MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 15 - 港町市場でえびまつり(2022年6月19日/3日め)

(2022/08/10 16:05記)

2022年6月19日 美味しいお寿司を2連発。夫とはんぶんこしながらいただきました。^^(北海道増毛郡増毛町)


6月19日(日)


たまたま行ってみた港町市場で、
増毛町えびまつりに遭遇してしまった、
私たち。
早速、市場の中を探索してみました。


ムラサキウニ1パック3000円。

ボタン海老と朝獲れ甘海老(1080円)。

ホタテと、この黒いお魚はなんでしょう? ご存じの方がいらしたら、お教えください。

まぐろ(100㎏超)の解体ショーもやってました。

本マグロ1サク2000円。


ええっと…。
我が家がふだん買わないような
高級品ばかりなので、
東京での通常価格がわからず、
安いんだか高いんだか、
よくわかりません。🤣🤣


でも、地元の方々が発砲スチロールの箱で
どんどん買っていかれるので、
たぶん、お安いのだと思います。😅


MIYOが気になったのは、こちらです。


「数量限定
 甘えびボタンえび寿司 1000円」


これですよ…。
漁獲高日本一を誇る、増毛のボタン海老
やっぱりこれを食べたい。😋
…ということで、お買い上げ。
これが、本日のお昼ごはんです。^^


さっき國稀酒造の前で買った、すが宗の「ニシンのつのかくし鮨」といっしょにいただきます。

じゃん!

朝獲れの、つやつやふっくらのエビたちです(1000円)。

そしてすが宗の、ニシンのつのかくし鮨(900円)。しょうが、夫が少し食べちゃいました。笑

増毛に来てよかった~~~。😄😄


朝獲れのボタン海老なんて、
生まれて初めて食べました。
めちゃくちゃおいしいです!!


そして、ニシンのつのかくし鮨は、
ニシンの握り鮨の上に
酢で締めた大根の薄切りをのせています。
花嫁衣装の「角かくし」に
似ているところから、
つのかくし鮨と名付けられました。


このニシンは、春ニシンではなく、
秋に増毛の底引きで水揚げされる、
脂がのったニシンを
酢で締めているそうです。
魚のくさみは全くありません。
大根の食感もよく、にしんの旨みと合い、
あっさりといただけました。


ニシンのつのかくし鮨は、
廃線駅の駅弁として、町内で販売しています。
のぼりが立った台車にめぐりあったら、
ラッキーです。😋
旅の思い出に、ぜひ、お試しください。^^


充実のお昼ごはんも終わり、
次はいよいよ、留萌へ向かいます。


港町市場のお向かいにある、増毛漁業協同組合。この日はお祭りだったので、ここの駐車場に誘導されました。


車に乗ろうとしたら、ここで夫が、
「ちょっと海を見たい。」と言い出しました。
時間がないのに、だいじょうぶかな、
と心配だったけど、
まあ少しならと思い、ついていきました。


増毛漁協の裏にまわると、そこはいきなり、海でした。

かつては、100隻以上のニシン船が碇泊していた、増毛港。

昭和12年に、この写真を撮ったときと同じ海を、今、私は眺めていました…。

MIYOが生まれ育った町(愛媛県八幡浜市)は、全国でも有数の、トロール漁業の本拠地です。


小さいころから見慣れていた、
なつかしい風景が、
今、目の前に広がっていました。^^


(つづく)

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 14 - 千石蔵②、津軽藩増毛勤番越年陣屋跡、志満川食堂、港町市場(増毛町えびまつり)(2022年6月19日/3日め)

(2022/08/09 15:00記)

2022年6月19日 増毛名物、甘えびボタンえび寿司。今朝獲れたばかりのエビを、握り寿司でいただきました。^^(北海道増毛郡増毛町)


6月19日(日)


千石蔵の見学を続けます。


ニシンを運ぶために使われたもっこや、ニシンを煮た大釜など展示されていました。こんなにたくさんのもっこを一度に見たのは初めてでした。

番付板です。建網一ケ統(1漁場)は30人前後で構成されていました。番付板には、大船頭以下、炊事婦まで名を連ねています。このような番付板を、通常は、土間の壁に掲示しました。人員が入れ替わるため、毎年作り変え、1枚の板を裏表で2年使用しました。3年めには、1年めの側をかんな掛けして使用したため、番付板に古い物は存在しないそうです。

幻の番屋と言われる、松江番屋です。明治31年、増毛町元阿分に建てられました。総建坪は300坪。写真は、昭和10年ごろに撮られたものです。

平野番屋。増毛町舎熊にありました。間口が20間で奥行11間。中央の土間を境に、右側が主人一家や来客のための部分で、左側では漁夫達が寝起きしました。

すばらしい展示の数々でした。

こんな貴重な資料館を無料で開放してくださっている國稀酒造に、感謝です。^^

タモでニシンをすくう漁師と、もっこを担ぐ女性。


千石蔵を出て少し歩くと、
もうひとつの陣屋跡がありました。


「津軽藩増毛勤番越年陣屋跡」です。


【津軽藩増毛勤番越年陣屋跡】
江戸時代中期、蝦夷地警備のために津軽藩が築いた陣屋があった場所です。1807年(文化4年)、幕府は、ロシアの南下政策に対抗するため、仙台、会津、南部、秋田、庄内の各藩に蝦夷地警備を命じました。この命を受けて、津軽藩は、1809年(文化6年)、増毛に勤番陣屋を築きました。現在、その遺構は何も残っておらず、志満川食堂の横に標柱と説明板が立つのみです。が、当時の宗谷樺太詰め人数は200~300人と推測されるので、往時はかなりの規模の陣屋がここに建っていたことになります。


【津軽藩殉難事件】
当初津軽藩は、エトロフ、ソウヤ、シャリの守備を命じられました。1807年、幕府の命を受けて、津軽藩兵100名が、宗谷岬を経由して知床に入りました。が、寒さと栄養不足による浮腫病(壊血病)で次々に命を落とし、津軽に生還できたのはわずか17名でした。この悲惨な出来事は、津軽藩士殉難事件として、今に伝えられています。

津軽藩は幕府に窮状を訴え、その願いが聞き入れられたため、1809年(文化6年)以降の宗谷の越年を増毛に変更することができました。それによって増毛に築かれたのが津軽藩増毛勤番陣屋でした。


増毛町に来て、
いちばんはじめに訪ねたのが、
秋田藩増毛元陣屋跡でした。
コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 1 - あいろーど厚田と秋田藩増毛元陣屋跡①(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


そこでの資料によると、幕府が、
仙台、秋田、南部、津軽、松前の各藩に
蝦夷地警備の命を発したのは、
1855年(安政2年)のことでした。
その命を受けて、増毛には秋田藩が、
拠点となる元陣屋を築いたのです。
けれど、それより50年以上も前に、
すでに北方警備の拠点が、津軽藩によって、
ここ増毛に築かれていたわけです。


増毛で、この
「津軽藩増毛勤番越年陣屋跡」
の説明板を見た時は、
あまり気に留めていませんでした。
しかし帰宅後、
「津軽藩殉難事件」を調べているうちに、
その悲惨さに胸が苦しくなりました。


極寒の地で、
72名もの津軽藩士が次々と亡くなった事件は、
「藩の恥」として、
長く秘されてきたそうです。

それはないですよね…。


1954年、
生存者であった藩士の残した日記が
発見されました。
それにより、惨事から150年もたって初めて、
藩士たちの悲劇が明らかになりました。
1973年には、斜里町に、
津軽藩士殉難慰霊の碑が建立され、
以来、慰霊祭が毎年行われています。
そして1983年、斜里町と弘前市は、
友好都市の提携を結びました。
それ以降、斜里の夏祭りでは、
毎年、弘前ねぷた
繁華街を練り歩いているそうです。


しれとこ斜里ねぷた(画像をお借りしました)


日本には、そして北海道には、
まだまだ、私の知らない歴史があるなあ、
と思いました。


志満川食堂です。明治25年築の旧小林廻船問屋だった建物を使っているそうです。


志満川食堂(旧小林廻船問屋)。
外装は新しそうですが、内部は、
昔ながらの造りを残してあるそうです。
人気メニューは、ニシンの親子そばだとか…。


お昼もとっくに過ぎていたので、
お腹が空いていました。
國稀酒造の駐車場に停めてあった車に乗り、
お昼ごはんの場所と
決めてあった所へ向かいます。


港町市場です。

「ここでなにか地のお魚でも食べられるといいね」と話し合って来たのですが、なんだか様子が違います。

なんと、年に一度の「増毛町えびまつり」が開催されていました。それも、コロナ禍で2年ぶりの開催だったそうです。こんな日に来てしまうなんて…。🤣🤣 

金魚すくいでなくて、「活えびすくい」ですよ。すごっ。

甘えび、シマえび、ボタン、イバラ…って、おまつりの屋台にしては豪勢すぎるんですけど。🤣🤣

水槽の中は、海老だらけ。これ、ほんとにすくって遊ぶんですか…?😮

はい、すくってます。活けエビすくいは、一回500円。

タモからあふれんばかりのボタン海老、すくってお持ち帰りです~。🤣🤣

うわ~~~。😮


増毛町は、
ニシン漁で栄えた、歴史ある町ですが、
ボタンエビの漁獲高が日本一で、
アマエビやタコなどの水揚げも
多いのだそうです。


ボタン海老が、束になって泳いでいました。


(つづく)

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 13 - 千石蔵①(2022年6月19日/3日め)

(2022/08/08 13:50記)

2022年6月19日 千石蔵で、鰊船といっしょに。(北海道増毛郡増毛町)


6月19日(日)


旧商家丸一本間家を出て、
海に向かって歩いていきました。
このエリアには、
いくつもの倉庫が見られます。


國稀酒造の隣りに建っていたものです。最近になって建てられたものだそうですが、千石蔵とテイストが似ています。

丸一の屋号が入っています。

そしてこれが、めざす千石蔵です。


【千石蔵】
國稀酒造が所有する蔵です。現在の位置は、旧商家丸一本間家のすぐ近くです。かつては増毛港にあり、漁具保管蔵として使われていましたが、道路拡幅工事に伴って現在地に移転しました。大正以降は、ニシン粕保管倉庫として使われてきたそうです。

現在は、漁具などの保管、写真展示やイベントに活用されており、ニシン船やニシンに関する資料を見学することができます。


入口横のベンチでは、家族連れがお昼ごはんを食べていました。^^

中に入ると、いきなり「鰊船」の看板が…。

ありました! 実際に使われていた、鰊船です。これが、これが、これが、これが見たかったのです!

柵の内側に横たわる鰊船。すぐそばに近づいて見ることもできます。^^

最盛期、本間家に莫大な富をもたらしたニシン漁。その鰊船が、一隻まるごと、ここに展示してありました。こちらは船首である舳(へさき)です。

そして船尾である艫(とも)。船べりに描かれた絵の色が、今も残っています。これは左側。

そして右側。もう、うれしくって、船の周りをぐるぐる歩きまわりました。🤣🤣

船の隣りには、当時のニシン漁の様子を説明するジオラマがありました。こんな風に、2艘の船で大きく網を広げて、鰊群をすくうようにして獲ったんですね。

次は、ジオラマ横の階段を上がって2階に行きました。2階部分はデッキになっていて、そこから船を見下ろすことができます。

このデッキに沿って、壁にたくさんの写真が展示してありました。

昭和20年4月の増毛港に碇泊していた漁船群。すごい数です。100隻以上はあると思われます。

鰊船で働く人々。

岸からニシンを運ぶために使ったもっこです。

ニシンを満載したもっこは、20キロ近い重さがあったそうです。それを背負って運ぶのは女性の仕事でした。

昭和10年代には、大がかりな起重機(クレーン)が設置されました。台場にはトロッコが待っており、釣り上げられた鰊がそこへ落とされました。


【鰊潰し(にしんつぶし)】
鰊は、水揚げされてから4~5日間、廊下(船倉)や納坪(仕切られたスペース)に置き、数の子が固まるのを待ちました。その後、鰊をさばいて各部位に分ける作業を始めます。これを「鰊潰し(にしんつぶし)」といいます。数の子は、取り出された後、さらに海水に2~3日入れて固め、水を切った後、天日で乾燥させました。


鰊の選別をしているところです。大きさごとに分けたり、折れたものを選別したりしました。

積み上げられた鰊粕の俵です。一俵の多さは26貫(97.5㎏)。これを担ぎ上げることができるのは、相当の力自慢の者でした。通常は、ふたりがかりで反動をつけて持ち上げ、担ぎ手の肩へ載せました。かなりの重労働でした。

陸揚げしたニシンだらけの岸壁で食事する若者です。食事は、ごはんまたはおにぎりと漬物でした。バケツの中には、味噌汁が入っています。重労働なので、一日に4~5回は食事をしたそうです。一升瓶の中に入れた飲料水も必需品でした。


さすが、増毛です。
ここでしか見られないような、
貴重な写真がたくさんありました。


写っている人々の生き生きとした表情や、
臨場感あふれる作業場のようすに、
時間を忘れて見入ってしまいました。


今から250年以上も昔、
宝暦年間に漁場が開かれて以来、
ニシンの町として栄華を極めた、増毛。


明治から大正、そして昭和初期へと、
それぞれの歴史を映し出しながら、
往時の賑わいの名残りを、
町は今も、伝え続けていました。


(つづく)

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 12 - 旧商家丸一本間家⑦(付属家)から千石蔵へ(2022年6月19日/3日め)

(2022/08/07 18:15記)

2022年6月19日 旧商家丸一本間家の呉服店舗です。(北海道増毛郡増毛町)


6月19日(日)


旧商家丸一本間家の中を歩いてきましたが、
いよいよ、最後のスポットになりました。
お屋敷の右半分になる、付属家エリアの
2階・3階の部分です。


付属家1階の井戸のあるところからは、2階・3階に上がれます。階段はかなり急勾配なのですが、これは、狭いスペースをコンパクトに活用するための昔の人の知恵でした。


【付属家2階】
付属家は、明治27年の建設と考えられています。もともと、1階は酒揚場として、酒通リなおを行っていました。しかし、明治35年に本間家の全容が完成し、酒造りが酒造場(現在の国稀酒造)に移ると、1階部分は居宅の付属家へと改築されました。
2階部分には、2間続きの和室(奥の間と次の間)があります。1階と同じ年代に建設されたもので、当初は本間家の家族の居宅や補助的な客室として使用されました。明治43年に本間泰輔とキミが結婚すると、2人の居宅として使用されます。
3階へ向かう階段の右側には、引違いの戸で仕切られた通路があり、その奥には女中頭の寝室がありました。


1階の土間部分で靴を脱ぎ、階段を上がって2階に行くと、2間続きの和室(奥の間と次の間)があります。右が奥の間(10畳)で、左が次の間(7.5畳)です。ここで、新婚の本間泰輔・キミ夫婦が暮らしました。

奥の間です。

部屋は和風ですが、窓の手すりにはモダンな細工がありました。

窓の外には、さきほど見学した呉服蔵が見えます

次の間からは、呉服蔵の全体が見えました。

新婚夫婦が暮らした部屋の奥に、さらにもうひと部屋あります。ここは、女中頭の部屋でした。

女中頭であるからこそ与えられた個室でした。が、この部屋には天井がなく、梁もむき出しで、簡素な造りになっています。


階段を上がって、3階に行きました。
3階部分は、
主に客室として使用されました。


【付属家3階】
3階部分も、2階部分と同時期に造られたようです。
窓は、それぞれ南側、北側に配置しており、北側は出窓式で洋風の手すりが設けられています。本間家が完成したころは、現在のような高い建築物が周囲になかったため、3階からは、増毛町の眺望が楽しめました。北側には日本海の海岸線、そして南側には、暑寒別岳の山並みが続きました


明治35年、社屋増築の上棟に合わせて書家の巌谷一六が来町し、この部屋を使用したと伝えられています。

旧商家丸一本間家④でご紹介した、居宅(客間)の襖に今も残っている巌谷一六の作品は、この部屋で揮毫されたものと考えられます。

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 9 - 旧商家丸一本間家④(客間、次の間、上勝手、台所、下勝手)(2022年6月19日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


かつてはこの窓から、暑寒別岳の山並みを臨むことができました。反対側の窓からは、沖を行き来する本間家の船を眺めていたのかもしれません。


さて。
これでようやく、旧商家丸一本間家の
すべての部屋の見学を終えました。
ふう…。


本当に広かった、本間家。

その敷地に沿って、増毛歴史通りから海のある方向へと歩きました。

増毛町の歴史は古く、町内には北海道遺産に選定されたレトロな建物が立ち並んでいるのですが、なんでもない普通の個人のお宅でも、歴史を感じさせるものをいくつも見かけました。

すごく雰囲気がありますよね。^^


さらに歩いて、次のスポットに到着しました。


千石蔵です。


【千石蔵】
日本最北の酒蔵として知られる國稀酒造が所有する蔵で、現在は、ニシン船やニシンに関する資料の展示室になっています。國稀酒造が無料で一般開放しており、ビアパーティやコンサートも開催される、増毛町の文化施設でもあります。入場料は無料です。
ニシンの枠船や道具、ニシン漁全盛時の写真等を通して、当時の増毛港がたいへんなスケールの港であったことを肌で感じることができる、貴重な資料館です。


次回は、千石蔵の中を歩きます。


(つづく)

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 11 - 旧商家丸一本間家⑥(多目的便所と醸造蔵)(2022年6月19日/3日め)

(2022/08/06 18:20記)

2022年6月19日 旧商家丸一本間家の茶の間です。この部屋は、昭和56年公開の「駅~STATION~」の撮影に使われました。見比べてみると、長火鉢や障子は全く同じものであるのがわかります。(北海道増毛郡増毛町)


6月19日(日)


呉服蔵を出て、
お屋敷の右半分の方向に歩きました。


魔除けの天狗が飾ってありました。

台所の奥に井戸があり、さらにその奥へと土間が続いています。奥の白い壁の内側になにがあるのかと思ったら…、

トイレでした!笑 入ってすぐのところに、男子トイレと流しがあります。

流しのさらに奥にあるのが…、

女子トイレです。


お食事中の方、すみませんでした…。
2021年3月に、長野・田中本家で、
美しい便器を見せていただいてから、
古い家屋にいくたびに、
便器が気になってしまい、
ついつい、写真に撮ってしまいます。😅


田中本家の便器です。(2021年3月27日)

コロナでも雛旅。古(いにしえ)の雛を訪ねる、4泊5日の長野・岐阜・愛知 20 - 田中本家博物館 水車土蔵(2021年3月27日/2日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


この土間に展示してあったステンドグラスです。大正時代に、風呂場の窓に使用されていたそうです。

丸一本間が所有していた船の模型です。通算12隻もの汽船を所有し、海運業でも大成功を収めました。

機械室・多目的便所のエリアを抜けて、さらに奥の醸造蔵に行きました。


【醸造蔵】
明治27年頃新築した酒造蔵で、後に味噌の醸造も行ったので、味噌蔵とも呼ばれました。総称して、醸造蔵と呼ばれています。間口3.7間、奥行11間、建坪40坪余りの平屋一宇2階建ての土蔵造で、屋根はトタン(亜鉛板)葺きでした。後に半分を撤去し、2階建てになっていた部分(20坪余り)が現存しています。
お酒造りは、明治35年以降、現在の國稀酒造へと作業場所が移されました。現在は、復元工事の際に撤去された扉や瓦などを展示しています。


醸造蔵の入口には、杉玉が下がっています。杉の葉でできており、酒林(さかばやし)とも呼ばれます。かつては蔵元で、新酒ができたことを知らせるために下げられたものでした。

醸造蔵の内部です。現在は、復元工事の際に撤去された扉や瓦などを保管・展示しています。

この丸くて大きな板は、酒造りのための桶だったようです。

左端にあるのは、蔵の外戸です。平成9年の復元工事の際に、取り外されました。

この扉は、明治20年代に蔵が建てられた時のものだそうです。

扉と同じころに作られた屋根瓦です。

丸一の屋号と本間家の家紋である花菱を入れた屋根瓦は、今も美しく、大切に保管されていました。


広いお屋敷を延々と見てきましたが、
いよいよ、あと一か所になりました。
次回は、本間泰輔とキミが、
結婚後に暮らしていた部屋を見学します。


(つづく)