MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

ベトナム・カンボジアを歩いた14日間 51 - アンコールトム④ バイヨン・第一回廊(水上戦とワニに食べられる戦死者)(2024年1月17日/6日め)

2024年1月17日 バイヨン・第一回廊で。(カンボジア・シェムリアップ)


1月17日(日)- 6日め


アンコールトムのバイヨンで、
第一回廊を歩いています。


アンコールワットからここまで、こんなふうに移動しています。


バイヨンには二重の回廊があり、
外側の第1回廊の大きさは、
東西に160m、南北に140m、
内側の第二回廊は、
東西に80m、南北に70mを誇ります。


第一回廊の壁面には、
 当時の庶民の生活と風俗、
 隣国チャンパ軍との激戦のようす
が描かれています。


前日のブログでは、
 チャンパ軍とクメール軍の行進
 中国人の宴会

を見ました。


ここからは、
 チャンパ軍とクメール軍の水上戦
 魚やワニに食べられる、戦死者たち
が描かれています。


これは、トンレサップ湖での戦いを描いています。船を漕ぎ、進軍する、クメールの兵士たち。上部で踊っているように見える人は、全員を統率し、鼓舞しているのでしょうか。

さらに左へと進むと、今度はチャンパ軍の船に乗る兵士たちが登場します。

左側がクメール軍。そして右側はチャンパ軍です。両者の船の間では、激しい戦闘が繰り広げられています。トンレサップ湖での戦いは、クメール軍とチャンパ軍との戦いの歴史の中でも激戦として知られています。この戦いに勝利したことが、チャンパを破る大きなきっかけになったそうです。

水面は、犠牲となった兵士たちで埋め尽くされています。

船の下には、たくさんの死者が漂っているのですが…、

その死骸は、魚やワニに残らず食べつくされてしまいました。


凄惨な戦いのようすが描かれているのですが、
ここでもうひとつ見逃せないのは、
壁画の下の部分で、まるでおまけのように
描かれているレリーフです。
ここには、当時の人々の生活が、
いきいきと描かれているのです。


左から、ノコギリで木を切る人。トラに襲われ、木に登って逃げている人がいますが、解説では、バラモン僧とあります。そして、家の中でくつろいでいるようすも描かれています。

牛の親子と、農作業をする人々。素焼きの壺で煮炊きをしているようすも見えます。

木から大きな実を取って、家の中に運んでいます。パンの実でしょうか。樹液を採っている人も見えます。

なにかの治療をしているところなのでしょうか。


同じ壁画の中で、
上部には激闘のシーンを描き、
下部には、庶民のなにげない日常を
レリーフで残そうとした人の思いにも、
心惹かれるものがあります。


アンコールトムに描かれている、
このようなレリーフは、
当時の人々の生活や文化を知る、
貴重な手がかりとなっているそうです。


激闘を繰り広げる人々の下で描かれ続けている、穏やかな庶民の世界。不思議な構図です。

さらに歩きます。

第一回廊の壁には、延々とレリーフが残されているのですが、ときどきこんなふうに、出入り口が設けられています。

中をのぞいてみました。すると…、

第二回廊が見えました。林立する塔は、全部で49塔。それぞれに、観音菩薩が彫られています。


このまま入っていきたいところですが、
ここは通り抜け禁止。笑


引き続き、クメールとチャンパの戦いを見ながら、回廊を進みました。


(つづく)

ベトナム・カンボジアを歩いた14日間 50 - アンコールトム③ バイヨン・第一回廊(兵の進軍と祈る人々)(2024年1月17日/6日め)

2024年1月17日 バイヨン・第一回廊で。(カンボジア・シェムリアップ)


1月17日(日)- 6日め


アンコールワットの北にある、
アンコールトムに来ています。


【アンコールトム】
アンコールワットの北3kmにある、アンコール朝全盛期の宗教都城遺跡です。その名は、「大きな都」という意味で、アンコールワットの完成から50年後の12世紀後半に、ジャヤーヴァルマン7世により建築された城砦都市でした。一辺が3kmの堀と、高さ8mの城壁に囲まれており、5つの城門が築かれています。ここは、アンコールワットの3倍の大きさを誇り、10万人もの人々が生活していたと言われる古の王都でした。

中心に据えらえれているバイヨン寺院は、ヒンドゥ教におけるメール山(宇宙の中心にそびえる須弥山)を象徴化しています。そして周囲の城壁は、ヒマラヤの霊峰を表しています。 アンコールトムには、アンコールワットの宇宙観と多くの共通点を見ることができます。


左上にあるのが、アンコールトムです。左下に見えるアンコールワットよりもはるかに巨大であることがわかります。

出典:https://www.tourismcambodia.com


【アンコールトムの歴史】
1020年、スーリヤヴァルマン1世により、アンコールトムの建造が始まりました。その後、歴代の王が手を加え、12世紀後期にジャヤヴァルマン7世の手によって王都として整備され、最盛期を迎えました。
12世紀後期までの王都はアンコールワットでしたが、1177年にチャンパ軍の攻撃によりアンコール都城が占拠されます。 しかし1181年、ジャヤヴァルマン7世がアンコールワットを解放。1190年にはチャンパ王国を降伏させました。
ジャヤヴァルマン7世は、疲弊しきった国内を立て直し、地方へと通じる主要道路の整備し、病院や民のための施設を充実させるために、王都をアンコールトムに定めました。 バイヨン寺院が建設されたのはこの時です。 アンコールトムは、その後15世紀前半まで首都として機能し続けました。


大都市であったアンコールトムの、
中心にあったのがバイヨン寺院です。
かつて、この王都では、バイヨン寺院を中心に、
十字に道路が敷かれていました。


まずは、バイヨンのいちばん外側にある、
第一回廊を、時計回りに歩きます。


第一回廊の左側には石柱が建ち並び、右側の壁には、延々とレリーフが描かれています。


【第一回廊のレリーフ】
第一回廊の見どころは、全長470mにも及ぶレリーフです。そこには、チャンパ軍との戦闘の様子や庶民の生活、宮廷の様子が描かれています。長い戦闘の末にようやく手に入れた平和であることを、後世に伝えたかったのかもしれません。叙事詩が描かれているアンコールワットのレリーフとは違って、アンコールトムのレリーフは、当時の生活や文化を知る貴重な手がかりとなっています。


建ち並ぶ石柱にも、美しいレリーフが残されています。

躍動感のある、アプサラたち。アンコールワットのアプサラよりも、いきいきと描かれている気がします。

さらに進んでいくと…、

いきなり始まる、レリーフの世界。これは、チャンパ軍とクメール軍の行進を描いています。

像に乗る戦士、ゾウつかい、戦士の後ろに姿を見せている、小さな神様?。すべてが、かつての美しいままに残されていました。

ゾウつかいの腕には、丸い鉾が留められているのが見えます。そして下の方を進軍しているのは、中国から来た兵士たちでしょうか。

「中国人の宴会」のようすが、この壁画の下の部分に描かれています。(2010年7月26日)

ゾウも兵士も、いきいきと描かれていて…、

これは14年前に撮った同じ壁画。現在よりも壁の汚れが少なく、きれいです。(2010年7月26日)

これも14年前の写真です。(2010年7月26日)

ここまで完全な状態で残っていることに、圧倒されました。

背景の、樹々の美しさに見とれました。

上の壁画といっしょに撮った写真です。

神に向かって祈りを捧げる人々。夫が撮った写真です。同じ壁画を、MIYOもいっしょに見ているのですが…、

MIYOが撮っていたのは、この人々の右側で、音楽を奏でながら踊る、アプサラたち。笑 同じところにいても、それぞれに、撮る写真は違ってきます。

アンコールワットのアプサラよりも、手の動きが細かくなっているような気がします。

そしてここから、絵柄が変わりました。舟を漕ぐ人々です。下の方に、魚が泳いでいるのも見えます。


第一回廊のレリーフは、次回に続きます。


(つづく)

ベトナム・カンボジアを歩いた14日間 49 - アンコールトム② 南大門とバイヨン・第一回廊(2024年1月17日/6日め)

2024年1月17日 バイヨン・第一回廊で。(カンボジア・シェムリアップ)


1月17日(日)- 6日め


アンコールトムの入口である、
南大門に来ています。


南大門の表側。以下7枚、2010年7月26日に撮った写真です。

南大門の中央にそびえる塔の四面(東西南北)には、観世音菩薩の彫刻が施されています。その下には像が並び、一番下を支えているのは、3頭のゾウです。ゾウは、それぞれの角に3頭ずつ、全部で12頭いたようです。

これはヒンドゥー像なのか、仏像なのか、悩みます。😓

同じ南大門の、ゾウさんの前で。(2010年7月26日 長男と長女・14歳/中3)

14年前は、南大門の下を歩いてくぐりました。
(ところどころが曇っているのは、レンズに雨粒がついたためです。)

南大門の反対側に出ました。

ここからは現在です。南大門をくぐり抜けて…、

トゥクトゥクはさらに走り続けました。

そしてようやく、アンコールトムの中に建つ、バイヨン (Bayon) 寺院の東塔門に到着。


【バイヨン (Bayon) 】
アンコール遺跡群を形成する、ヒンドゥー・仏教混交の寺院跡で、アンコール・トムの中央付近にあります。バイヨンの呼び方で広く知られていますが、クメール語の発音ではバヨンの方が近く、「美しい塔」という意味です。
アンコール王朝の中興の祖と言われるジャヤーヴァルマン7世が、チャンパに対する戦勝を記念して、12世紀末ごろから造成に着手したと考えられています。が、石の積み方や材質が違うことなどから、多くの王によって徐々に建設されていったものであると推測されています。当初は大乗仏教の寺院でしたが、その後、アンコール王朝にヒンドゥー教が流入すると、寺院全体がヒンドゥー化しました。このような経緯があるためか、建造物部分には仏像を取り除こうとした形跡があります。また、仏教寺院でありながら、ヒンドゥーの神像があることなども、その名残りであると考えられています。


ついさっき、アンコールワットを4時間かけて歩いたばかりですが、次はアンコールトムです。ここがまたね。広いんですよ…。😔

しょうがないので、歩きます。笑

14年前の同じ場所で、子どもたちと。(2010年7月26日 長男と長女・14歳/中3)

ところで、このテラスには、大きな木が何本もあるのですが…、

その根っこの部分です。テラスに敷かれた石を押しのけて、元気に成長中。こういうのは、どうしたらいいんでしょうね。


バイヨン寺院は全体で、
三層に分かれています。
第一層は、東西南北の全てに門があります。
まずは、回廊になっている第一層から歩いてみます。


正面から向かって左側の部分です。ここが第一層です。とりあえず、こちら側から歩き始めることにしました。(左からだろうが、右からだろうが、多動夫といるかぎり、どうせ全部歩かされるんですけどね…。😂)

おや、涅槃仏でしょうか。写真が傾いて見えますが、夫の撮り方がヘタなのではなく、傾いているのは、後ろの石組みや地面の方です。😅

ここから、長い回廊が続きます。

回廊内には、いたるところに、美しいレリーフが残っています。

これは14年前に夫が撮った写真。(2010年7月26日)

「レリーフと同じように踊って。」と言われて、アホなポーズになりました。😔(2010年7月26日)

バイヨン、第一層の回廊です。お天気が違うと、全体の雰囲気がずいぶん変わりますね。(2010年7月26日)


こうして見ると、バイヨンは、
雨に濡れたときのほうがずっと、
美しい雰囲気を醸し出しているような気がします。


広大なバイヨンの見学は、
このあともまだまだ続きます。


(つづく)

ベトナム・カンボジアを歩いた14日間 48 - アンコールトム① 南大門へ(2024年1月17日/6日め)

2024年1月17日 アンコールトム・南大門で。(カンボジア・シェムリアップ)


1月17日(日)- 6日め


激動のビルマ日記をようやく終了できて、
頭の中はまだビルマなのですが、笑
今日からは、
アンコールワットの連載を終えたところで、
中断していた旅日記の続きを、
のんびりと書いていきたいと思います。^^


と言うことで、今回からは、
「ベトナム・カンボジア旅日記」です。
これまでの日記はこちらです。
2024年1月 ベトナム・カンボジアを歩いた14日間


この続きになる、第48話は、
4時間余りにわたったアンコールワットの見学を
終えたところから始まります。


私たちが歩く道の外側に、あぜ道のような細い道があり、地元の方々はそちらを歩いていました。カンボジアの伝統スカーフであるクロマーが見えます。頭に巻いたり、肩にかけたりしているようすが、いかにもカンボジアらしくて、つい写真を撮りました。

アンコールワットの入退場口近くにあったトイレ。


2010年に家族で来たときは、
こんなにきれいなトイレはありませんでした。
あれから14年で、
ずいぶん整備されたと思います。


入退場口まで戻ってきました。


この場所で、
私たちをここまで連れてきてくれた、
イエップさんが待ってくれているはずです。


この日一日、私たちを乗せて走ってくれたトゥクトゥクと、ドライバーのイエップさんです。


イエップさんの姿を目で探していると、
すぐに彼が、どこからともなく現れました。
4時間以上も出かけたきりだったのに、
私たちが戻るとすぐに姿を見せる…。
タクシーやトゥクトゥクを貸し切りにすると、
たいていみなさん、こうなんですよね。
待ち合わせ場所に戻ると、
すぐに私たちを見つけて現れてくれるので、
待たされた記憶がありません。
いつも、すごいなあ、と思います。


お水を飲んで、アイスキャンデーを買ってひと休みしているうちに、イエップさんが、駐車場に置いてあったトゥクトゥクに乗って戻ってきました。お水は、前日のバスでもらったものですが、ラベルにはアンコールワットが描かれていました。


時刻は午後1時半。
アンコールワットで時間を忘れて歩きまわり、
まだお昼ごはんを食べていません。
なので、イエップさんに、
「次のスポットに行く前に、
 食事ができるところに
 連れて行ってください。」
とお願いしました。


トゥクトゥクに乗って、出発! 後ろの方にちんまりとアンコールワットが写っているのが、夫のこだわり。笑

イエップさんが連れて行ってくれたのは、観光客向けの小さなレストラン。「お水が冷えてる。」「氷がたくさん入ってる。」とうれし泣きしながら飲みました。ちなみに私たちは、東南アジアの氷でお腹をこわしたことはありません。笑

アンコールワットでゆっくりしすぎて、あまり時間がなかったので、簡単なものを注文し、さっさとすませることにしました。MIYOはエビチャーハン。

夫は、春雨スープ麺。


ふたりがそれぞれに食べたいものを選び、
どちらもシェアしながら食べるのが、
MIYO家流です。^^


20分でランチをすませ、トゥクトゥクに乗って再び走ります。

あっ 向こうの方に、なにか見えてきました。

アンコールトムの入口、南大門です。


【アンコールトム(Angkor Thom)】
アンコール遺跡群の1つで、アンコールワット寺院の北に位置する、巨大な城郭都市の遺跡です。約3キロメートル四方の京城であり、幅100メートルの堀と、ラテライトで作られた8メートルの高さの城壁で囲まれています。特に、中央に建つバイヨン (Bayon) 寺院が有名です。「アンコール」は、サンスクリット語のナガラ(都市)からでた言葉。また「トム」は、クメール語で「大きい」という意味です。「大きい都市」という名のアンコールトムは、周囲の遺跡とともに、1992年、「アンコール遺跡群」として、ユネスコの世界遺産に登録されました。


南大門で。


【南大門】
アンコールトムと外部とは、、南大門、北大門、西大門、死者の門、勝利の門の5つの城門でつながっています。各城門は塔になっていて、塔の四面(東西南北)に観世音菩薩の彫刻が施されています。また、門から堀の上にかかる橋の欄干には、乳海攪拌を模したナーガの石像が置かれており、このナーガを引っ張る阿修羅と神々の像もあります。 


まだアンコールトムの中に入っていないのですが、もうすでに、この時点で感動。^^

居並ぶ石像は阿修羅と神々たちで、左右それぞれ、54体ずつあります。全員で、ナーガを引っ張っています。

右側に並んでいるのは、阿修羅像。

トゥクトゥクを降り、橋の上を少し歩いてみました。

ナーガを先頭に、ずらりと並ぶ石像たち。右側にあるのは、神々の像です。

まさに、アンコールワットの乳海攪拌図のようです。

アンコールワットの乳海攪拌図の日記はこちらです。
ベトナム・カンボジアを歩いた14日間 34 - アンコールワット⑦ 第一回廊(天国と地獄、乳海攪拌)(2024年1月17日/6日め)

乳海攪拌図の神々と同じ、とんがり帽子をかぶっています。^^

南大門を背に、右と左に並ぶ、阿修羅と神々。

14年前の、同じ場所で。(2010年7月26日 長男と長女・14歳/中3)

14年前に見た、南大門。少し雨模様の日でしたが、雨に濡れた南大門はぐっと深みのある色合いになり、観世音菩薩の彫刻も、はっきりと見ることができました。(2010年7月26日)



さて、トゥクトゥクに戻りました。これから、あの門の下をくぐり抜けます。


次回は、アンコールトムを歩きます。


(つづく)

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 35 - ストランドホテルの晩ごはんと軍票。そしてフォーさん、チーレィさんの思い出。(1987年5月8日-10日/8日め-10日め)

1987年5月2日 ラングーン駅で。(ビルマ・ラングーン)


最終話になります。
長い連載におつきあいくださり、どうもありがとうございました。


1987年5月8日(火)- 8日め


フォーさんといっしょに、
ラングーンのダウンタウンを歩いています。
旧最高裁判所のから、通りをさらに直進して、
ようやく、めざすストランドホテルに着きました。


現在のストランドホテルです。(画像をお借りしました)


【ストランドホテル(Strand Hotel)】
1901年に開業した、ビクトリア様式の名門ホテルです。シンガポールのラッフルズやペナン島のE&Oと同じく、サーキーズ(Sarkies)兄弟によって建てられ、サマセット・モームなど、多くの著名人に愛されてきました。正面に円柱が並ぶビクトリア様式の華麗な建築美はそのままに、内部は改装を重ね、高級ホテルとなりました。
第二次世界大戦中の1941年には、日本軍がホテルを接収し、ホテル内の一部を馬小屋として利用した時期もあったそうです。また、開業以来、ビルマ人はホテルを利用することができない時期が続きましたが、1945年以降になって、ようやく、ビルマ人が宿泊できるようになりました。
1993年の全面改装後は、全室スイートの最高級ブティックホテルとなりました。2017年にプールが増設されたあとも、その外観は保たれており、内部でも、チークと大理石の床、マホガニーの家具、天蓋付きのベッド、年代物のバスルームなどに歴史が偲ばれ、ヤンゴンを代表するホテルとなっています。(ヤンゴン市遺産リストに登録されました。)


「夕方6時に、ストランドホテルの
 ロビーで会いましょう。」
と、Sさん、Kさんと約束していました。


この日のお昼に、
Sさん、Kさんとランチをご一緒したとき、
「ストランドホテルって、知ってるよね?
 ビルマ最後の夜だし、
 あの有名なホテルに、
 泊まるのはちょっとムリだけど、
 せめてごはんくらい食べて、
 高級ホテルを見学するっていうのはどう?」
と提案したのは、もちろんMIYO。(アホ)


あのころは、みんな20代。
貧乏旅行ばかりしていたので、
ラングーンの最高級ホテルに泊まるなんて、
だれも想像もしていません。


「でも、ごはんくらいなら…。」
「雰囲気くらいは…。」
「建物も見てみたいし…。」


など、それぞれの思惑が一致し、
話は即決。
それぞれが、午後を好きなように過ごし、
夕方6時に、ストランドホテルで
再び集まろう、ということになりました。


この時、私と夫の頭の中には、
「会えるかどうかわからないけど、
 もしもこのあとで会えたら、
 夕食はフォーさんもいっしょに。
 今度は私たちがごちそうしなくては。」
という思いがありました。


なので、このあとシュエダゴン・パゴダで、
無事、フォーさんに会えたときに、
「今日は、夕食をご一緒してください。」
と、お願いしてありました。


ホテルの中に入ると、ちょうど、結婚披露宴が催されているところでした。ビルマ族の盛装をまとった、新郎新婦です。

参列している女性の衣装もすてきでした。


私たちが泊まることもできない高級ホテル。
そこで、豪華な結婚式を挙げられる人って、
どれくらいお金持ちなんだろう…。
なんて思いましたね。笑


こちらは、ビルマに到着した日に、たまたま見かけた結婚式。ビルマに住む華僑の結婚式のようでした。

ストランドホテルのレストランで。左から、Sさん、Kさん、夫、フォーさん。

いったいなにを食べたのか、まったく覚えていないのですが…。

テーブルの上をよく見ると、どうも西洋料理だったみたいです。😅

ちなみに現在は、ストランドホテルでディナーをいただくとこうなります。🤣🤣

カフェでは、英国式のハイティーが人気で、連日、欧米人でいっぱいだそうです。


私たちが食事したのは、
どちらのお店だったのでしょうね…。🙄
(どうでもいい情報ですが。笑)


5人での食事を終えたあと、
フォーさんは帰って行きました。
帰り際、フォーさんから、ビルマのお土産を
たくさんいただいてしまい、
またまた恐縮してしまいました…。


旅行中、私たちが買ったお土産は、
会社でばらまくための、
小さなお茶のパックくらいだったので、
フォーさんからいただいたお土産が、
いちばんりっぱなビルマ土産だったかも、です。


私たちが買ったお茶の包み紙です。ティーバッグ10個分くらいのお茶の葉が入っていて、1個3円くらいだったかと。(←そんな安いのをばらまいたのか?😅)


夫は、なんでもアルバムに貼っていたので、
ブログを書くのには助かりました。
その夫ですが、
「ビルマのスターのブロマイド」だの、
「チンロンの球」だの、
日本に持ち帰っても絶対に使わないモノを、
なぜか買ってしまうという病気なのは、
以前にも書きました。
ブロマイドを買った話。
埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 21 - 糸操り人形劇「ヨウッテー・ポエー」(1987年5月5日/5日め)
チンロン球を買った話。

埃まみれのビルマ。バックパッカーの10日間 22 - タウンジーを経てニャウンシュエへ。チンロンを見る。(1987年5月6日/6日め)


夫が買った、スターのブロマイドとチンロン球です。


でも、夫が買ったもののなかで、

いちばん笑えたものはこれだった、

と思うものがあり、最後に、

それについて書いておきたいと思います。


これがなんであるか、おわかりでしょうか…。


これは、第二次大戦中に、

日本政府がビルマで発行した紙幣で、

上から、

 10セント、1ルピー、5ルピー、10ルピー

です。

それぞれに、JAPANESE GOVERNMENT と、

印刷されています。


戦時中、日本軍は、現地で物資を調達し、

この「軍票」と呼ばれる紙幣で

代金を支払いました。

ですが、日本が敗戦すると同時に、

この紙幣は紙くずになってしまいます。

そのため、ビルマで、

物資の代金を軍票で受け取っていた人々は、

大きな被害を受けました。


ビルマを旅行中、夫と歩いていて、

なにげなく通り過ぎたお土産物屋さんで、

この「軍票」を置いてあるのを、

夫が見つけてしまいました。


代金として受け取ったつもりの軍票が

日本の敗戦時に紙くずになってしまい、

そのまま、捨てられることなく、

ビルマに残されていたようです。

その軍票が、流れ流れて、

お土産物屋さんで売られている、

…ということなのでしょうか。


「あっ オレ、これ買う!」

と、夫はいつものセリフを言いました。

「日本がばらまいて迷惑をかけたんだから、

 日本人として、

 これを見たからには買わなくちゃ。」

と…。


夫の気持ちはわかるけど、

お店には軍票が束で置いてあったし、

「あなたがここで、

 その中の何枚かを買ったところで、

 なにも解決しないよ。」

と、MIYOは思いました。


でもまあ、大した金額ではないし。

当時の夫は、とにかく、

「ビルマでしか買えないようなものは、

 なんでも買いたい。」

みたいなところがあったので、

ビルマの人々へのお詫び半分、

ビルマのコレクションを増やしたい気持ち半分、

…だったと思います。


帰国後、夫は、その軍票をアルバムに貼り、

今日に至るまで、大事に保管しています。

でもこの話には、後日談があります。


大戦中、日本軍はたしかに、

大量の軍票をビルマで発行し、使用しました。

そしてビルマから敗走するとき、

ばらまいた軍票を全部放置したのですが、

その軍票を作るための版下もまた、

そのまま、ビルマに残してきたそうです。

(もう必要ないですからね…。🙄)


おわかりでしょうか。

現在、ビルマのお土産物屋で売られている軍票は、

その、日本軍が残していった版下を使って、

ビルマ人がせっせと印刷したものなのです。😮


み「あなたはいったい、なにを買ったの?

  日本軍がばらまいた、軍票?

  それとも、

  ビルマ人が作った、子ども銀行券?💢」

夫「まんまとだまされたよなあ!

  あっはっは。」


…全然、反省の色はありません。😔


ストランドホテルで、知り合った女性と。ハワイから来たそうです。これが、この日の最後の写真になりました。


1987年5月9日(水)- 9日め


ビルマ最後の日です。

この日の朝のフライトでバンコクに戻り、

私たちのビルマ旅は終わりました。


ラングーン空港で。


このあと、バンコクで一泊し、

翌10日に日本に帰国するのですが、

私も夫も、

完全に抜け殻のようになっていたようで、

このあとの写真が、一枚もありません。

なので、旅日記としてはここで終わりますが、

その後のお話を、書いておきたいと思います。


この一年後、私たちは、

チーレィさんというビルマ人留学生から、

手紙を受け取ります。

「ビルマの日本語学校で、

 フォーさんと同級生でした。

 フォーさんからおふたりを紹介されました。」

と。

ほどなく、銀座で待ち合わせ、

いっしょに食事をしました。


チーレィさんは、留学生として来日しており、

新聞配達をしながら、勉強を続けました。

在学中に、中国人の同級生と結婚したあと、

東海大学を卒業しました。

日本では就職することなく、卒業と同時に、

グリーンカードを取得して、渡米。

未知の国に行き、仕事し、会社を経営して、

家族(妻と二人の子どもたち)を支えた彼は、

ビルマと中国から両親を呼び寄せ、

みんないっしょに、アメリカで暮らしました。

本当にりっぱだったと思います。


アメリカから日本に一時帰国したときのチーレィさんと。日本に来たときは必ず連絡してくれ、いっしょにごはんを食べました。チーレィさんとのご縁は、30年以上続きました。

このときの日記です。

ビルマの竪琴を、あなたと。~高田馬場 「ミンガラバー」で、ビルマ料理~(2018年4月15日)


「今、ガンで入院しています。」

というメールをもらったのは、2019年。

「私も、3年前に手術したばかりです。

 いっしょに生き延びましょう。」

と返信したのが、最後になりました。


そんなチーレィさんと私たちを結びつけてくれたのが、ラングーンで会った、フォーさんでした。


フォーさんは、

「いつか日本に行きたい。」

と願っていたのですが、かなわず、

その後、マレーシアに働きに行きます。

何年も一生懸命働いてお金を貯めたのですが、

詐欺に遭い、全てを失ったそうです。


2017年3月、チーレィさんはビルマに里帰りしました。そのときに、フォーさんと会ったそうです。いっしょに撮った写真をメールで送ってくれました。


メールには、

「誰だかわかる?」

と書いてありましたが、

ええ、もちろんわかりましたよ。^^


マレーシアですべてを失ったフォーさんは、

帰国し、お坊さんになったのだそうです。

いろんなものを越えて来たフォーさんの、

現在の穏やかな表情を見ていると、

37年前、いっしょに歩いた日のことが、

まるで夢のように思えてきます。


私たちとフォーさんを再びつないでくれた、

チーレィさんも、大切な友人でしたが、

今では帰らぬ人となりました。


私たちはこうして、いろんな人や物を

失くしながら、その痛みを抱えながら、

それでも、今を生きていくのだと思います。


私と夫は、そもそもどうしてビルマに行ったのか。

それは、1987年のはじめに、

馬来由貴さんの「みんがらばぁビルマ」を

読んだことがきっかけでした。

冒頭の、

「ビルマに行ってきました。

 あれから、いくら時間がたっても

 しみじとした何かが消えません。」

という文章に、今は深くうなずくばかりです。


私たちも、なのです。

37年もたったのに、今でも、

「しみじみとした何か」が、

胸の中にずっと残っているのです。

ビルマは本当に、そんな力がある国でした。


すばらしい国だった、ビルマ。

でも、いちばん忘れられないのは、

旅の途中で会った、たくさんの人々。


ラングーンからマンダレーへ。

パガンからニャウンシュエへ。

得度のお祝いにも闖入し…、

誰もが笑顔だった、あの日。

家にも招いていただきました。

ビルマはほんとうに、子どもが多かったなあ…。

家の前を通りがかっただけで、ごはんを食べさせてもらいました。笑

やさしかった、アウンおじいちゃん。


37年前、

こんなにものびやかな国があったことを、

これからも忘れられないと思います。


長い長いお話におつきあいくださり、ありがとうございました。


そういえば、

「このマンダレー駅、

 歴史のある、いい建物だったのに、

 全部取り壊されたんだよね。」

と、夫はいつも残念がっていました。


現在のマンダレー駅です。(画像をお借りしました)


でも先日、夫が言いました。

「駅舎が全部なくなったと思ってたけど、

 オレたちの後ろに写っていた、

 ロータリー部分だけは、

 現在の写真にも残ってるのがわかった。」

と…。


37年前の、1987年5月3日。

私たちは、このロータリーの前に、

立ってたんですね。

バックパックを背負って。


ってことは、道路のど真ん中に立ってたようです。

まあ、当時は自動車なんてほとんどなかったから、

轢かれる心配はありませんでしたが。笑


連載35回。

一日もお休みすることなく、

風邪をひいて、38度の熱が続いているときも、

実は書き続けていました。

書いているあいだはずっと、

もういちどビルマを旅しているような気がして、

たいへんだったけど、とても楽しい日々でした。


ありがとう、ビルマ。


(おわり)