MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

超未熟児で生まれた後遺症で、全盲難聴(盲ろう)となったのんたん、双子の妹あみちゃんと共に楽しく生きる家族のお話です。
子どもたちは24歳になり、毎日元気に楽しく暮らしています。
卵巣ガンになって思ったことも、少しずつ書き始めました。
ベトナム日記は、
http://limings.muragon.com/tag/?q=2019%E5%B9%B49%E6%9C%88-10%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&p=4 
をご覧ください。
ベトナム家族旅行:
https://limings.muragon.com/tag/?q=2017%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%80%80%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
小学生だったころの子どもたちの育児日記は、こちらです。
http://limings.sweet.coocan.jp/

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 4 - 厳島神社と國稀酒造① / 東京ゼロエミで13000円(2022年6月19日/3日め)

(2022/07/30 18:00記)

2022年6月19日 國稀酒造で。増毛で最大の観光スポットかも、と思うくらい、お客さんでにぎわっていました。(北海道増毛郡増毛町)


6月19日(日)


「ちょっと情報収集」のつもりだったのに、
展示内容が充実していて、
思いがけず、秋田藩増毛元陣屋跡に
長居してしまいました。


早く町の中心部に行って、
増毛観光をしたいのですが、
ここで夫が、
「すぐ近くにあるから、
 厳島神社に寄って行こう。」
と言い出しました。😂😂


「元陣屋」で入場料を払ったときにもらったカードです。スタンプラリーになっていて、元陣屋、本間家、厳島神社のスタンプを全部集めたら、プレゼントがもらえるのだそうです。笑


こういうのを見ると、ついつい、
コンプリートしたくなる私たち。
そして一番最後の
「プレゼントがもらえる」ってとこは、
MIYOも大好きなんですよね…。😅


ってことで、時間がないというのに、厳島神社まで歩きました。(←アホです。笑)

本殿です。写真中央に、すばらしい彫刻が見えます。


【増毛厳島神社】
北海道増毛町の鎮守社です。1751年(宝暦元年)、松前の商人・村山伝兵衛(能登国出身)が、函館奉行所より増毛場所を請け負い、増毛に出張番屋を設けました。この時、運上屋の守護神(氏神)として祀ったのが弁財天で、増毛厳島神社の始まりです。その後、移転・再建を経て、明治34年に、現存する総欅造の本殿が新築されました。(北海道指定有形文化財)


越後柏崎の宮大工集団の手によるもので、本殿には、「鶴と松」「獅子と獏」の見事な彫刻が、今も残っています。越後柏崎の彫刻師・4代篠田宗吉の作品だそうです。

拡大してみましょう。

中央の「鶴と松」。すばらしいですね。やっぱり来てよかった。笑

そして、左右の「獅子と獏」です。

本殿の中です。

はい、ごいっしょに。^^

神社の隣りで咲いていた花。グーグル先生によると、ニセアカシアだそうです。


神社には誰もいなくて、
ふたりで探したら、隅の方に
スタンプが置いてありました。笑
カードにスタンプを押し、
再び「元陣屋」の駐車場にもどって、
今度は車で、町の中心部に向かいました。


國稀酒造に到着です。この社屋自体が歴史的建造物ですね。^^


【國稀酒造株式会社】
日本で最北の地にある造り酒屋です。南部杜氏の流れを汲み、昔ながらの製法を守る蔵であり、暑寒別岳山麓からの良質な天然水に拘った酒造りをしています。高倉健主演の映画『駅 STATION』のロケ地となったことでも知られています。

創業は1882年(明治15年)。1902年(明治35年)、丸一本間合名会社を創立。2001年(平成13年)10月1日に「丸一本間合名会社」から「國稀酒造株式会社」に法人格及び社名を変更しました。初代は本間泰蔵。『國稀』『北海鬼ころし』が主力商標です。


長い年月、風雪にさらされてきた外壁の板が、いい感じになっています。^^

杉玉が吊るされた玄関。

中に入ると、いきなり、こんなところになります。大きな杉玉の奥に広がっている座敷は、かつての帳場だったのでしょうか。

いくつもの部屋が続いています。

お酒以外にも、たくさんの商品が並んでいました。

座敷の右側にはこんな暖簾がかかっていて、この奥の通路をさらに進んでいきます。

まずはレジのコーナーです。

お酒もたくさん置いてあって、すぐにも購入したいところですが、それはあとのお楽しみ。^^

次は、通路の左側に土蔵が見えてきました。

中に入ってみます。

土蔵の中は、お酒のミュージアムになっていました。ライトアップされて、酒瓶がきれいに並んでいます。


國稀酒造、とっても広くて、
まだまだ続くのですが、
長くなりましたので、この先は次回に。


(つづく)


(おまけのお話)


23年使った冷蔵庫が壊れ、
新しいのを買ったことを、
以前、ブログに書きました。


その時の日記です。
全盲難聴・のんたん 7回目の東京都障害者スポーツ大会 - 無観客でした。/ 新しい冷蔵庫 / サッポロ割で10000円引き(2022年5月28日) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


この冷蔵庫、
東京ゼロエミッションの対象でした。
必要書類を送ると、
東京都から補助金がもらえるのです。


【東京ゼロエミッション】
東京都が実施している事業です。家庭の省エネ行動を促すため、より省エネ性能の高いエアコン、冷蔵庫、給湯器への買換えに対し、商品券等に交換可能な「東京ゼロエミポイント」を付与しています。


手続きの方法は、
冷蔵庫を購入したときに、コジマ電気の方が、
わかりやすく教えてくださいました。


いまどきはペーパーレスなんですね。
レシートなどの必要証明書をスマホで撮って、
ゼロエミ申請サイトから送信するだけで、
手続きが完了しました。
便利です。^^


そして2日後には、申請が承認されました。
ここまでは早かったのですが、
商品券が発送されるまでが長かったです。笑


待つこと一ヶ月。ようやく、到着しました。

JCBの商品券が12000円分と、LEDの購入券1000円分。


合計13000円分です!😄😄
必要書類がいくつもあり、
それを揃えるのはめんどうだったけど、
こんなにいただけるのですから、
やった甲斐がありました。^^


東京ゼロエミは、
予算を使いきったら終了だそうです。
東京都にお住まいの方で、
買い替えを検討しておられる場合は、
今がチャンスです。^^

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 3 - 秋田藩増毛元陣屋跡③ / 唐箕でつながる旅(2022年6月19日/3日め)

(2022/07/29 18:00記)

2022年6月19日 総合交流促進施設「元陣屋」で。これを見て、旧花田家番屋の存在を初めて知りました。(北海道増毛郡増毛町)


6月19日(日)


秋田藩増毛元陣屋跡に来ています。
ニシン漁に関わる歴史的建造物を訪ねたくて
増毛までやってきたというのに、
「元陣屋」資料館でひっかかってしまい、
なかなか先に進めません。😅


でも、資料館の2階にあがってみると、
ニシン漁に関わる展示がたくさんありました。


もっこです。浜に船が入ると、このもっこにニシンを満載して、背負って運びました。かなり重かったそうですが、背負ったのは、主として女性でした。

海で漁をするのは男の仕事。そして浜でニシンを運ぶのは女の仕事でした。


もっこは実際に使用されていたもので、
側面には、年代や名前が、
「昭和十年」「今井」などと
書かれてありました。


船頭や漁師たちの人員名簿や漁具です。このタモで、獲れたニシンをすくったんですね。^^

ニシン漁網と「桐あぱ」という取り付け具。

ガラスの浮き玉です。

竿秤(さおばかり)です。MIYOが小さいころには、八百屋や魚屋で普通に使われていました。(いつの話だ?笑)

今でいう「ステンシル」の型が残っていました。ステンシルとは、文字や絵柄をくり抜いた型を置き、その上からペイントして転写する技法のことを言います。「胴にしん」「白子」などと書いてあるので、各々を入れる木箱に、この型を使って名前を記し、分類していたようです。


MIYOの実家では、製麺業を営んでいたので、
小さいころ、自宅兼工場には、
木製のセイロが大量に積み上げてありました。
その中に生麺を並べて、自転車の後ろに積み、
若い衆が飲食店に配達した時代です。(古い。笑)
そのセイロの側面に、社名を刷り込んでいたのですが、
それもやはり、この型を使っていました。
だから家には、こんな型が普通にありました。
なつかしい。(いつの話だ?笑)


かつてのニシン漁の写真がありました。拡大してご覧ください。こういうのを見ると、人びとの熱気が伝わってくる気がして、もうわくわくします。笑

ニシン漁の船。

そして、そのニシンを本州へと運び、莫大な富を築いた弁財船(北前船)。

幻の番屋と言われる、松江番屋。昭和初期に解体されたニシン番屋です。松江家番屋は、明治31年に着工され、建設費は3万円(当時)でした。敷地全体が6000坪、居住空間すべてを合わせると、建坪が300坪もあったとされている、大規模な番屋でした。しかし、ニシン漁のかげりをみせる昭和15年に解体されました。

北海道留萌高等学校の生徒たちが復元した、松江番屋のジオラマ。かなり細かく作りこんでありました。

明治10年に描かれた、天塩国増毛郡の図。


そしてここで、
気になるものを見てしまったのです。


旧花田家番屋の模型です。「小平町・重要文化財」とあります。現在も残っているようです。


み「花田家番屋って、知ってた?」
夫「知らない。初めて聞いた。」


夫の頭の中は「増毛町」だけで、
「とにかく増毛町に行きたい。」
とばかり言っていて、
それでここまで来てしまいました。


でも、小平(おびら)町というところに、
どうやらすごい番屋があるらしいのです。
北海道最北の番屋で、そして最大の規模。
国の重要文化財にも指定されていると…。
そんなことも知らないで、
ここまで来てしまった私たち。
いや~、ぬかりました。😅


ネットで調べてみると、
場所は増毛町のさらに北、留萌です。
でも、がんばれば、
行けるかもしれない…?


「行こうよ。
 せっかくここまで来てるんだから。
 留萌にも行こうよ。
 この、花田家番屋に行ってみたい。


とMIYOが言いだし、急遽予定を変更。
この日は一日かけて、
増毛町をのんびりと歩くつもりだったのに、
「増毛+留萌」めぐりをすることに…。


でも、増毛だけでも、
観光スポットがたくさんあるんです。
それに加えて、
留萌にまで行く時間があるのか…。
ちょっと心配ですが、夫が、
「ん。たぶんなんとかなると思う。」
と言うので、なんとかします。🤣🤣


そうと決まれば、ぐずぐずしていられません。
「元陣屋」資料館を出て、
増毛町観光を開始するべく、
歩き始めました。
そう。
急遽、留萌にまで行こうというのに、
まだ、増毛町のどこにも行ってないんですよ。笑


こうしてまたも、
怒涛の駆け足旅行が始まりました。😂😂


(つづく)


(おまけのお話)


「元陣屋」資料館2階には、このほかにも、
たくさんの民具や農具が展示されていました。
その中のいくつかをご紹介しておきます。


左から、薪ストーブ、湯沸かし器、練炭火鉢、調理用ストーブです。みっつめの練炭火鉢。子どもの頃、ほとんど同じのが、私の実家にもありました。母が毎日、この中に練炭を入れていました。なつかしい。(いつの話だ?笑)

馬かんじき(大正時代)。お馬さんもかんじきを着けました。

ここは農具のコーナーです。

唐箕(とうみ)。箕の機能を機械化した農具です。前部にあるハンドルを手で回すことによって、内部の煽(あおり)板を回し、籾とごみとを選別しました。


今月(2022年7月)旅行した新潟では、
この機械が資料館などに展示されているのを、
一度ならず何度も見ました。
さすが、こめどころの新潟です。^^


旅の二日めに訪れた、「三国街道 塩沢宿 牧之通り」。江戸と越後を結ぶ三国街道沿いの宿場町として栄えたところです。「コシヒカリ生誕の地」でもあるそうで、通りの奥まったところには、お米の体験施設「お米の楽校」がありました。中には、お米の資料館やレストランがあります。(2022年7月23日・新潟県南魚沼市)

これこれ。入口を入るとすぐに置いてある、唐箕。上の写真と同じものです。いや~、北海道の増毛と新潟の南魚沼がこんなふうにつながっちゃうなんて、なんか楽しいです。^^

ここのレストランでいただいた、魚沼コシヒカリ白ごはん膳(1450円)。八海山サーモン雪譜みそ漬け焼きは、上品な味で美味。けんちん汁は、いろんな具がどっさり入っていました。卵はもちろん地卵。地元とっとこ村新鮮地鶏卵で、コクがあります。伝統魚沼野菜で作ったかぐら南蛮味噌と自家製無添加の漬物もはなまるでした。


お米は、各農家さんのを日替わりで。
この日のお米は、
南魚沼 塩沢産コシヒカリの光寿米
でした。
ごはんはおかわり自由。


これがですね…。
もう、おいしくて、おいしくて、
このまま東京に帰ってもいいくらい、
おいしかったんです。笑



お米も魚もお酒もおいしい新潟。
ああ、また行きたい。😍😍😍
…って、これは北海道の日記なんですけど。
(スミマセン)

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 2 - 秋田藩増毛元陣屋跡②(2022年6月19日/3日め)

(2022/07/28 17:50記)

2022年6月19日 総合交流促進施設「元陣屋」で。1703年から開かれた増毛は、波が平穏で、豊富な水産資源に恵まれていました。(北海道増毛郡増毛町)


6月19日(日)


秋田藩増毛元陣屋跡に来ています。


1856年(安政3年)、秋田藩は増毛へ藩士を派兵するとともに、元陣屋の構築を開始しました。兵舎、武芸所、食糧庫、火薬庫、診療所などからなる、大規模なものでした。

この玄関から、中に入ることができます。

玄関を入ってすぐのところには、武具が展示してあります。そして、右側に座敷があります。

3人の秋田藩士が、故郷の家族から届いた手紙について話していました。

この人だけは、のっぺらぼうの顔面に顔が投影されて、セリフと共に表情が動くようになっていました。でもなんかお面みたいで、ちょっと違和感がありました。

表情が動かなくていいから、こんな人形の方がより自然だと思うのですが…。😅

1856年(安政3年)~1859年(安政6年)、秋田藩は、樺太全島守備の命を受け、宗谷出張陣屋を中継地として、3か所に出張陣屋を設置しました。3月~8月まで兵を派遣し、冬季は増毛元陣屋に引き揚げました。その後、北蝦夷地の守備は、秋田、仙台、庄内、会津の4藩となりました。1862年(文久2年)に会津藩が警備を免ぜられた後は、3藩の受け持ちとなります。秋田藩の北蝦夷地警備は、1866年(慶応2年)まで続けられました。

安政3年に増毛元陣屋で使用されていたものと同じ型の火縄銃(複製)です。(秋田県湯沢市指定有形文化財)

増毛元陣屋では、外敵に備えるために、台場を築き、ホオイッスル砲の他3基を設置しました。経済的に苦しかった秋田藩としては精一杯の努力でしたが、実際はかなり貧弱なもので、実戦には役にたたないものだったようです。しかし、増毛陣屋の最大の目的は、警衛というよりもむしろ「北方部隊の越年」でした。この地を守った藩士たちにとって、最大の敵は寒さとそれによる病であり、命を賭けての越冬生活でした。


【困難を極めた北蝦夷地警備】
苦労したのは秋田藩だけではなく、1807年には津軽藩が越年警備を行った記録があります。が、栄養失調のために半数(70余名)が死亡するという悲惨な事態となり、翌年には会津藩に交替したそうです。それでも、1809年からは、再び津軽藩が北蝦夷地の警備を行うことになりました。


増毛に設置された、津軽藩勤番越冬陣屋です。(1807年)

秋田藩増毛元陣屋です。建屋が多く、かなり大規模であったことがわかります。(1856年)


秋田藩の度重なる願い出を受け、
1867年(慶応3年)、幕府は、
秋田藩の蝦夷地警備を解きました。
これにより、12年続いた、
秋田藩の蝦夷地警衛が終わります。
そして同年10月、
徳川慶喜は大政奉還を行い、
ここに武士政治は終わりを告げました。


秋田県横手市のぼんでんが飾られていました。神祭用具の一つで、長い棒や竹の先に幣束を何本か取り付けたものです。年の初めに、「五穀豊穣・商売繁盛・町内安全」などを祈願し、奉納した大型の御幣の名残りと言われています。

続いて、増毛場所のジオラマが展示されていました。


【増毛場所】
増毛に場所が開かれたのは1703年頃で、当時は、ハママス、ポロトマリ、ベッカリ、ハシベツを総称して「マシケ場所」と呼ばれました。中でも、ポロトマリ(現在の増毛)は、港口が北向きのため、春から秋にかけては波も平穏な良港で、豊富な水産資源にも恵まれていました。
安政5年ごろから、福山、江差地方ではニシンが獲れなくなっていたことから、その地方の漁民は、近エゾ地や奥エゾ地まで追いニシン漁に出るようになりました。さらに、本州での肥料の価格が上がったため、増毛地方のニシン漁は大いに発展しました。


最盛期のニシン漁の様子を再現してあるそうです。

奥にある、一番大きい家が番屋ですね。よく見ると、右端に赤い鳥居の神社があります。手前には、ニシン漁の舟が並ぶ海岸と、後ろにはニシンの干場で働く人々が見えます。そして、海岸に並ぶ、とんがり帽子の小屋は、クチャのようです。

拡大してみると、3本の棒を基本に作ってありました。まちがいありません。


【クチャ】
アイヌ建築の特徴である「ケトゥンニ(三脚)」を基本構造とした小屋です。主として、狩小屋に使用されました。特別な材料を必要とせず、3本の棒を紐で結ぶだけで小屋の基本ができてしまうという、アイヌ独特の工夫でした。


クチャについて書いた、過去の日記です。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 63 - ウポポイ⑩(伝統的コタンとクチャ)/ Visaのタッチ決済(スマホ)がオトクです。(2021年11月7日/5日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。

コロナでもポロト湖。星野リゾート 界 ポロト スイートを無料で楽しむ 7 - とんがり湯小屋「△湯(さんかくのゆ)」(2022年6月20日/4日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。


かつてこの増毛の浜で、
アイヌの人々も働いていたのだなあ、
と思いました。
資料館の中のどこにも、
そんなことは書いていなかったけれど…。


次は、階段をあがって、
資料館の2階に行ってみました。


(つづく)

コロナでもマシュキニ。増毛から留萌へ、ニシンの千石場所を歩く 1 - あいろーど厚田と秋田藩増毛元陣屋跡①(2022年6月19日/3日め)

(2022/07/27 17:15記)

2022年6月19日 石狩湾の美しい景色を楽しみながら、にしん街道を北上しました。(北海道石狩市)


新潟から戻りました。
今回は、苗場から新発田まで、いくつもの豪農の館を、訪ねて歩きました。
新潟は、何回行っても、すばらしいです。^^
お米もお魚も、そしてもちろんお酒がおいしくて、
もうそれだけで文句なし。笑
帰ってきたばかりなのに、またすぐに戻りたい気持ちです。^^
今回は、長女もいっしょに3人で旅行しました。
夫が運転し、少しだけ、長女が交替。
マイカーで行ったので、かかったのは宿泊費だけでした。
それも、ポイントを駆使したので、全部で16000円しか払っていません。
3泊4日、3人で16000円。ひとり5300円くらいですね。😄
旅行費用は安かったんですけどね…。😅
我が家では、やっぱり今回も、一番高かったのは酒代でした。笑


6月19日(日)


前回の日記で、
「北海道増毛町 魚鮮水産 すすきの店」
という居酒屋に行ったことを書きました。
ここで増毛町の話が出たので、この際、
増毛町に行ったときの日記も
書いておこうと思います。


昨年の秋ごろから、夫は、
「増毛町に行きたい。」
と何度も言っていました。
その気持ちはどんどん強くなり、
結局、今年6月の北海道旅行では、
増毛町にまで行ってしまったわけです。
夫だけでなく、もちろん私も、
増毛町に行くのをかなり楽しみにしていました。
(いちばん楽しみだったのは、星野リゾートでしたが。笑)


ということで、今回から、
増毛町の旅日記を連載いたします。
(順番が前後してしまいましたが、
 増毛町に行ったのは、旅の3日め。
 星野リゾート 界 ポロトに行ったのは、
 その翌日のことになります。)


タイトルになっている
「マシュキニ」
というのは、アイヌ語で、
「カモメの多いところ」
という意味だそうです。
この「マシュキニ」という言葉から、
「増毛(ましけ)」という、
ちょっとユーモラスな町名ができました。


さて、本日の旅のスタートです。
朝7時に札幌のホテルを出て、
夫の運転で、北へ、北へ。
今回は、にしん街道を北上します。


【にしん街道】
にしん街道は、北海道・松前町~稚内市まで、日本海沿岸約700kmの30市町村全域を含みます。
にしん漁によって繁栄した北海道日本海沿岸地域の伝統を活かし、にしんに関連する食文化、歴史的建造物、伝統芸能を活用して、広域的な観光ルートとして開発したのが「にしん街道」です。沿岸の各地域が官民連携して取り組むことにより、新たな観光資源としての定着化を図っています。


つまり、「にしん街道」というのは、
歴史的建造物の宝庫なのです。


にしん街道を含むエリアです。


順にご説明しますと…。


赤のエリア
 横山家(2022年4月16日)
 旧中村家住宅(同)
 旧関川家別荘(同)
黄のエリア
 にしん御殿 小樽貴賓館(2021年6月28日)
 茨木家中出張番屋(2022年6月18日)


…と、これまでに、ほぼ一年かけ、
3回に分けて、にしん街道を歩いてきました。
ということで、今回は、青のエリアです。


青のエリアでは、
 おびら鰊番屋
 旧商家丸一本間家
をめざします。


これで、「にしん街道」のすべてのエリアを
訪れたことになるのですが、
じゃあ制覇したのかというと、
全然そんなことはなく。😅
街道沿いには、まだまだ、
たくさんの歴史的建造物が建ち並んでいます。


まだ訪れていないところについては、
今後の旅で、
たぶん気長に歩いてまわるんじゃないかな、
と想像しています。
何回来ようと、北海道への興味は尽きません。


夫の運転する車で、石狩湾をひた走りました。

この海沿いをぐるりと走りながら北上します。

8時40分、石狩市厚田区に到着。ニシン漁が盛んだったころは、たいへんな賑わいを見せた町でした。ちなみに、右側に写っている楕円形のエリアは、防波ブロックに囲まれた「厚田海浜プール」だそうです。海水を利用した、天然プールなんでしょうか。😮

にしん街道の案内パネルと共に、石狩湾を臨みました。


【石狩市厚田区】(パネルより)より)
1840年(天保11年)以降に、増毛、天塩、宗谷方面に和人の出稼ぎが許可されるようになりましたが、それまでは、厚田は西蝦夷地の北限でした。
やがて、ニシンの北上と共に、松前、江差方面の漁夫も北上します。松浦武四郎の「西蝦夷日記」によれば、訪れる和人は一万人もいたとされています。押琴の泊は、弁財船(千石船、北前船ともいいます)が30隻も停泊できる良港で、運上屋も建てられました。当時、このあたり(古潭、押琴一帯)は、たいへんな賑わいを見せたといわれています。


この、美しい海岸を見渡せる絶好の場所に、道の駅があります。

道の駅 石狩 「あいろーど厚田」です。最上階の展望フロアは、日本海を一望する、石狩屈指の絶景スポット。夕暮れ時には、夕日が日本海を染めながら水平線に向かって沈んでいく、数分間の感動体験ができるそうです。

残念ながらこのときは、朝早すぎて、まだオープンしていませんでした。笑

しかたなく、さけ太郎とさけ子の自販機の写真だけを撮って、先を急ぎます。😅


10時、めざす増毛町に到着しました。


まずは、秋田藩増毛元陣屋跡に向かいます。

この場所は現在、増毛町の総合交流促進施設「元陣屋」になっています。そのため、観光関連のパンフを置いてあるだろうと考え、行ってみることにしました。

ここが入口です。内部には、郷土資料展示室や図書室、映像体験施設などがあり、広くて立派な施設でした。


【秋田藩増毛元陣屋跡】
幕末、「ペリーの黒船来航」「和人の漁場が樺太まで拡大」「ロシア船が樺太のクシュンコタンを占拠」などといった事件が起こったことにより、幕府は、北方警備の必要があると判断しました。そのため、1855年(安政2年)、蝦夷地(北海道)各地は幕府の直轄となりました。幕府の命で、東北6藩が警備と開拓に赴き、各地に陣屋を建設することになります。
幕府から増毛での北方警備を命じられたのは、秋田藩でした。それにより、翌年、侍の詰め所として、この地に元陣屋が建てられました。
この元陣屋の建物は残っていませんが、平成8年、当時の陣屋跡地に「総合交流促進施設」が作られ、その名称を「元陣屋」としています。元陣屋の「元」は拠点という意味です。

秋田藩は、宗谷と樺太にも陣屋を築いて警備にあたりましたが、こちらは「出張(デバリ)陣屋」と呼ばれ、夏の間だけの警備を行い、冬の間は増毛に戻ってきて越冬することになっていました。
増毛の元陣屋を中心とした、秋田藩の警備と開拓は、足かけ12年続きました。実際にロシアと交戦する機会はありませんでしたが、建物は非常に簡素なつくりであったため、冬の間には多くの凍死者や病死者が出ました。
病気の原因の多くは、冬季間の野菜不足による水腫病(現在の壊血病)と言われています。多い年では、一冬で30名以上が病気で命を落としています。彼等にとって一番恐ろしかったのは、ロシア軍よりも北海道の厳しい寒さだったのかもしれません。

慶応3年、秋田藩の土地引き揚げにより、増毛は函館奉行の領地となりました。後年、この陣屋は、山口藩増毛出張所役人の住居として利用され、明治30年ごろまで、陣屋としての建物が残っていました。


総建坪1160坪、平屋建28棟からなる、広大な陣屋でした。周辺には濠を構築していました。陣屋内部の部屋数は126余、他に、附属建物10棟があり、外には侍屋敷28軒、足軽長屋75棟を建造しています。士分の従僕、小物、諸職の長屋をも作事していました。

この2日後、「白老仙台藩陣屋跡」を訪ねたときの日記はこちらです。


元陣屋の入場料は400円ですが、「旧商家丸一本間家」の200円割引券がついています。右下にあるのはスタンプカードです。こんなのもらったら、また「全部行かなくちゃ」ってがんばってしまうんですけど…。😅


入場料を払うと、そのまま、
映像ルームに案内され、
5分ほどの映画を見せていただきました。
観客は私たちふたりだけしか
いないんですけどね…。😅


まずはこの映画で、
秋田藩増毛元陣屋について、
概要を教わります。


秋田藩は、増毛に元陣屋を置き、さらに宗谷と樺太にも出張番屋を築きました。


白老仙台藩の人々もたいへんでしたが、
秋田藩増毛元陣屋の人々の苦労も、
筆舌に尽くせないものであっただろうと、
想像していると、胸が苦しくなりました。


映画が終わり、いよいよ、館内を見学します。
(こんなことをやってるから、私たちの旅は、
いつも時間が足りないんですよね。😅)


もっこを背負ってニシンを運ぶ女性像。その向こうに、建物が見えます。

なんとこの施設では、内部に、在りし日の秋田藩増毛元陣屋を再現した建物を作っていました!

再現された元陣屋の左側です。

そして右側です。大きすぎて、一枚におさまりません。笑

それでは、中に入ってみます。


にしん街道で、ニシンに関連して、
歴史的建造物を訪ねて歩くつもりでしたが、
またまた、寄り道しています。
また、こんどの日記も、
長くなってしまいそうですね…。
(スミマセン)


(つづく)

コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 65 - 「北海道海鮮居酒屋 いろりあん 大通本店」で晩ごはん / TBSテレビ社外モニター / 神窓(2021年11月7日/5日め)

2021年11月7日 夜の北3条通りを歩きました。つきあたりに見えているのは、北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)です。(北海道札幌市)


11月7日(日)


楽しかったウポポイの一日。


ポロト湖の静かな佇まいが、かつてここでおおらかに暮らしていたであろう、アイヌの人々のイメージと重なりました。


そして、夫の運転で、札幌に戻ります。
MIYOは、疲れて車内で寝てしまったのですが、
目を覚ますと、そこは別世界でした。笑
(夫からはいつも、
 「のんきなもんだ🤣🤣」と言われます。😅)


夜の北3条通り。つきあたりに見えているのが、北海道の象徴になっている北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)です。


【北3条通り】
赤れんが道庁からまっすぐ東に伸びるこの通りが造られたのは、北海道開拓時代の明治初期。開拓使によって「札幌通り」と名付けられていたそうです。通り沿いには札幌農学校や開拓使の紡績場、製網場、味噌製造所などの官営工場が立ち並んでいました。
この通り沿いには、人気の大型ショッピングセンターであるサッポロファクトリーもあります。象徴的な赤レンガの建物は、サッポロビールのルーツである開拓使麦酒醸造所の工場跡です。隣には第2代北海道庁長官・永山武四郎の私邸も残されています。
(サッポロファクトリーに行ったときの日記はこちらです。)
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 26 - 旧三菱鉱業寮からサッポロファクトリーへ(2021年11月5日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。
コロナでもウポポイ3。札幌2週間ホテル暮らし 27 - サッポロファクトリー(アウトドアカフェ ミールラウンジと札幌開拓使麦酒醸造所)/ 長女は福岡ひとり旅(2021年11月5日/3日め) - MIYO'S WEBSITE - 全盲難聴のんたんの記録と卵巣ガン、そして旅日記。
そんな「北3条通り」は、札幌で初めて舗装がされた道路でもありました。1924年に、赤れんが庁舎前から駅前通りまでの区間(現在のアカプラ)が、ブナ材で作られた木製のレンガで舗装されたのです。木レンガの舗装は北海道の気候に適さず、その後アスファルトで覆われてしまうことになりました。現在では、赤レンガ道庁に合わせてレンガ敷きになっています。その後、アカプラとして再整備された現在でも、そのレンガ敷きの下には当時の木レンガが残されており、「札幌舗装道路発祥の地」碑が立っています。

この開拓時代の面影を残す通りの両側に、今では近代的な商業ビルのカフェテラスが並び、新旧が調和した、美しい空間になっています。


北3条通りは、昼間も美しいのですが、
夜の光景もまた格別でした。
イチョウ並木に感動しながらも、
今日の晩ごはんのお店へと、先を急ぎます。


この日訪れたのは、「北海道海鮮居酒屋 いろりあん 大通本店」。ビルの地下1階にある、普通の居酒屋さんです。^^


帰りの車の中で、
ぐるなびを利用してお店を検索しました。
そして、札幌市内に到着する、
だいたいの時間の目途がたってから、
スマホでお店に予約を入れてありました。


いきなりお店に行っても、
たぶん席はあると思いますが、
このひと手間をかけるだけで、
楽天ポイントが100ポイント付与されます。
(当時は、モッピーからぐるなびのサイトに
 入ることができたので、
 さらに100ポイントゲットしました。)
 *現在は、ぐるなびはモッピーのメニューからなくなっています。代わりに、PayPayグルメが選択肢に入りました。なので最近は、ぐるなびよりもPayPayグルメから予約することの方が多くなりました。


テーブルに案内されたあと、お店の人から、こんなのを渡されました。これをスマホで読み込んで、表示されたメニューから選択してオーダーするシステムだそうです。


最近はこういうお店が増えましたが、
このときは初めての経験だったので、
ちょっと驚きました。^^
今や、スマホがないと、
居酒屋で注文すらできないんですね。😅


このときに食べたものです。


仙鳳趾産生牡蠣。200円ですよ、200円!東京で200円なんて言われたら、10個くらい注文するかも。笑

舞茸の天婦羅(490円)。

いろりあん盛り(1580円)。刺身の盛り合わせを頼んだら、すごいのがどーーんと来ました。笑

帆立のバター焼き(590円)。

ナスの揚げびたし(490円)。

仙雲ハムカツ(690円)。ハムカツよりも生牡蠣や帆立の方が安いなんて、ありえないですよ。🤣🤣

ブリカマの塩焼き(590円)と北あかりのじゃがバター(490円)。

コマイの一夜干し2本(590円)。北海道に来たからには、やっぱり氷下魚です。^^


安い、おいしい、と
調子に乗って食べすぎ飲みすぎで、
9960円になってしまいました。😅
(ホテル代よりも飲み代が高い、
 私たちです。汗)


ラインのお友達登録をしたので、飲み放題が1190円でした。^^ いただいたレシートは、もれなくLINEレシートに送信しています。レシート1枚につき1ポイントもらえます。^^


いい気分で、ホテルまで歩いて帰ったのですが…。


狸小路で、サンドラッグを発見! ここですっかり我に返ります。🤣

だってこんなキャンペーン中だったんですよ…。


200円以上お買い物すると、
50ポイントがもらえるのですが、
家の近所にサンドラッグがないので、
そのまま忘れてました。
そして札幌まで来て、
サンドラッグを見て、酔いがさめました。爆


ホテルの宴会で食べるおつまみ+おやつを購入しました。

さらにコンビニに寄って、翌日の朝ごはんも購入。


朝ごはんは、ほぼ毎日、
「コンビニで買ったパンと
 ホテルに置いてあるコーヒー」
でした。
だって、ホテルの朝食ビュッフェ、
ひとり2000円もするんです。(ムリです。)


2週間もホテルにいたのに、
2000円の朝ごはんを食べたことは、
結局一回もありませんでした。
(ケチですね。^^)


それでも、毎日コンビニで買ってたら、
2週間でけっこうな金額に…、
いいえ、なりません。笑
だって、家にあったクオカード、
ありったけを持ってきましたから。🤣🤣


見てください。クオカードの山。笑 3000円券もたくさんあったので、たぶん、ン万円分くらいあると思います。


私は、25年前から、
TBS番組の社外モニターをやっています。
番組の感想をレポート提出するのですが、
その謝礼が、クオカードで送られてくるのです。
コンビニにはあまり行くことがないので、
使う機会がなく、
こんなにも貯まってしまいました…。😅


そんなわけで、北海道に
たとえ一ヶ月以上滞在しようと、
コンビニの朝ごはん代はかかりません。爆


朝ごはん代はかからないんですけどね…。
我が家の場合、
夜の居酒屋代の方が高くつくんですよね。😂😂


クオカードで払える居酒屋がないものかと、
ときどき本気で考えたりします。笑


【5日めのダイジェスト】
ウポポイ(いざないの回廊、歓迎の広場、エントランス棟、体験交流ホール、体験学習館、国立アイヌ民族博物館、チキサニ広場、イカラウシ工房、伝統的コタン)→焚き火ダイニングカフェ HARU RAN NA(焚き火料理)→北海道海鮮居酒屋 いろりあん 大通本店(食べすぎ、飲みすぎ)


(つづく)


(おまけのお話1)


TBSテレビパソコンネットワーク社外モニター

について、少しだけ書きます。


この制度は、1997年に始まりました。


【TBSテレビパソコンネットワーク社外モニター】(サイトより)
障がいのある方、そのご家族、および支援されている方々から、TBSの番組についてのご意見やご感想を寄せていただく制度です。
制度の目的は、テレビ局に何が望まれているかを把握すると同時に、作り手が気づかない問題点や掘り下げられていない意識などを考える仕組みをつくることにあります。


モニターになることができるのは、
障害者手帳のある方やその家族・支援者です。
私は、「障害者の家族」のカテゴリーで
登録しています。


以前のことですが、
「世界遺産」という番組が好きでした。
(当時のスポンサーはソニーでした。)
その感想を毎週送り続けていたら、
製作スタッフの方々に覚えられてしまい、笑
あるとき、お礼のお手紙と共に
「製作スタッフ一同より」と、
プレゼントをいただいたことがあります。


お手紙には、
「スタッフ全員で、
 いつもレポートを拝見しています。」
とありました。
当時は、本当に読んでもらっているとは
あまり期待していないで、
レポートを書いていました。
でも、読んでくださっていたのですね。^^
製作側の人々が、
視聴者から直接感想を聞く機会というのは、
実は案外少ないのだと、
そのときに初めてうかがいました。


もう20年くらい前の話です。
あの頃は子育てで忙しかったはずなのに、
HPで育児日記を書き続け、そのうえ、
テレビのモニター文まで書いていたんだ…、
と思うと、自分のことながら、あきれます。
いつ、そんなことをやっていたんでしょうね。😅


(おまけのお話2)


ウポポイの国立民族学博物館での写真が、
あまりにもたくさんあり、
日記の中で掲載しきれませんでした。
ストックされたままになっている写真を、
少しだけご紹介します。


前日の日記でご紹介した「伝統的コタン」は再現されたものですが、これは、実在していたアイヌコタンの写真です。すごい臨場感です。

伝統的な家(チセ)の中に作られた、神窓です。ウポポイのチセの中にも神窓がありました。


【神窓】
カムイが出入りするための神聖な窓とされ、儀礼のときにだけ使われました。窓のまわりは、葦でできた織物で飾ってあります。


儀礼で使われた品々です。

二ヴフの儀礼用の太鼓とばち。

狩猟の時は、こんなかっこうでした。


また折があれば、写真をご紹介したいと思います。