大学、公園や鉄道が整備され、20世紀初頭には、都市インフラの充実度は当時のロンドンに並ぶほどに発展していたとも言われています。川や湖、南国の樹木が織りなす、自然豊かなラングーンの街には、伝統の木造建築と西洋建築が整然と立ち並び、その美しさから、「東方のガーデンシティ」と讃えられました。


ラングーンの中心部にあたる、
ダウンタウン一帯は、19世紀中頃に、
イギリスによって整備されたエリアです。
碁盤目状に延びる通りには、当時建てられた、
築100年を超えるコロニアル建築物が
現在も数多く残されています。
ラングーン(現在のヤンゴン)の歴史と文化を
今に伝える、貴重なエリアです。


私たちがかろうじて写真に撮っていたものを、
ここで掲載していきましたが、
ひとつだけ、漏れているものがあります。
私たちはそこに、3回も行ったのに、
写真を撮るのを忘れていました。


ラングーン駅です。


お借りした画像ですが、
ラングーンを代表するコロニアル建築として、
その写真を、最後に載せておきたいと思います。
現在は、ヤンゴン中央駅というそうです。


どうも、この大きな5本の柱の内側で、私たちはフィルムケースとか、売っていたような気がします。柱の間に車を停めているのも、37年前と変わらず。😅(以下2枚、画像をお借りしました)

このときの日記です。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 27 - 福祉冷水店とヤミ市(1987年5月8日/8日め)


【ヤンゴン中央駅】
1877年に、イギリス軍によって建設されました。第二次大戦中に日本軍に破壊されましたが、1947年に、現在の姿で再建されました。設計は、ヤンゴン市庁舎と同じく、ミャンマー人建築家ウーティンによるもので、英緬折衷様式の特徴である、多段式の屋根などが見どころです。


ここから始まった、ビルマの旅。

フォーさんに見送ってもらって出発。

その旅も、終わりに近づいていました。(画像をお借りしました)


次回は、最終話になります。


(つづく)

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